ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

OVA版 戦闘妖精雪風 OPERATION 5

2006-08-27 18:15:30 | アニメ
昨日の日記にも書きましたが、三宮のツタヤまで行ってやっと最終巻借りて来ました。1~4まで置いといて、最終巻だけがない店って一体どうなんだ……。

それはともかくこの記事、今さらですががっちりネタバレです。最後のオチまで書いてます。ていうかこれ、最後のオチが原作と違うんですね。
念のため、ちょっとだけ多めに改行。










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原作ではジャムVS人類の戦いの行く末は不明なまま、雪風が最後の戦いに飛び立った所で終わってますが、アニメでは一応、ジャムの脅威は地球からは去ってEND。
代わりに零が雪風と共に生死不明になってます。

なんていうか、その。
原作の内容すべてを映像で表現するのは到底無理だからなのか、それともそれが作風だからなのか、このアニメは基本的にすごく思わせぶりな演出が多いですね。
ラストシーンから歌詞と映像のないエンディング、そして最後の場面と切ない余韻に満ちていますが、その余韻があんまりにも延々余韻たっぷりに続くため、見てるうちに段々零が死んでいるとしか思えなくなってしまいました。
大好きな雪風と心中できて、本人は多分幸せだと思いますが……ってあれ?これって第1巻のラスト(直前)と同じなんでは。

要するにアニメはあれですか。
第1巻のラストで雪風にフラれた零がヨリを戻し、今度は両想いになって心中する話……ですか?
でも雪風には「どんな手使っても生き残る」という意志があるから、本当に二人……じゃなくて一人と一機が両想い(雪風も零を必要としている)なら、雪風は意地でも死なないし零も死なせない、と言う気もしますね。

やっぱり「グッドラック」文庫版を買おう。ハードカバー版は持ち歩きにくくって中々読み返せない。

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それともう一つ、「FAF航空戦史」や雪風模型のCMを見て思ったのは、アニメの存在によって「雪風」が単なる一作家の手になる一作品ではなく、「雪風」ワールドとでも言うべきひとつの世界になったのなら、それはそれで面白いなと言うことでした。
アニメは小説版「雪風」の映像化というよりも、神林さんが作った「雪風」の世界をシェアしている別作品、という感じがします。
でもアニメ版では第二巻にしてメイヴ雪風が登場するから、スーパーシルフ雪風の出番が少なくて寂しいかも。
そして再び叫ぶ。やっぱ桂城少尉にも出て欲しかった……。

夜想曲

2006-08-27 01:07:22 | 日記
前から「ノクターン」の音源が欲しかったんですが中々入手できなくて、一昨日やっと三宮のツタヤに行ってシークレットガーデンのアルバムGETして来ました。

「ノクターン」原曲の方は、最初と最後にヴォーカルが入ってるんですね。
これがまた、「指輪物語に出て来るエルフの歌って、きっとこんなんだったんだろうなー」と思うような歌声。
ケルト音楽がベースだからある意味自然なことかも知れませんが(指輪もケルトや北欧の神話を下敷きにしているし)。

それでふと、最初に高橋くんの「ノクターン」の演技を見た時に、「エルフは歌うことによって、そこに幻のように情景を浮かび上がらせることができる」という「指輪物語」の一節がふと浮かんだのを思い出してしまいました。

あとついでに、「戦闘妖精・雪風」の最終巻も借りて来ました。

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拍手コメントへのお返事。
そう、しゃべり方に惑わされてはいけませんね(笑)。

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先日の記事、意外に反応が大きくて驚いています。
もしかしたらこれに関しても、又何か書くかも知れません。
でもこれ本腰入れて書こうとしたら、まずはミカ(・ハッキネン)の話から始めなければいけないんですよね……。

高橋くんはアホじゃない

2006-08-24 21:27:23 | 日記
このタイトルの元ネタ、分かる人います?

それはともかく。
私が最初に高橋くんに興味を持ったきっかけは(地元の子だからというのもあるけど)、昔の記事にもあるように、口調の割に中身は意外としっかりした受け答えに「なかなかやるな」と思ったからなのです。

ボキャブラリーはあんまりなさそうというか、時々言葉が足りなくてテロップとかで勝手に補足されてたりしますが(笑)、内容的には本質を外してないというか、自分も周りもよく見えてるな、という印象でした。

彼のもの言いはすごく素直というか正直ですが、この「正直に」というのは実は結構難しいです。人間て、都合の悪い事実はなかなか事実だと認められなかったりしますから。

例えば試合で負けた時、まず負けたこと自体を認めたくないと負け惜しみを言っちゃうし、負けたのが自分のせいだと思いたくなければ言い訳や責任転稼が口を付いてしまう。
でもトリノで8位に終わった時、高橋くんの口からはその手の言葉は出て来なかった。
ひたすら「悔しい」とくり返すのを見て、「あー、ちゃんと自分が見えてるんだなあ」と、却って未来が見えたような気がしたものです。
鏡大好きナルシストもあれはあれで本当だと思いますが、それと同時に、結構シビアな目で自分を見る視点も持っていると思います(たまに、他人の視点から自分を語るような言い回しをしてますね)。

……なんて思ってるところへこんな記事
バンキシャなわたしの成長期/関大

自分だけじゃなくて周囲のこともかなり冷静によく見てますね。
思ってたけど、思ってた以上かも知れない。

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拍手コメントへのお返事。

あんなコメントし難い記事にコメント頂いて恐縮です。
こういう訳なので、彼はあれで案外シビアにものを見てるんじゃないかと思いました。
本人に聞いたら「普通ですよ」ってあっさりかわされそうですが。

それからコメントはなくても拍手にクリックして頂いてる方たち、改めてありがとうございます。とても励みになってます。

スウィングガールズ

2006-08-23 20:30:14 | 映画感想
今の時期にこれと「ウォーターボーイズ」を両方やるってことは、「のだめカンタービレ」の宣伝を兼ねてるんでしょうか。多分そうなんだろうな。
「ボーイズ」は前に見たので今回は「ガールズ」の方で。
元ブラスバンド部員としては、そこはかとなく親近感を感じずにはいられない話。
いやあ、音楽って楽しいですねという映画でした。

これと「ボーイズ」を比べて見て思うのは、

○男子はアホ
○女子は厚かましい

だがそれが青春だ、若さの特権だ!

ということでしょうか。
この監督さんの作品は「ひみつの花園」から見てるんですが、なんかこういつ見ても、バカバカしい中に妙なリアルさがあるように感じます。
「人」の描写が等身大なのかな。

で。
個人的に、楽器を修理する場面で出て来た板金屋の兄弟が気になってたんですが。

弟の方を演じていたのが、ボウケンブルー三上くんだったらしい。
道理でなんか見たような顔だと思った。
なにげにこの役は美味しいと思います。ウザい男(たち)だけど、ちゃんと「ガールズ」を助けてくれるし。ウザいけど純情だし。ていうか純情過ぎてウザいんですけど(どんなんだ)。
この兄弟、二人でフォークデュオを組み、別れた(ていうか付き合う前にフラれたのかも知れない)彼女へ未練タラタラの女々しい歌を披露して彼女たちを心底ウザがらせるのですが。……どうもこのアホな歌も三上くんの自作だったらしいです(てことはギター演奏も多分本人)。

なんていうか、こう……とりあえず、グッジョブ!
カブト風間役の加藤くんといい、日曜朝の特撮に関しては、今年は私には、役者萌えする星の巡りが来ているようです。
がんばれ三上くん。

深淵、或いは悪魔のステップ

2006-08-20 00:29:01 | 日記
そもそも何で私がここまで高橋大輔にどっぷりハマってしまったかと言う話は、ここでは既にさんざんして来たような気がするんですが、私的には実は一番重要なことをまだ書いてなかったりします。というか、今頃になってやっとここで書いてみようかという気分になりました。

いつものことですが、痛いです。今回は特に激痛です。しかも、かなり訳のわからん話になります。中途半端にメタフィジカルです。
地雷の気配を感じた方には、出口の方も御用意したのでここから脱出して下さい。

逃げ遅れた方はいらっしゃいませんね?

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とは言うものの、どこから書けばいいのか。

以前に「天才・秀才・努力の人」でも書きましたが、私にとって「能力が優れている人」は基本的に「秀才」です。だから、世間で「天才」と呼ばれていても、私から見れば『ああ、ものすごい「秀才」だな』という人が多くいます。
私が「天才」と呼ぶのは、根本的に何かが普通と違う人。

そんな私が、「なるほど、これが本物の天才ってものなのか」とはっきり実感した数少ない人が高橋くんな訳です。しかも、それだけでは済まなかった。
個人的に、ものすごいカルチャーショックを受けてしまったんですよ。

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前提としてまず、現実の認識。
人間は外の世界を感じるためのセンサーを持っていますが、捉えたものそのままではなく脳内で情報処理されたものを、それぞれが『現実』だとして認識している。
つまり、人それぞれによって『現実』は違う。
そしてその『現実』=『認識』に大きな影響を与えているのが言葉の力。
「バラの名前を口にすれば、人は幻の花を見る」というように、人は言葉の力によって現実を認識し、意識を固定しているわけです。

で、私はどっちかというと、言葉を操るのは割と得意な方に入ります。
そして今年の冬までは、言葉によって世界の本質を認識し、言葉によって現実を再構築できると思っていました。
そしてそれがとんだ思い上がりであることを思い知らされたのが、高橋大輔の踊る「ノクターン」を見た時でした。

以前にも書いたように、「ノクターン」の振付けには言葉による解釈の痕跡が見えない。
「言葉によって理解し、それをパーツの組み合わせによって表現する」というやり方では、理解することも想像することもできない、イメージそのままを形にした動き。
それを見た時初めて私は、「言葉では理解することも表現することもできない世界」の存在を認識した(というかさせられた)訳です。

言葉は意識を明確化する。
それは曖昧なものを切り捨て、灰色を白と黒に塗り分け、単純化することで明確にするという作業なのだと言えます。
そうやって単純化され、明確になった世界は分かりやすくて安全。
私は言葉によるシールドで自分の周囲を囲って安心していただけなのに、自分では世界を知ったような気分になっていたんです、多分。
実際には、言葉の壁の外にこそ本当の世界が広がっているのに、その得体の知れない世界、自分にとって不安で恐ろしい世界を、見ようともしていなかった。

……なのに、「ノクターン」はそれを表現していたんです。私が見ようともしていなかった、言葉の壁の外の世界を。
それに気付いた時は、そりゃもうショックでした。

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例えば現実を、ひらひら飛んでるチョウチョだとすれば、言葉によって現実を捉えることは、チョウチョを捕まえて標本にするのに等しい。標本にすれば蝶の姿は細部まではっきり確認できるけど、標本になった蝶が蝶の本質だと言えるのかどうか。
……大輔くんは生きて飛んでいる蝶を(ひらひらして捉え所のないそのイメージそのものを)、そのままそこに現出させているように見えました。
そこでは、今日飛んでいる蝶と、昨日の蝶が別物であっても、それはそれで構わない。
何故なら、そうやって常に変化し続けるのが生(ライブ)の現実なのだから。

一度そういうものを知ってしまうと、これまで自分が絶対だと思っていた「言葉」というものが信じられなくなりかけました。私が今まで言葉を使って表現して来たことは、実際にはせっせと蝶を殺して標本を作ってただけなんじゃないのかと。

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この辺で流石に「ヤバい」と感じ、師匠(仮)に相談しました。
でも師匠は基本的に冷たい人なので、「やっと気付いたかバカめ」とかそんな感じ。
それでも、「その内に、言葉の力を前よりも信じられるようになるよ」とは言ってくれましたけど。
それで私が、「でも彼は多分、私には見えない世界を見てますよね。私には、彼の目に何が映ってるのか気になるんです」って言ったら「それはお前は見ない方がいいよ。こっちの世界は色々と大変だから」って。……ちょっと待って。
「こっちの世界」って師匠……見えてるんですか? その世界が。
そう言えば師匠も天才と呼ばれている人だった。マジだったのか。

その時に師匠が教えてくれたのが、「悪魔にギターを習った男」の話でした。
何でなのか誰も知らないけどそう呼ばれている。そして、彼とセッションしたミュージシャンは口を揃えて「あいつは悪魔だ」とつぶやく。
……「ノクターン」を見た後の私には、何となくその話が分かるような気がしました。何か、人知では理解し得ないはずのものを見てしまった、そんな気分を私は既に知っている。
言ってみれば、私にとって彼は、悪魔のステップを踏む男。一旦魅入られてしまうと、地獄の底までズルズル引きずり込まれて行くような……。
でも人間、美しいものよりも、恐いものの方により強く魅かれます。恐ろしいものは忘れられない。

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今は師匠の言った通り、「言葉の力」というものを再び信じられるようになりました。言葉によらない表現を知り、その恐ろしさも知ったからこそ、却って逆説的に言葉の力が実感できるようになったというか。
でも師匠が言う「こっちの世界」は結局いまだに見てないままです。高橋くんの演技の向こうに、時折薄ーく透けては見えるんですけど……その深淵を本当に覗いてしまうと、自分の依って立っている世界が足元から崩れ去って行くような気がしてやっぱり恐い。
きっと私には無理なんだーと思いつつ、でも同時に恐いもの見たさも消えなかったり、多分これからもそんな感じなんでしょう。

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あー……ここまで文章に書いてまとめたら、ちょっとだけ気持ちがスッキリしました。
やっぱりそういう意味では、「ノクターン」が一番悪魔的なのかも。

もうじき関西へ戻ります。