というか、XOIにおける高橋大輔の感想。
結論から言うと、フィギュアスケートの本質って結局はスケートなんだな、と思いました。
スケートを見て何を感じるか、感じさせるか、それが全て。
当たり前の事なんだけど、本質から外れた事ばかり声高に取りざたされて、その当たり前の事を私たちは忘れていたんだと。
そう思いました。
エッジと重心がよくコントロールされた、優れたスケートというのは、何より目に快いものだと思うのです。
敢えて順番を無視しますけど、まず2部のクリスさんとのコラボプログラム。
これ見るとスケートの柔らかいタッチとか、上半身動かす時に、肩甲骨からどんどん末端に向かって関節が連動して動いて行って最後に指先がほんっとーに繊細にふわっと余韻を残していくのとか、それでいてステップではすいすい(ぐいぐい、ではなかったな今回)進んで行く感じとか、表現の美しさがそのまま技術の高さの証明になってるな、という感じだったのです。
あと、即席ペア2組とのコラボでは、何故が出てきた瞬間「劇場支配人」という言葉が頭に浮かびまして、終始「僕の用意したステージへようこそ!」みたいな空気感を出してまして、この人本当に一部であの怖いプログラムを滑ってたのと同じ人なんだろうか…と思わされました。
あと、オープニングとかフィナーレとか、自分の出番じゃない待ち時間の時に踊りでアドリブ入れるのマジ反則です。陸ではこんな風に踊ってるのね…(うっとり)。
かっこ良すぎて、メインの人を見逃してしまうじゃありませんか…。
今回、年上スケーターが多かったせいか、唯一(?)年下のデニス・テンくんとの絡みが兄弟のようで可愛らしかったです。
そういう訳で、1部のプログラムです。新プロです。
曲とか良くわからない。モーツァルトのレクイエムの一部?
でも正直そんな事どうでも良かった。
エラいものを見てしまった。
スケートの技術が高いからこそ表現の幅も広くなる。
スケートの上手さで魅せられるスケーターは、世界には多分たくさんいる。
そこに美しいダンスを乗せてくる事ができるスケーターも。
でもそこに更に、ここまで「感情」を乗せてくるのは、私が知る限りこの人だけだ、と思いました。
「高橋大輔はフィギュアスケートを超えている」と言われる所以。
「フィギュアスケート」に於いて要求される「表現」のレベルを軽く飛び越えている。
音楽に合わせて踊るのではなく、音楽を、そのスケートの力で「感じさせる」事ができるのは、多分彼だけだと思います。
息を詰めて、じっと固まったまま見てしまいました。何か、そうしなければいけない気がして。そして気がつくと、会場全体がそんな感じでした。
そうして身じろぎもできなかった私たちが見たもの。
何なんでしょう。
高橋大輔のスケートは、とにかく目に快い。
その快さを実現するために、繊細なバランス感覚によるエッジのコントロールと、体そのものの「踊る」技術を駆使しているのだと思われますが、そんな事は最早どうでも良く。
その「快い」スケートが視覚情報として目から入ると同時に、「音楽」は単なる聴覚からの情報を超えて、自分の内面にまで入って来る、そんな気がしたのです。
(表現力のないスケーターが滑ると、なんか良さげな音楽が遠くの方で鳴っているような気がする、その反対に)
そして浮かんだイメージは、きっと人それぞれの記憶や体験によって違うのだろうなとは思うのですが、ともかく音楽が、自分の内面に入り込んで、記憶の底からイメージを引き出し、感情をかきたてる。
その時私の頭に浮かんだポエムは、こんなような感じでした。↓
血と泥に塗れて地の底から叫ぶ、
怒りと諦めと呪詛が込められた、
届かない祈り。
こんな血生臭くなった理由は、今私がハマっているあるもの(書けたら書きたい。うう)と関係あるんだろうなと思うんですが…。
ここの所自分の中を占めている血生臭さの中に救いを見出そうというイメージを、自分の代わりに形にして貰えたようで、恐ろしいけれど妙な充実感というか満足感みたいなものがあるのです。
怖いのに、満たされる。何だこの感じ。
ぶっとんだデザインの衣装も、実際に見ると、「この曲でこの振り付けなら」と納得してしまう説得力(そして上半身の筋肉の付き方が個人的に理想の細マッチョ)。
行って良かった。
そして本当に毎回きっちりと、「この人のファンで良かった」って思わせて貰える。これだからやめられませんな。
他にも色々書きたい事あるけど、キリがないのでとりあえずここまで書いときました。
結論から言うと、フィギュアスケートの本質って結局はスケートなんだな、と思いました。
スケートを見て何を感じるか、感じさせるか、それが全て。
当たり前の事なんだけど、本質から外れた事ばかり声高に取りざたされて、その当たり前の事を私たちは忘れていたんだと。
そう思いました。
エッジと重心がよくコントロールされた、優れたスケートというのは、何より目に快いものだと思うのです。
敢えて順番を無視しますけど、まず2部のクリスさんとのコラボプログラム。
これ見るとスケートの柔らかいタッチとか、上半身動かす時に、肩甲骨からどんどん末端に向かって関節が連動して動いて行って最後に指先がほんっとーに繊細にふわっと余韻を残していくのとか、それでいてステップではすいすい(ぐいぐい、ではなかったな今回)進んで行く感じとか、表現の美しさがそのまま技術の高さの証明になってるな、という感じだったのです。
あと、即席ペア2組とのコラボでは、何故が出てきた瞬間「劇場支配人」という言葉が頭に浮かびまして、終始「僕の用意したステージへようこそ!」みたいな空気感を出してまして、この人本当に一部であの怖いプログラムを滑ってたのと同じ人なんだろうか…と思わされました。
あと、オープニングとかフィナーレとか、自分の出番じゃない待ち時間の時に踊りでアドリブ入れるのマジ反則です。陸ではこんな風に踊ってるのね…(うっとり)。
かっこ良すぎて、メインの人を見逃してしまうじゃありませんか…。
今回、年上スケーターが多かったせいか、唯一(?)年下のデニス・テンくんとの絡みが兄弟のようで可愛らしかったです。
そういう訳で、1部のプログラムです。新プロです。
曲とか良くわからない。モーツァルトのレクイエムの一部?
でも正直そんな事どうでも良かった。
エラいものを見てしまった。
スケートの技術が高いからこそ表現の幅も広くなる。
スケートの上手さで魅せられるスケーターは、世界には多分たくさんいる。
そこに美しいダンスを乗せてくる事ができるスケーターも。
でもそこに更に、ここまで「感情」を乗せてくるのは、私が知る限りこの人だけだ、と思いました。
「高橋大輔はフィギュアスケートを超えている」と言われる所以。
「フィギュアスケート」に於いて要求される「表現」のレベルを軽く飛び越えている。
音楽に合わせて踊るのではなく、音楽を、そのスケートの力で「感じさせる」事ができるのは、多分彼だけだと思います。
息を詰めて、じっと固まったまま見てしまいました。何か、そうしなければいけない気がして。そして気がつくと、会場全体がそんな感じでした。
そうして身じろぎもできなかった私たちが見たもの。
何なんでしょう。
高橋大輔のスケートは、とにかく目に快い。
その快さを実現するために、繊細なバランス感覚によるエッジのコントロールと、体そのものの「踊る」技術を駆使しているのだと思われますが、そんな事は最早どうでも良く。
その「快い」スケートが視覚情報として目から入ると同時に、「音楽」は単なる聴覚からの情報を超えて、自分の内面にまで入って来る、そんな気がしたのです。
(表現力のないスケーターが滑ると、なんか良さげな音楽が遠くの方で鳴っているような気がする、その反対に)
そして浮かんだイメージは、きっと人それぞれの記憶や体験によって違うのだろうなとは思うのですが、ともかく音楽が、自分の内面に入り込んで、記憶の底からイメージを引き出し、感情をかきたてる。
その時私の頭に浮かんだポエムは、こんなような感じでした。↓
血と泥に塗れて地の底から叫ぶ、
怒りと諦めと呪詛が込められた、
届かない祈り。
こんな血生臭くなった理由は、今私がハマっているあるもの(書けたら書きたい。うう)と関係あるんだろうなと思うんですが…。
ここの所自分の中を占めている血生臭さの中に救いを見出そうというイメージを、自分の代わりに形にして貰えたようで、恐ろしいけれど妙な充実感というか満足感みたいなものがあるのです。
怖いのに、満たされる。何だこの感じ。
ぶっとんだデザインの衣装も、実際に見ると、「この曲でこの振り付けなら」と納得してしまう説得力(そして上半身の筋肉の付き方が個人的に理想の細マッチョ)。
行って良かった。
そして本当に毎回きっちりと、「この人のファンで良かった」って思わせて貰える。これだからやめられませんな。
他にも色々書きたい事あるけど、キリがないのでとりあえずここまで書いときました。