楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

今日訪問したお寺は、こんなお寺でした。

2022-06-30 17:20:23 | 日記

徳林寺の山門前にやって来ました。脇にある石柱に、武蔵野三十三観音霊場17番と書かれてますね。

おやっ、ここでも可愛らしい小僧地蔵が3人もお出迎えしてくれました。

近くには、六地蔵も並んで立っています。

こんなお地蔵様もあります。

ここは何のお堂なのでしょう?

梵鐘堂ですね。

いろいろとお参りするお堂があります。

大きな涅槃像もありました。

本堂も、さすがに立派なものでした。

この徳林寺というお寺は、曹洞宗で福聚山と号します。鎌倉幕府を倒幕する際(正慶2年1333年)に新田義貞が当地に本陣を置いたとされ、当所の地頭小澤某という方が所持する唐像の正観音を閲覧して当寺の本尊としたともいいます。その後小澤主税法謚白翁常清が開基となり、僧存松(天文2年1533年)が開山したそうです。

                         つづく

 


埼玉方面に行きました

2022-06-26 10:58:59 | 日記

ちょっと足を伸ばして、埼玉方面へと行きましょう。

降り立った駅はここです。以前にも行ったことはありましたが、しばらくの間に駅前はすごい変わり方をしていて驚きました。

東へ向かって少し歩いて行くと、前方に大きな観音像が見えました。

福徳院というお寺のお堂です。この福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には、狭山市駅西口開発のため、綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。

こんな可愛いお地蔵様が、「いらっしゃいませ」とお出迎えしてくれました。

綿貫家一門の墓所とあります。ところで、この綿貫家とは市の資料によると、むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽だったそうです。あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』その井戸といいますのは、一つめは隠居場のあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺のあたりだったといわれております。いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし一揆があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『軍酒山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。とありました。

                            つづく

 


美術館に寄って帰りましょう

2022-06-21 20:38:54 | 日記

しばらく歩いて

街中に、こんなオブジェを見かけました。そうだ! ここには熊谷守一美術館があるんだとひらめきました。

今度は、かなり小さな公園に来ました。千早緑地公園という東京都豊島区にある「千早緑地公園」は庭造りや接道部緑化の参考になるよう工夫し作られた公園です。住宅街にあり、規模は小さいですが藤棚や庭石なとを配した日本庭園の一角と、西洋風の中庭パティオを設置した西洋風庭園の両方が楽しめるつくりになっています。一休みして行きます。

御嶽神社という地元の神社ですね、通りがかりの道の一角にあります。

やって来ましたよ。熊谷守一美術館 豊島区千早2-27-6 1985(昭和60)年、画家熊谷守一(1880~1977)の旧宅跡に、次女で画家の熊谷榧が設立した。守一は97歳で亡くなるまでの45年間、ここで創作活動を続けた。2007年、榧氏より守一作品153点を豊島区に寄贈し、豊島区立熊谷守一美術館として新たに開館した。休館日 毎週月曜日・年末年始(12月25日から1月7日まで)
観覧料 一般500円 / 中・高・大学生300円 / 小学生100円 ということですが、この日は特別展で観覧料は700円でした。

入ると、カフェもあります。2階と3階に遺品などが展示され特別展として見られるそうなので上がります。

途中の階段に、ご夫妻の写真が飾ってありました。仲良く碁を打っていらっしゃるのですね。

遺品展示は、このように飾られていました。絵を描く道具や日常の愛好品などが数多く飾られています。

熊谷守一美術館を後にして帰りの道によって腹ごしらえしたのがここです。店の構え通りに美味しくいただきました。

この目の前は、有楽町線の要町駅になっています。地下の中へもぐって帰ります。

                          この稿 終わり


長崎神社の見所をもう少し紹介します

2022-06-16 10:19:13 | 日記

ちょっと引き返して、もう少し見て見ましょう。

この木なんの木? 幹と根っこが一緒になってせり上がって来ています。

奥にまだまだ狛犬がいたんです。これは親子でしょうか。

 

 この狛犬は、こちらを睨んでいます。「お前は何者じゃ」と正に番犬ですね。

招魂社、稲荷社とお参りした後に本殿へと来ました。

それでは、改めて先へ参ります。

大きな建物が見えました、看板にあるように日本医療科学大学という大学です。現在のコロナ禍では貴重な研究が役立っているのではと思いながら通り過ぎました。

今度は、道路沿いに小さ目な祠がある御嶽神社へと来ました。

長崎御嶽神社は、豊島区千早にある御嶽神社です。長崎御嶽神社の由緒は不詳ながら、長崎八幡神社記念碑にある「江戸時代前期延宝年間(1678)長崎八幡神社・御嶽神社・羽黒神社の三社を当時の村の有志の方々のお力で建立された」と記載のある御嶽神社と思われます。との説明でした。ここにも、感染終息祈願との旗が掲げられていますね。毎日、祈願されている人もいるようですよ。

                        つづく


いろいろな面白いものがありそうですよ

2022-06-15 13:48:42 | 日記

その先を歩いて行くと

きれいな絵が描かれた建物が、長崎小学校でした。

今度は、古びた大きな格式ある屋敷が見えました。岩崎家住宅といい、豊島区南長崎4丁目にあります。旧長崎村字五郎窪の旧家で、清戸道沿いで肥料や糠を商っていたということ。江戸末期の建築で、1918(大正7)年に解体されましたが、その後、当時と同じ様式で再建されたそうです。清戸道は江戸中期以降、近郊農村の野菜を神田市場へ運ぶ産業道路であったということです。

もう一度、駅方向へ向かうことにします。

今度は、正面に神社が見えて来ました。かなり大きな神社ですね。

鳥居をくぐって入って見ます。

ご覧のように長崎神社という神社です。豊島区長崎1丁目9ー4にあり、長崎神社の創建年代は不詳ですが、長崎村の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社と称せられていました。明治の神仏分離令により十羅刹女神に代わり須佐之男命を祭祀し、氷川神社、そして長崎神社と改称し、現在に至るそうです。

この碑は、神社前の停車場開設記念碑ということで、現在の西武池袋線椎名町駅の開設を記念したものなのでしょうか。

神社を後にして、少し行くと椎名町小学校がありました。

                          つづく