楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

西武線で狭山方面へ

2017-12-28 16:53:23 | 日記

 降り立った駅は、西武球場の近くの下山口という駅です。さぁ、出発しましょう!

しばらく東へと進み、西武線の走っている方向へ右折しました。

小さな赤い鳥居と祠が正面に見えて来ました。入って見ましょう、

個人か周辺の地域で祀っている稲荷神社の祠のようでした。

先を進むと、また神社があり翁樹神社という標柱が立っていました。

そばに石塔や新しい石碑が建っています。菩提樹自治会とは何なんでしょう?

そばに二本の大きな菩提樹の木が立っています。

これが本殿になりますが、素朴な造りながら風格も感じさせる神社です。由緒書きを見ると、翁樹神社は、所沢市の山口にある神社で、翁樹神社の創建年代等は不詳ながら、当地菩提木村(菩提樹村)には稲荷社・山王社があったといいます。また、密厳院の掲示では当地の老樹は、「平安時代初頭に弘法大師によって植えられた菩提樹の末葉」だといいます。とありました。

 

                                             つづく

 

 


昔の原山村には、異常な出来事があった

2017-12-20 15:25:44 | 日記

小高い階段の先にある神社は八坂神社と言うそうです。武蔵村山市中藤にあるので、中藤八坂神社という八坂神社です。中藤八坂神社の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿に記載のあることから文化文政年間(1804〜)には既に創建されていたことが窺えます。

階段を上って近づくと、素朴な造りですが、あの額が気になります。

見てください。狛犬のようにも見えますが、何で出来ているのか?よく見ると、なんと木の根っこを狛犬に見立てて額に入れて飾ってありました。

青梅街道は、南へ向うと大曲交差点で直角に西に曲がる。大曲交差点の手前の信号から右折して住宅街に入ると、「吟雪」という銘柄の清酒を造っていた酒造所があったのだが、10年くらい前に酒造所が閉鎖され、今は住宅街となっている。住宅街を歩いていると、路傍に祠が現れ「原山の地蔵尊」の説明版があり「『享保四歳念仏供、原山村』と刻まれています。土地のお祭りのとき、人があやめられその供養として村人が造立したと伝えられており、今なお子育地蔵として信仰されています」と書かれている。祠の中に、赤い帽子と赤い前掛けの大きなお地蔵様の立像(写真)がある。

原山神明社は、武蔵村山市中央にある神明社です。原山神明社の創建年代は不詳ですが、小名原山の鎮守だったといいます。江戸時代のはじめ、屋敷山に前島十左衛門という地頭の屋敷があり、この地を支配していました。その娘にどうしたことか指が六本あり、年頃になると身の不幸を悲しみ世をはかなんで自殺したので、村人が彼女を哀れんでその菩提のために六ツ指地蔵尊を建てたと伝えられています。今では子育地蔵として信仰されています。

その後は、またもと来た道を引き返し、箱根ヶ崎駅から帰宅しました。

 

                             おわり


別名は日枝神社、山王権現とも呼ばれていた神社

2017-12-16 16:16:29 | 日記

「原山観音堂」というところから住宅街の道路を西に向かって500m も歩くと「日吉神社」に着きます。

 この説明版には「創建年代は不詳ですが、御神体は元禄四年(1691)に三ヶ島の照明院から遷宮されたものです。現在の御霊社(社殿内に祀られている)は文化七年(1810)に、波多野文右衛門が奉納したものです。 別名 日枝神社、山王権現ともいわれます 祭神 大山咋尊(くいのみこと)」と書かれている。

これは末社ですね。

境内には、このような忠魂碑もあります。

これが本殿になります。質素な造りですが周囲は木々に囲まれ落ち着いた雰囲気でした。この神社に奉納されている「重松ばやし」は一時衰退しましたが、昭和27年に復活し、市の無形民俗文化財になっています。次に訪れたのは堂宇の萩の尾薬師堂といい、武蔵村山市中央にある薬師堂です。

 自治会の集会所にもなっているようですね。

薬師堂とありますが、萩の尾薬師堂の創建年代等は不詳ながら、天正18年(1590)に滝山城が落城した際に、北条氏の家臣石川土佐守の娘の持仏である薬師如来を祀ったといいます。境内には「延文元年(1356)八月十六日了意禅尼」と刻された宝篋印塔が残されています。

 

これが、その宝篋印塔です。

この宝篋印塔は、延文元年(一三五六)の紀年銘がはっきり読み取れる中世石塔である。宝篋印塔は五輪塔と並んで広く普及した塔か太刀で、基礎、塔身、笠、相輪の四つの部分から成っているのであるが、この塔は現在、笠および基礎部分が残るだけである。しかし、基礎部分の二重の枠(格座間)などに延文期の関東型の宝篋印塔の特徴をよく示している。さらに、銘文には歿故了意禅尼という被葬者名と中世南北朝時代の北朝年号である延文の年号を用いた死去年月日が刻まれている。本市における数少ない中世の歴史資料として、大変貴重な文化財である。とありました。

 誰か、熱心に勉強して調べに来ている方もいました。

 

                             つづく


意外なつながりを発見しました

2017-12-13 09:52:46 | 日記

今度たどりついたお寺はここです。

龍沢山長圓寺と号し、曹洞宗の禅寺で、室町時代永禄十一年(1568)に華山秀委和尚によって開山されました。江戸時代の天保年間(1830〜1843)と嘉永五年(1852)の火災により山門を除いて焼失しました。現在の本堂は文久年間から明治四年(1861〜1871)にかけて建立されました。2度も火災に遭っていたんですね。

山門を入ります。

六地蔵がきれいに並んでいました。大切にされているんですね。

なんと、時節柄でしょうか八重桜が見事に満開でした。

現在の本堂は文久年間から明治四年(1861〜1871)にかけて建立されました。本尊は釈迦如来です。境内には、三ツ木の地頭大河内氏の墓(市指定旧跡)があります。

立派な観音像も建っています。

何の立札でしょう? 地頭・大河内氏の墓とあります。

これらは、一族の方々の墓だそうです。

ご本人のお墓がありました。少し傾いていますが当時としては相当な実力者だったのでしょう。江戸時代に旧武田家臣で旗本の大河内氏が屋敷を構えた場所です。しかし、場所については特定されていません。宿というところに殿屋敷稲荷がありその周辺ではといわれているようです。市内・長円寺には大河内氏の墓所があることからここが本領地と考えられ領地支配の屋敷があるのは確実なのですが。

もう亡くなられましたが東宝の女優で河内桃子(こうち)さんはこの大河内氏の子孫なんだそうです。これは意外です、年配の方はご存知でしょうが、河内桃子(こうち)さんといえば、一世を風靡した清楚な女優さんです。これは新たな発見でした。また、毎年長圓寺を皮切りに横田・中村・馬場地区を巡る横中馬獅子舞(市指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣・無病息災を祈って盛大に行われています。

 

 

                             つづく

 


お寺の後は、小さな神社だった

2017-12-05 11:02:32 | 日記

さて、真福寺を後にして歩き始めたところ近くに中藤百観音堂という建物があった。

 この観音堂は、江戸時代に建立されたといわれ狭山二十番札所で、江戸時代の中頃から奉納され始めた百体観音が安置されています。

 

今度は、道に沿った場所にこんな祠がありました。

赤稲荷とあります。なんでしょう? 説明書きを読んで見ると、次のような文面でした。赤稲荷神社は、武蔵村山市三ツ木にある稲荷神社です。赤稲荷神社は、稲荷総本宮を勧請して嘉永2年(1849)に創建したといいます。赤稲荷は、嘉永二年(一八四九)稲荷総本宮より勧請し、再三移転され現在の場所に祀られました。稲荷は、古代大陸から渡来してきた豪族秦氏の守り神といわれていますが、もともと農耕の神で「稲玉」から「稲荷」・「いなり」に転化したといわれています。

近づいて祠の上を見ると、

見事な龍の彫り物がしてありました。

 

 

                                         つづく