周辺は茶畑が続いています。
鳥居を除いては、出来たばかりの神社、修復されたのでしょうね。
八幡社とありました。
片隅には由緒書でしょうか、立っていました。
お隣にも、赤い鳥居の小さな社があります。
こちらは、古い歴史を感じさせる社でした。
つづく
周辺は茶畑が続いています。
鳥居を除いては、出来たばかりの神社、修復されたのでしょうね。
八幡社とありました。
片隅には由緒書でしょうか、立っていました。
お隣にも、赤い鳥居の小さな社があります。
こちらは、古い歴史を感じさせる社でした。
つづく
しばらく歩くと、小さな鳥居とお宮がありました。
近くの氏神様でしょうか? 鳥居に書かれた字を読むと、岩岡八雲神社とありました。
周辺には、クヌギ林があるのでしょうか、周辺にはドングリが沢山落ちていました。
少し先に、上岩岡公民館という建物があります。
さらに進むと、なにやら大きな建物が、前には自然寺という看板が立っています。
近くに寄って見ると、建物には浄土宗、自然寺という看板がはっきりと書かれています。珍しいお寺ですね。普段、お寺の建物としてはとても思えないものです。目の前の道路の拡張に合わせて敷地が無くなり、こうなったのでしょうか?
中を覗くと、まさにお寺の造りです。
同じ道路に沿って歩いていると、小さな地蔵堂がありました。説明版を見ると、耳だれ地蔵とあります、耳が垂れているからなのか、耳だれを治してくれるお地蔵さんなのでしょうか?
つづく
今日、降り立った駅は西武池袋線の小手指駅です。
駅の近くには高層マンションもあるようです。
駅前広場には水の枯れた貯水池でしょうか。
さて、街の方へと歩いて見ます。
表れたのは、
北中薬師堂といわれる堂宇でした。所沢市北中にある北中薬師堂は、寛保年間(1741-1743)に吉祥院の僧が、当地の開拓民六軒の守り本尊として創建、昭和52年信徒25軒により改築したといいます。寛保年間(西暦一七四一〜一七四三年、第百十五代桜町天皇)の頃、埼玉県入間郡三ヶ島新田曹洞宗吉祥院の僧が、病い(体の病と心の病い)や苦しみ災害から人々を救い安楽を与えてくださることを願い、開拓の六軒の守り本尊として設立、石像の下には経文を書いた丸い石が納められています。
季節柄でしょうか、紅梅らしきものが咲き始めていました。
つづく
次に訪れたのは、秋津神社という神社でした。
この秋津神社、創建年代は不詳ですが、旧別当寺であった正福寺の創建とほぼ同時期に創建したものと考えられ、弘安元年(1278)前後から応永14年(1407)前後に創建したと言われます。江戸時代までは牛頭天王社と呼称し、野口の天王さまと称されて大いに賑わいました。明治2年に秋津神社と改称、村社に列格しました。当社の前を通る鎌倉街道(府中街道)の拡幅工事に伴い、平成元年建造物を一新しました。
狛犬も威厳があり、まるで獅子です。
これは庚申塔ですね、ちゃんとお堂に入れられています。
これは力石のようです。
秋津神社は、「秋津のお不動様」として古くから知られ創建は明らかではありませんが、本殿に安置してある石造りの不動明王像が元禄十二年(一六九九年)のものから建立はそれ以前であろうと思われています。本殿は間口六尺(一・八米)、奥行五尺(一・五米)の流れ造りである。文化年間の頃からは信仰が盛んになり、文政五年八月(一八二二年)には社殿の改築が行われました。本殿の正面と側壁三面には、司馬温公のかめ割り、鶴に乗った仙人などの極めて美しく精巧な彫刻がなされています。
つづく
さて、歩いて行き着いた先にあったのは下新井熊野神社といいます。「オクマンサマ」と呼ばれて地元では親しまれています。大晦日から新年にかけて行われる神事には、若〆神事といわれる行事があります。その昔、境内の御神木に白蛇が棲んでいて、参詣の人たちや境内で遊んでいた子どもたちがこれを見ると原因不明の高熱、病に罹るところから、毎年新しく姿を作り変えて災い無きようにお願いしたところ白蛇は現れなくなったそうです。それが基になって、年末から新年にかけ縄で作った蛇を社殿や鳥居に架けて、古いものと新しいものと架け替える行事が行われ、古い大蛇は無病息災を祈願してお炊き上げに使われるそうです。
狛犬の年期の古さと遠方に見えるマンションの対比が時代の流れを感じさせますね。
しめ縄が白蛇を象徴しています。
末社も祠の中に大事に祀られています。
明治5年に村社となり、明治43年当社の南正面に鎮座していた向日神社、字上原の十殿神社、字武蔵野の八雲神社を合祀したといいます。現在の社殿は昭和四〇年に改築したもので、本殿は流造り銅板葺きです。また、旧本殿は現在も境内に保存され、その建立を伝える『元祿十年熊野宮新殿祭遷宮祝詞』が蔵されています。
つづく