楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

今度は、お寺に来ました

2021-05-18 16:37:55 | 日記

立派な山門を入ると、ずらりと六地蔵が並んでいます。

本堂もなかなかのものです。

徳林寺というお寺ですね、聚山と号します徳林寺は、鎌倉幕府倒幕の際(正慶2年1333年)に新田義貞が本陣を当地に置いた際、当所の地頭小澤某が所持する唐像の正観音を閲覧して当寺の本尊としたともいいます。その後小澤主税法謚白翁常清が開基となり、僧存松(天文2年1533年)が開山したといいます。武蔵野三十三観音霊場17番です。徳林寺所蔵の文化財  絹本着色釈迦涅槃図(狭山市指定文化財) 絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)という解説でした。由緒あるお寺なんですね。

 

こんな可愛いお地蔵さんもありましたよ。さて、次はどこかな

今度訪れたのは、福徳院というお寺でした。ここ福徳院の不動尊の来歴は、「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。
福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には、狭山市駅西口開発のため、綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。徳林寺とも関係があったようですね。それでは、そろそろ駅の方へと向かいましょう。

                           つづく

 

 


神社ばかりに出会ったよ

2021-05-15 09:38:15 | 日記

ぼちぼち歩いて行くと、

子之神社と書かれた鳥居がありました。地元の守り神みたいな神社のようです。

こじんまりした本殿があります。また、しばらく行くと、

小さな社が見えました。近くに行くと大國神社とあります。

また、先へ行くと真っ赤な鳥居が見えます。

ここの神社は、かなり大きな神社で参道も長いですね。

丁度、時期は春先でしたが境内には梅の花が一杯咲いていました。

木の枝に隠れて、ちょっと見えませんが天満天神社という神社だそうです。

天満天神社(入間川)は、江戸期に木材物流で栄えた当地の商家が学芸の向上を願って天満天神の杜を勧請したといいます。当地の氏子は古くから商家と農家に分かれ、商家は殊に繁栄した。これは、江戸時代から明治中期にかけて入間川を利用した西川材搬出の筏流しが当地に一泊したり、取り引きの江戸商人が逗留し、宿屋や遊廓などに金が落ちたことによる。入間川はこのあたりで広瀬となり、筏を休めるには都合がよかったという。また、大正期には鉄道も敷かれ飯能・青梅と結んだ木材の問屋街の出現をも見たのである。当社はこの町の中心地に鎮座し、口碑によると、当地は古くから経済的に恵まれ、文化面に興味を示したところから、学芸の向上を願って天満天神の杜を勧請したと伝えている。祭神は菅原道真公で、『風土記稿』には神体座像なりとあるが、現在は白幣を祀っている。菅公が平安時代に天満天神として信仰されたのは、怨霊を慰めて天災や疫病を避けるものであったが、次第に菅公生前の人格や学識に対して起こった学問の神の信仰となっていった。当社は、古くから多くの物資・文化が流入する土地柄で農業や商業を営む氏子たちが日常生活に必要な読み書きを習う以上に、芸術の薫りを求めたことによって勧請されたのであろう。と解説がありました。歴史のある神社だったんですね。

                           つづく

 


ここはどんな処かな

2021-05-11 11:37:02 | 日記

降りた駅の下には、広い道路が走っている。さぁ、これから出発だ。

近くには茶畑も広がっています。

さっそく、小さな地蔵堂にぶつかりました。また、少し行くと、

 こんな素敵な古い店もありました。酒屋かな何の店なんだろう?

今度は神社に出会いました。

諏訪神社といい、正徳年中(1711-1716)に藤原正如が勧請したものと伝えられ、入間川村のうち入間川の鎮守だったといいます。明治5年村社となり、明治44年中入間川の春日神社、その境内社を合祀したそうです。以下の解説ではこの様です。当社は入間川右岸の河岸段丘上に鎮座している。社の西側、つまり、入間川寄りは、ハケと称する窪地になっており、現在は住宅が建てられているが、古く、ここはお諏訪様の池と呼ばれ、清水が湧き出ていた。また、近くには今でも泉の湧いている所が二カ所ほどあり、もとは飲料水に利用されていた。更に、当社周辺に家を構える人々が使用している井戸は深さ一二、三尺の浅い所から水が出るといわれ、当地が水の便のよい地であることを示している。以上のことから、当社の創建についても、段丘のハケから湧き出る水と、これを利用する村人の生活と深い関係があると思われる。この、お諏訪様の池に住む竜神の話がある。溝、村人が畑仕事を終え、池のそぼを通りかかるとにわかに水が吹き上がり、竜神が狂ったように悶え苦しんでいた。これを見た村人は、たまたま手に持っていたナスを竜神に与えたところ、竜神の苦しみはたちまち和らいだという。以来、竜神はこれを感謝し、村人が病に苦しまぬように守護することを誓った。そのため、村では毎年夏になると竜神にナスを山のように供え、このうちのいくつかを受けて帰る習わしになったと伝え、このナスを食べると一年間無病息災であるといわれている。

さて、今度はどんな場所なのかな・・・

また、神社です。

清水八幡宮といい、狭山市入間川にあります。清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。祭神・清水冠者義高(しみずのかじゃよしたか)は、木曽義仲の子として比企郡大蔵に生まれ、6歳の時伯父源頼朝に人質として鎌倉に呼びよせられ、成人になるや娘大姫の婿となり鎌倉営中に住まわせられていました。その後、父義仲が頼朝と不仲になり誅滅した後、義高も頼朝に疑いを受け謀殺されるとの風評に、変装して寿永3年(1184)4月21日払暁奥州の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)をたよりに逃げましたが、すぐ頼朝の知るところとなり、途中当地入間川八丁の渡し付近で藤内光澄によりついに殺害されました。頼朝の妻政子と大姫がこの悲報に嘆き、また畠山重忠等の進言により無実なことが明らかとなり、当地に壮麗な清水八幡宮の社殿を造営し、政子自ら参拝し義高の霊を慰め、かつ神田を寄附されたといいます。しかし、後の応永9年(1402)8月の大洪水ですべて流失し、後年川原より石祠が発見され、現在の場所に鎮座し再建されました。清水八幡は市指定文化財で、毎年5月の第3土曜日に大祭が行われます。

                               つづく