小さな祠の中に、お地蔵様が祀ってあります。放光地蔵というそうですが、
ところどころで見かけるこのお地蔵様、若い人たちの結婚を願い、幸せな家庭をお守りするお地蔵だそうです。身近な幸せを願う信仰のために造られたお地蔵様なのでしょうね。
これは「霧吹きの井戸」という井戸があった跡ですね。
柳瀬川の城前橋という場所まで来ました。柳瀬川は、お隣の埼玉県と東京の清瀬市との境界線になっています。
周囲に目をやると、見事なばかりに柿が鈴なりになっていました。
つづく
小さな祠の中に、お地蔵様が祀ってあります。放光地蔵というそうですが、
ところどころで見かけるこのお地蔵様、若い人たちの結婚を願い、幸せな家庭をお守りするお地蔵だそうです。身近な幸せを願う信仰のために造られたお地蔵様なのでしょうね。
これは「霧吹きの井戸」という井戸があった跡ですね。
柳瀬川の城前橋という場所まで来ました。柳瀬川は、お隣の埼玉県と東京の清瀬市との境界線になっています。
周囲に目をやると、見事なばかりに柿が鈴なりになっていました。
つづく
訪問したのは、清瀬の郷土資料館などです。
ここは下宿地域市民センターという場所です。
中へ入ると、このようなモニュメントもあります。
昔の古民家も敷設されています。日当たりの良い縁側でのひなたぼっこは懐かしいですね。
入り口の門もしっかりしたものでした。
つづく
さぁ、そろそろ山を下りて帰ることにしましょう。
こういう風情のある店もあるんですね。
この店の前には、「木づかいの飯能銀座商店街」という看板が立っていました。
何と、ここは飯能銀座という通りだったようです。
もうしばらくすると、駅になりますね。
ちょっとした広場に、どこかで見たような銅像が建っています。
どうもよく似ていると思ったら、やはり「鉄腕アトム」の像でした。1983年に飯能市の青年会議所が記念事業の一環として、地域のシンボルにしようと建てたそうです。最初はニコニコ池ともだち広場という処にあったそうですが、ここに移設されたそうです。落成式には作者の手塚治虫しも見えたとありました。この説明版の写真にも写っていますね。
おわり
天覧山は、標高197m(山頂の看板では195mと記載)。山というよりは丘陵という風情です。天覧山は、山麓にある能仁寺に愛宕権現を祀っていたので、もとは愛宕山と呼ばれました。それが時代を下り、徳川五代将軍の綱吉の病気平癒のお礼に、生母桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので、羅漢山と呼ばれるようになりました。それが(明治16年)4月18日に、山麓で行なわれた近衛兵春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監したことにより、天覧山と呼ばれるようになり、行幸記念碑が建てられています。これがそうです。標高は低いが頂上からの眺望はよく、飯能市街が一望できるのはもちろん、奥武蔵・奥多摩の山々のほか、遠く富士山を望むこともできます。史跡や文化財も点在し、春の桜、初夏のツツジ、秋の紅葉など一年を通じ見るものも多く、老若男女に親しまれています。付近の飯能河原、多峰主山、宮沢湖、巾着田などとあわせたハイキングも楽しいものです。飯能駅から登り口まで徒歩約20分、バスなら天覧山下バス停から登り口まで徒歩約5分、頂上まではそこから20分程度。飯能市内の日本酒蔵、五十嵐酒造では主要銘柄名を「天覧山」として販売しており、Tシャツなどのグッズも展開しています。
これらの石仏像は、徳川五代将軍綱吉がたまたま重い病におかされた折り、生母桂昌院は大変心配して、親しかった飯能出身の大名・黒田直邦に相談したところ、直邦は、その菩提寺・能仁寺の基和尚による病気平癒の祈願をすすめ、和尚は直ちに江戸城に召されて祈願を行いました。その霊験により、たちどころに健康を取り戻したといいいます。桂昌院はこれを喜び、報恩感謝のしるしに十六体の羅漢像を寄進し、ほかに綱吉の守本尊の伽羅木観音像と、金襴の袈裟を贈ったと伝えられています。これまでの山は愛宕山と呼ばれていましたが、このときから羅漢山といわれるようになり、後に天覧山と改称されました。
天覧山からは、飯能の町が一望できます。
つづく
本堂の脇には、このような立派な鬼瓦が置いてありました。
訪れた時期は、ちょうど紅葉の季節できれいに彩られた庭木に癒されました。
当地では飯能戦争といわれますが、いわゆる戊辰戦争です。慶応4年の5月23日のこと、天野八郎と合わず上野の彰義隊を離れた渋沢成一郎を首領とし、彰義隊脱退者で結成した振武隊は、青梅街道の田無(現西東京市)の総持寺を本営とする。ここで成一郎は尾高惇忠らと隊士を集める。5月15日、彰義隊と新政府軍の間で上野戦争が起こる。その前日に箱根ケ崎(現都西多摩郡瑞穂町)に入っていた振武隊も行動を開始し上野に向う。しかし、彰義隊敗戦の報を受け、田無に戻り、彰義隊の生き残りを吸収して1,500名に膨れ上がった振武隊は5月18日、能仁寺に入り陣営を構築する。5月23日、3,500名の官軍は早朝から攻撃を開始、わずか数時間で勝敗は決し、寺はほとんど焼失。成一郎は被弾して負傷するも惇忠に抱えられて伊香保(現群馬県渋川市)に逃れた。参謀の渋沢平九郎(尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子)は変装して顔振峠を越えて敗走、黒山村(現入間郡越生町)で官軍に捕捉され負傷、平九郎は割腹して自害した。22歳。成一郎と惇忠はなおも徹底抗戦の主旨を貫き、密かに江戸に戻り榎本武揚の艦隊に合流し、最後は函館まで転戦する。と解説されています。ちなみに、渋沢平九郎が自害した場所には、その碑も建っています。
つづく