楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

その先には、何があるかな

2020-08-31 15:06:18 | 日記

ひばらく行くと、地元の有力企業の敷地内に小さな稲荷社がありました。

横断歩道を渡って先へ進みましょう。

見えてきたのは、このお寺でした。どういうお寺なのでしょう? このお寺は日蓮宗の寺院で、清立山と号すそうです。もともとは板橋区徳丸にあって寛文年間(1664)に中山法華経寺(千葉県市川市)から寺号・山号を受けていたといいます。明暦2年(1655)から菅沢新田の開発がなされ、長谷川忠兵衛という人が開基檀那となり、徳丸にあった寺院を当地へ移建し、円応院日近大徳(元禄13年1700年寂)が開山したといいます。境内に入ると

 がらんとして寂しい感じ、お寺とは思えないものでした。

一角に、少しばかりの墓地がありました。もう少し行きましょう。

今度は、またお寺に来ました。それも真新しいお寺です。建て替えたのでしょうか?

智遍寺と言うそうです。この智遍寺というお寺は、高野山真言宗のお寺で、平成30年に完成して高野山を感じさせる作りになっております。本尊の大日如来をはじめとする仏様が祀られており、本堂は皆様にも身近に感じて頂けるようになっており、左手の護摩堂には不動明王坐像が祀られており、右手の位牌堂には阿弥陀如来像が祀られております。こういう説明がありました。

志木街道沿いには、楽しめる社寺がたくさんありますね。

 あれっ、道路の向かい側にはモクレンの花でしょうか、きれいに咲いていました。

                               つづく

 

 

 

 

 


また新座から歩いています

2020-08-19 19:33:16 | 日記

新座警察の交差点から清瀬方面へと進みましょう。

この地元企業の敷地内に、こんな小さなお稲荷さんが祀られていました。さらに行くと、

今度はかなり大きな神社がありました。

若宮八幡神社という神社だそうです。この若宮八幡神社は、明暦2年(1656)より開発が始められた菅沢の鎮守として、池上本門寺の鎮守とされた八幡神社の分霊を奉斎して創建したといいます。明治初年村社に列格しました。寛政三年(一七九一)の紀年銘が刻まれた奉納石(力石)をはじめ、明治六年(一八七三)、断髪令の際、髷を記念に残した奉納額など、文化や世相の推移がうかがわれる文化財が残っています。

境内には、新座で最初の水道(一九四九)の布設を記念した碑文などもまつられています。とのことでした。

狛犬もなかなか怖い顔つきをしてました。

                                     つづく

 


さて、隣のお寺を覗いてみる

2020-08-17 16:51:52 | 日記

これが入り口です。左右には、怖い顔をした狛犬が建っています。

きれいな水が流れている中に、これまたきれいな観音菩薩像が立っています。奥へと進むと、

猿田彦神社という小さな祠と中には、こんな像が安置されていました。

さらに進むと、洞窟です。やっと入れるくらいのものでしたが入るのは止めました。

これは稲荷神社みたいですね。

水神様だそうです。

ところで、このお寺はどういうお寺なのでしょう?

天台宗の寺院で、清龍寺といい神龍山不動院と号します。清龍寺の創建年代は不詳ですが、平安時代の天長7年(830)にこの地の自然湧水を見て、慈覚大師円仁というお人が開創したといいます。不動院清龍寺の所蔵文化財には、不動の瀧、板石碑、徳川家茂念仏、(葵の紋入り)不動明王、最初に見た金色観音などがあります。

さて、駅の方へと向かいましょう。おや、右手にこんな場所が現れました。うっそうと茂った森のようです、少し涼んで行くか。

あまり手入れもされていないようで、人は出入りしていないのでしょう。坂道を駅方向へ進みます。

 この辺りは白子宿と言って、江戸時代に川越藩と江戸城下を結ぶ川越街道ができる際に形成された宿場町だったそうです。三町からなり三軒の本陣が持ち回りで務めていたとされています。また、5と10の日には、六斎市と言って賑やかな市も立ったといわれています。

                               つづく

 


今日は、ここから行くよ

2020-08-13 09:24:42 | 日記

みんな見たことあるでしょ、ここは何処? そう、これは銀河鉄道というアニメに出ていたキャラクターです。改札を出て東口方面へ

おやおや、ここにもいろんなアニメ像があるよ。さぁ、バス乗り場へと

着いたところはここ、何処だか分かりますか?大きな駅だなぁ

駅前に、こんなモニュメントがありました。これは歌の歌碑かな?懐かしいよく聴いた童謡だなぁ。童謡詩人の「清水かつら」の歌碑だそうです。晩年をここで暮らしたことで出来たのだそうですよ。さぁ、西へと向かいます。

こんなところに、コミュニティセンターが

何やら学校らしきものがありました。

今度は、大きな木があるちょっとした広場へ来ました。

正面を見ると神社です。

この地、白子の鎮守、熊野神社とありました。

白子熊野神社は、和光市白子にある熊野神社です。白子熊野神社の創建年代は不詳ですが、那智熊野大社の「米良文書」に「しらこ庄賀助、庄中務丞」とあることから中世には存立していたものと思われます。江戸時代には白子村の鎮守社として崇敬され、戦前までは村社に列格していました。社伝によると、およそ一千年前といわれている。祭神は、伊弉冉尊、建御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命とされ、また、境内神社として、富士嶽神社、国平神社がある。中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社(和歌山県)に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には、多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀助、庄中務丞」の名があり、和光市域の白子に居住していた領主にも、熊野信仰が伝えられていたことがわかる。とあります。

すぐお隣には、また古びたお寺があります。

                                     つづく

 

 


水天宮はどんなところ

2020-08-01 09:21:57 | 日記

さて、日枝神社のすぐお隣にあるのが水天宮です。そこで、日枝神社水天宮といい、江戸時代には上中下清戸村の鎮守社であったといいます。明治時代に入り水天宮の分霊を勧請して境内に奉斎したそうです。また、ここは日本橋にある水天宮様と同様に、地元では大変親しまれていて七五三のお祝にはみなさんこぞってお参りする場所になっています。

狛犬さんもいらっしゃいませと吠えています。それでは周りを見て見ましょう。

小さなお社が並び、その一つの八雲神社です。

ここは少し高台にある御嶽社といいます。

たくさんの灯篭が立っていますね。もう一度おさらいをして見ます。

一基高さ171㎝、寛文四年(1664年)造立銘 一基高さ164㎝、宝永七年(1710年)造立銘二基の石燈籠は参道の両側に向い合って建てられ、竿は六角柱でそれぞれに「見ざる」「聞かざる」「物言わざる」の三猿が彫刻されています。日枝神社は山王様と呼ばれて人々に親しまれ、猿は山王様のお使いと信じられていました。燈籠の竿部に「山王開闢天正七天(1579年)中嶋筑後守信久開之」と彫られ、さらに寛文四年造立の燈籠には山崎傳七良以下、下清戸村11名が、又宝永七年造立のものには中清戸村小寺字佐衛門尉重政の名が刻まれており、中世末から近世にかけて、清戸の開発を知る貴重な手がかりとなっています。日枝神社水天宮所蔵の文化財としては、日枝神社三猿の石燈籠(清瀬市指定文化財)日枝神社本殿(清瀬市指定文化財)日枝神社不動明王立像(清瀬市指定文化財)日枝神社のスギ(清瀬市天然記念物)清戸の獅子舞(清瀬市指定無形民俗文化財)などがあり、貴重なものがたくさんあります。さて、次に進みましょう。

少し先に行くと、右手に入ったところに、こんな小さな地蔵堂があり入って見ると、

お墓のようですが、六地蔵もいや八地蔵かな?

休心庵というお寺のような場所でした。しかし、お寺のようにも見えませんでした。

                            おわり