楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

入間川周辺は神社がいっぱい

2020-04-30 19:35:55 | 日記

しばらく歩くと、

こんな建物が見えて来ました。市立中央図書館なんだって。そこからまた少し行くと、

こんな立札が立っています。

立札が並んでいます。随分由緒ある神社らしいです。

本殿に来ましたよ。八幡神社(入間川)は、狭山市入間川にある八幡神社(入間川)です。八幡神社(入間川)は、新田義貞が鎌倉幕府討伐に際して元弘3年(1333)当地に勧請、新田八幡とも称され、入間川村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には八幡宮領五石一斗余、別当を勤めていた成円寺領一石余、及び成円寺境内の鎮守社牛頭天王社(現境内社八雲神社)領三石七斗余の御朱印状を拝領、明治維新の神仏分離例に際して、成円寺は、八幡神社神職に復職、明治7年村社に列格したといいます。と説明されていました。近づいてみると、

こんな立派な彫り物が屋根下に見られます。また、境内社には

こういう立札が立っている末社があります。入間川神社(八幡神社境内社)   第2次大戦の終結により、取り壊しの運命にあった当時の入間川小学校奉安殿を町民の勤労奉仕によって現在の地に移し、昭和22年2月1日鎮座祭を執行、国難に殉じた人々を神として祭りました。 毎年4月の八幡神社の例祭に合わせ鎮座祭が行われています。祭神   日清戦役から第2次大戦までの戦役に殉じた軍人、軍属と、旧入間川町の発展に貢献した文化人の霊を 祀る。地元のみなさんの誇りですね。

                                            つづく

 

 


さぁ、どんどん行きましょう

2020-04-28 09:48:56 | 日記

今度は、徳林寺というお寺に来ました。どんなお寺なんでしょう?

整然と並んだ六地蔵があります。

随分と張り出した山門です。

ここは地蔵堂という建物です。

ここは薬師堂だそうです。

これは、このお寺にある貴重品、寺宝を説明した案内板ですね。

何だか立派な菩薩像が並んでいます。

おっ、可愛らしいお地蔵さん、小僧地蔵と言うらしいですよ。

本堂が見えて来ました。

立派な扁額が掲げてありました。ところで、このお寺は?

曹洞宗寺院の徳林寺は、福聚山と号します。徳林寺は、鎌倉幕府倒幕の際(正慶2年1333年)に新田義貞が本陣を当地に置いた際、当所の地頭小澤某が所持する唐像の正観音を閲覧して当寺の本尊としたともいいます。その後小澤主税法謚白翁常清が開基となり、僧存松(天文2年1533年)が開山したそうです。武蔵野三十三観音霊場17番です。徳林寺所蔵の文化財は、先ほどの解説版にもあった•絹本着色釈迦涅槃図(狭山市指定文化財)•絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)です。

さて、次はどこかな?

意外と近い場所にまたお寺がありました。

大きな観音像が見えます。

近くに来ると、華やかな幟がたくさんある観音堂でした。

枯山水の小さな池もあります。

ここが本堂ですね。福徳院というお寺だそうです。

福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていましたが、二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には、狭山市駅西口開発のため、綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。綿貫家という菩提寺だったんですね。

                                     つづく

 

 

 


次から次へと神社が

2020-04-27 13:31:27 | 日記

周囲を見ると、

見えますか? 子ノ神社とありますね。市のホームページによると、入間川町誌によると子ノ神社は、慈眼寺の境内にありましたが、慈眼寺の消失によって一時、諏訪神社境内に遷されました。さらに諏訪神社の社殿改築の際、ある者が御神体を家へ持ち帰ったところ、悪疫にかかったため、恐れて奥富村のある家へ遷されました。しかし、その家でもまた一家が悪疫に襲われたため、元の諏訪神社境内に仮宮を建てて祀り、のちに子ノ神町内に社殿を建築して御神体を遷したと言う伝承が残されています。祭神を大国主命としていますが、子ノ神は飯能市の子ノ権現社の信仰であり、本尊は子ノ聖大権現とされています。境内社に出雲神社(石祠)があります。毎年7月24日近辺の土曜日には子ノ神社の例祭が行われ、子ども神輿が担がれます。とありました。

ここは、大国神社というそうですが、江戸時代末頃、甲田家先祖佐右衛門が信州木曽の霊岳「御嶽山」により創立し、明治15年御嶽教と称し、一教会として独立を許可されました。その後、明治24年4月4日に御嶽教管長鴻雪爪殿より布教許可を、同時に御嶽大神奉斎主神に神霊を賜りました。とあり、御嶽神社と言えそうですね。さぁ、次が楽しみですね。

この辺りには、多くの神社が集まっていますね。真っ赤な鳥居の先にはどんな神社があるんでしょう。

木の枝で隠れて、よく見えませんが天満天神社というそうです。

天神社らしいですね。周囲には、きれいに梅が咲いていました。

天満天神社(入間川)は、狭山市入間川にある天満天神社(入間川)です。天満天神社(入間川)は、江戸期に木材物流で栄えた当地の商家が学芸の向上を願って天満天神の杜を勧請したといいます。

                                      つづく


さぁ、次に行くか

2020-04-26 15:06:26 | 日記

 わぉ、富士山が見えたぞ!

遠くに見えるのは秩父山脈です。

何となく風情ある建物、しかも自分の名前を表示しているんだから売っている商品にも間違いないんだろうな。

小さな地蔵堂がありました。「黒こげ地蔵」というそうです。

あれっ、今度はこんな立札が立っています。

上を見上げると、鳥居が見えます。

諏訪神社と言うそうです。狭山市入間川にある諏訪神社(入間川)で、正徳年中(1711-1716)に藤原正如が勧請したものと伝えられ、入間川村のうち入間川の鎮守だったといいます。明治5年村社となり、明治44年中入間川の春日神社、その境内社を合祀したといいます。立札にあった「なすとっかえ」は、自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてあるナスを戴いて帰るもので、毎年八月の第四土曜・日曜に行われる神事です。その由来には次の伝説が残されています。 昔、諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰りました。これを聞いた村の若者達が駆けつけてみたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。しばらくして、村人の夢枕に龍神が現われこう言いました。「私はあの沼に住む龍神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。」こうして夏病にナスが効くことを村人は知ったのですが、神前にナスを供え、代わりに龍神からナスをいただき、夏病を避けたといわれています。

しばらく行くと、また神社が、今度はこんな立札が立っています。

清水八幡宮という神社なんですね。

質素な本殿ですが、清水八幡宮は狭山市入間川にある清水八幡宮です。木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲の嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉へ送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘、大姫の婿になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふりかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果てた地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡です。度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われ建てられたものです。

                           つづく

 


今日はここ、埼玉狭山市へ

2020-04-24 11:17:54 | 日記

さぁ、狭山市の駅に到着しました。

行くぞ!

あれっ、もうお寺に来ちゃった。

入口には六地蔵ならぬ七地蔵が並んでいました。

怖い顔した仁王像も立ってるよ。

ここは梵鐘堂かな。

楼門には見事な彫刻が施されています。

拝殿、本堂へと来ました。ところで、慈眼寺というお寺はどんなお寺なんだろう?

調べて見ました。曹洞宗の寺院の慈眼寺は、妙智山と号すそうです。慈眼寺は、正長元年に創建、徳林寺を開山した一樹存松(天文2年1533年寂)が大永年間(1521-1527)に開山したといいます。慶安2年(1549)には寺領10石の御朱印状を拝領して、武蔵野三十三観音霊場16番になりました。

                               つづく