ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

F1温泉GP・パシフィックGPの想い出

2007-09-24 22:45:36 | F1
今年の日本GPは鈴鹿ではなく富士でやります。自社のプロモーションに使う気満々のどっかの自動車会社は張り切ってますが、見る側に取ってデメリットはあってもメリットは特にない気がするのは私だけですか。
パーク&ライド方式による、シャトルバスのみの交通システムと聞いて蘇るのは、なつかしの、TIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で行われたパシフィックGPの想い出です。
当時はブログはもちろん、ネット自体一般には普及してない時代。コピー本に観戦レポート書いて即売会で売ったりもしてましたが、この機会にちょっと想い出を蘇らせてみました。

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サーキットの場所は、県の北部の山の中。周辺の道は狭く、鉄道も近くには走っていないことからバス輸送となりました。山の中の田舎道に、大型バスがずら~っと並んでいる図が、当時ニュースにもなっていたはず。94年は予選のみ日帰りで見に行ったのですが、岡山駅前の出発時刻が朝の4時くらいで、途方に暮れた記憶があります。

そんなパシフィックGPですが、少なくとも2点は富士に勝る(と私が勝手に思っている)点があります。

(1)天気が良い(ことが多い)…岡山は「晴れの国」なので。
(2)とりあえず、泊まる所には困らなかった。

サーキットのある英田(あいだ)町※1は小さな町なんですが、その隣町の美作(みまさか)町※2に湯郷(ゆのごう)温泉という温泉地がありまして。そのお陰で少なくとも、レースやチームの関係者が宿の確保に苦労する心配はありませんでした。
※市町村合併により、現在はどちらも美作市
つまり、そういうことです。チーム関係者もドライバーも、みんな温泉旅館に泊まってました。

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95年は両親と共に、泊まりがけで決勝レースを見に行きました。
湯郷温泉の入口に当たる大きな橋には万国旗が飾られていました。F1というより運動会のようでした。橋を渡るとすぐの所にあるのが「ゆのごう館」。セナが宿泊したことで有名な旅館です。
現在でも、当時の思い出の写真や品が展示してあるそうなので、セナのファンの方は一度訪ねて在りし日のセナを偲んでも良いかも知れません。ゴルフや桃狩りも楽しめます。

私たちが泊まったのは「たつみグリーンハイツ」。小高い山の上にあって、温泉地を見下ろす立地です。実はこの宿、高級旅館である「たつみ山荘」の別館になっていて、本館よりリーズナブルに泊まれる宿なのです。部屋は旅館というよりアパートに近く、元々は自炊しながらの長期の滞在を想定して建てられたようです。
そんなたつみグリーンハイツの質素なフロントに着いてみると、そこにはこんな看板が。
「歓迎 フジTVスタッフ御一行様」
「歓迎 グリッドギャル御一行様」
…まさか、グリッドギャルと同じ宿に泊まることになるとは。

別館とは言え、食堂とお風呂は本館と共用です。食事を済ませて、温泉にも入って、本館のロビーをうろついていると、何故か本館の入口の方からグリッドギャルたちが入って来ました。
その他にもチラホラ、チームスタッフのジャンパーを来た外国人の姿が。
翌朝確認したのですが、本館の豪華な玄関先には、こんな看板がぶら下がってました。
「歓迎 FERRARI御一行様」
「歓迎 MINARDI御一行様」
今は亡きミナルディと、今は泣く子も黙る2強の一角、でも当時は微妙に低迷していた名門フェラーリ。
イタリアの2チームが同宿でした。
ちなみにフェラーリのクルーには、決勝当日の朝、和食が食べたいからと言う理由でわざわざ別館組の方に食事に来ている人がいました。給仕のおばちゃんにどこから来たのかと聞かれ、通訳を通して「イタリアから」と答えていたのを覚えています。
残念ながら、アレジやベルガーが泊まってたかどうかまでは確認できなかったんですが…泊まってたのかな、もしかして。

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色々と不評も多かったけど、そんなこんなで個人的には結構面白かった記憶があります。
そんなパシフィックGPも、すっかり遠い想い出になりました。TIサーキットの親会社であったタナカ・インターナショナルも倒産し、サーキットの持ち主も変わって名前も岡山国際サーキットになりました。
TIサーキット英田改め岡山国際サーキットには、その後GTのレースを見に2度程行きました。F1のあの狂想曲にくらべればのんびりしたものですが、それでも中々盛り上がってましたよ(勿論GTは車で来場可です。走り屋さんたちが自慢の愛車でやって来るから、駐車場に並んでる車見てるだけでも面白い)。

…そしてやっぱりGTでも、チーム関係者は温泉旅館に泊まってます。

F1ベルギーGP・快晴のスパ

2007-09-17 23:18:14 | F1
何やらコースの外が騒がしい昨今。

前回、傍で見ていて気の毒になるくらいがっくりしていたフェラーリが快勝。ドライバーズポイント的に、ここでコケると絶望的だったキミが優勝して望みをつなぐという。 
まるで絵に描いたような展開だなーと思ったんですが、コースとマシンの相性から予想できることではあったらしい。コースの特性ひとつで有利不利がここまでひっくりかえるってことは、逆にそれだけ今のフェラーリとマクラーレンの力が拮抗してるってことなんでしょうか。
ていうか、2強が突出してしまって、他のチームがおいてけぼりを食っている…。

ここに来てコンストラクターズは
1.マクラーレン 192P
2.フェラーリ 161P
3.BMWザウバー 90P

…となるところ、スパイ疑惑云々で有罪判決を食らったマクラーレンのコンストラクターズポイントが剥奪されたため、
1.フェラーリ 161P
2.BMWザウバー 90P
3.ルノー 39P

…となって、タイトルはフェラーリに決定したようです。でもマクラーレンのドライバーズのポイントは残ってるから、2人を足せばマクラーレンのポイントも分かる訳で…素直に喜びにくいタイトルかも知れません。
それにしても、こうやって改めて見ると、ザウバーのがんばりが光りますね。

一方、ドライバーズポイント。
1.ハミルトン 97P
2.アロンソ 95P
3.ライコネン 84P
4.マッサ 77P

ハミルトンとアロンソが2点差で、いよいよガチの勝負になって来ました。チームメイトが最大のライバルとなります。今までもそうだったけど。
そしてトップと13点差のキミもまだタイトル射程圏内。13点差は決して小さくはないですが、でも一方が1位チェッカーで他方がリタイアなんてことにでもなれば、1レースで一気に10点の差が付いたり消えたりするのもF1なんですよね(去年の鈴鹿がまさにそうだった)。残り3戦、まだどう転ぶか分からない。かも。
…とは言え、今年のマクラーレンは壊れないからなあ…。
ハミルトンが現在トップにいるのも、優勝回数が多いからではなくて、地道に拾った2位3位のポイントが効いてる訳だし(勝ち数だけだと、キミ&アロンソの方が多いのね実は)。
改めて見直したら、今年は今までの所、2台揃って全レース完走してました。あり得ねえ。

ドライバーがどんだけがんばってもどうしようもない所でいきなり壊れるのが今までのマクラーレンだったのに。それでミカがあんだけ苦労してたのに…ズルいわズルいわ(←逆ギレ)。

クリエイターの本能?

2007-09-16 23:42:48 | ノンジャンル
前のエントリーで、表現者の欲求についてちょこっと書いたので、大ちゃんのバチェラレットについてももうちょっとだけ。例によってイタイので、危険を感じた人は避難して下さい。
あと、私の書いてることは妄想です基本的に。あんまり事実には基づいてないので、信じないで下さい。

表現者とかアーティストとか色んな言い方があるけど、ひっくるめてクリエイターと呼びます。師匠(仮)に言わせれば、クリエイターというのは職業ではなくて、そういう人を指すらしいので、ここではそういう定義で。

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前のエントリーで書いたのは、「クリエイターとして名声を得ること」、「自分の作品が認められ、才能を自己確認すること」という2つの欲求でした。でも本当はもっと大切な、根源的な欲求があります。
それは「創ること」そのもの。もうちょっと言うと、自分の中で「創る」という行為は自動的に出来る。創ろうとしなくても勝手に出来てしまうというのがクリエイターという「人種」であって、その自分の中に出来たものをどうにかしてカタチにしたい、自分の空想の産物に過ぎない、忘れてしまえばそれっきりのものを、何とかして現実にしたいというのがクリエイターに取って最も根本的な欲求かなと思います。

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バチェラレットを見て思ったのは、この人やっぱりクリエイターだったんだなということでした。
スケーターとして(試合ではアスリートとして、ショーではエンターティナーとして)、見る側に強く訴える表現は必要で、そう言った点では流石にモロゾフさんは非凡だし、大ちゃんもよく彼の表現を消化していたと思います。
「オペラ座の怪人」みたいな超メジャーな作品は、本来マニアックなのが好きそうな大ちゃんに取っては最初は抵抗があっても不思議はないかなと思うんですが。それでもいざやるとなると、ファントムにがっつり感情移入してやり切りましたよね。
でも多分、それだけでは彼の、クリエイターとしての本能は満たされなかったんだろうなあと。そうして出来たのが「バチェラレット」だったのかなあと。
上手く言えないんですが、「今までとは違ったカラーで」とか「他の人が余りやらない曲で」とかそういう対外的な理由ではなくて、もっと彼の内側から出て来た欲求に従った結果なんだろうなあと。
スケートそれ自体に興味のなかった私が、例外的に彼にひっかかったのは、多分彼がそういう人だったからなんでしょうね。クリエイティブ畑でガチで戦ってる人たちと同じ匂いがするから。
最初に「ノクターン」を見た時にはその感性にびっくりしたんですが、「バチェラレット」では、彼のクリエイターとしての意識の高さに驚かされたような気がします。

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ちなみに、私がバチェラレットを見てまず最初に感じたのは、何かすごく根源的というかプリミティブな踊りの表現だなということだったりします。
最初に見た時、一瞬裸足で踊っているように見えたんですよね。
舞踏が娯楽とか芸術になる前の、宗教的儀式だった時代を思わせるような踊り。
それも近代宗教のような洗練されたものではなくて、万物に精霊が宿るといったような原始的な宗教観の中で、人間に見せるためではなく神々に捧げるために踊っているような。
「人間ではないような、何かに取り憑かれているような」とは本人の言ですが、何か守護霊獣(トーテム・アニマル)みたいなものの動きを模した踊りを通して、自身の体に神霊を降ろそうという、そういう儀式的なものを連想しました。
別に特定の宗教ではなくて、日本的八百万でもネイティブ・アメリカンでも別に何でもいいんですが。ていうか、そういった信仰の根本にあるものは共通していて、その共通した普遍的な部分を表現してるのかなと思った訳です。
森羅万象、この世界に宿る、目には見えない「何か」に対する畏敬の念。人間の思う善悪では割り切れないもの。人知では理解し得ないもの。けれど同時に人間の無意識の領域に潜んでいて、理性によって覆い隠された本能を呼び起こそうとしているもの。
近代化された世界では、表向きそういう「何か」は「ない」ということになっている(キリスト教なんかにかかれば、「それは悪魔だ」と切り捨てられて終わりそう)。だけどやっぱり皆、心のどこかで「「何か」があるんじゃないか?」と思い続けてません?
だから本来科学技術の産物であるはずのビデオテープに、死者の恨みの念が取り憑いて人を呪い殺すような映画がヒットするんじゃないんでしょうか。
…という訳で、話が再び和製ホラーに戻って来ました(笑)。
要するに、入口はドコでもいいんですよね。和製ホラーでも民俗学でも。深く掘り進めて行き着く所は同じ。目を凝らして覗き込む、何も見えないけれど「何か」がそこにいる不可視の領域。

…たかがスケートでここまで思考がぶっとばせるからこの人の表現は面白い…。

シラノ・ド・ベルジュラック~ゴーストライターの密かな歓び~

2007-09-15 00:46:04 | 日記
シラノ・ド・ベルジュラック 兵庫県立芸術文化センター
http://www.majorleague.co.jp/kouen/shirano/index.html

例によって、宝塚時代から安寿ミラを追っかけている母のお供で。同じ所で前に見た「ハムレット」と同じく栗田芳宏の演出&宮川彬良の音楽。
この栗田という人の演出がいつ見ても捻ってるというか、常に某かの大胆なアレンジを加えている感じで、その変化球具合が実は結構私の好みだったりします。

今回は、主役のシラノを歌舞伎俳優の市川右近氏が演じるということで、フランスの話なのに何故か舞台にこんな感じの幕がかかってて歌舞伎風。しかも何故か舞台の上に客席がある???
最初の場面である「芝居小屋」を基本的な舞台装置とし、舞台上の席にいる観客を「観客役のエキストラ」に見立てた所から物語が始まる、という凝った趣向。その後は場面転換の度に「○○の場」と書かれた札を持った人が出て来るだけで、セットは一切動かさない。…うーん、先週見に行った劇団四季とは正に対照的。ちなみに音楽はアコーディオンとバイオリンの生演奏で、たまに奏者が奏者の役で舞台の上に出て来ます。こういう、舞台と現実の境を曖昧にするような演出が栗田さんて方の得意ワザなのかな?個人的には好みです。

以下、例によって全力でネタバレです。

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主人公のシラノは剣の腕に長け、文才にも恵まれて弁舌巧み、そして何より気風の良い人気者。これを歌舞伎役者の右近氏が、江戸っ子下町風のべらんめぇ調で、立て板に水を流すように演じるのです。
パリ下町の伊達男を、時代劇の無頼に見立てた演出。パンフレットにも眠狂四郎や丹下左膳の名前が出ていましたが、相手が王侯貴族だろうと臆することなく自分の筋を通し、権力者を敵に回して平然としているアウトローな生き様は確かに無頼。眠の旦那や斬九の旦那を彷彿とさせる所があって、柴錬のファンとしては中々ツボかも。

そして狂四郎や左膳がコンプレックスを抱えているのと同じように、シラノにも大きなコンプレックスがありました。それが即ちデカい鼻。こんなみっともない外見の男が、女の子に相手にして貰える訳がない!と言う訳で、愛しい従妹のロクサアヌにも想いを打ち明けることが出来ません。
ていうか実際ロクサアヌはシラノの隊の新人、ハンサムな若者クリスチャンに夢中。クリスチャンの方もロクサアヌに一目惚れ。

…見た目はアレだけど才能に溢れた男と、見目麗しい若者が一人の女を取り合う、という構図は「オペラ座の怪人」と同じですね。しかしシラノはファントムくんと違って大人です。寧ろとてもいい人です。
男前のクリスチャン、実は口下手で、話すにも文章を書くにもセンスゼロ。なのでせっかく意中の人ロクサアヌに惚れられてるのに、ラブレターさえ書けません。
という訳で、男二人がここで結託。クリスチャンの外見+シラノの文才=最強のモテ男誕生。ロクサアヌはもちろんメロメロ。
戦争が始まって最前線に駆り出されても、出征先からせっせとクリスチャン名義でロクサアヌにラブレターを書き続けるシラノ。熱烈な愛の言葉に、クリスチャンへの想いを募らせるロクサアヌ。そして…。

***

私がこの話を知ったのは、多分道徳の教科書だったと思います。その時の印象では、クリスチャンとロクサアヌの幸せのために身を引く優しくて可哀想なシラノ、という感じだったんですが。
今回見て思ったのは、実は3人の中で一番幸せだったのがシラノなんじゃないのか?ということでした。

それを象徴するのが、最後の最後で唐突に出て来たエピソード。
シラノと犬猿の仲だった役者が、シラノの作った戯曲をパクって演じたことに憤る友人。しかしシラノは盗作されたことよりも、その戯曲が観客にウケたかどうかを知りたがる。「拍手喝采を受けた」と聞き、「それでいい」と微笑むシラノ。

表現者としての歓びは、大きく分けて二つあると思うのです。
一つは自分が名を上げ、有名人としてちやほやされること。
もう一つは、自分の創り出したものが人に受け容れられること。即ち、自分の才能が認められること。
通常、この二つはセットで同時にやって来ます。創作者が自分の名前で作品を世に出せば、作品が認められると同時に自分の名前も上がります。
しかし、実際の作者と、作品に付いたクレジットの名前が違っている場合はどうでしょう。
前者の名誉は表向きの作者のものとなりますが、その才能を認められたのは無名の真の作者です。

自分の作品を盗作され、他人の名前で愛を語り続けたシラノは、前者の名誉を得る事は出来ませんでした。
でももう一つの歓び、自分の才能を愛され、認められるという、表現者としての真の歓びは享受出来たはず。ロクサアヌの心を虜にした愛の言葉は、クリスチャンではなくシラノから生まれたものなのだから。
ああ…可哀想なクリスチャン。
彼の方こそ、空しかっただろうなあ…と思います。最初の内こそ、ちょっと口の上手い先輩の手を借りて意中の彼女をモノにできた!と喜んでいただろうけど。彼女はどんどん、彼の言葉や手紙の方に惹かれて行く。だけどその言葉や手紙は、彼自身の考えたものではない。彼女が愛しているのは、本当は自分ではないと分かってしまう。
そしてロクサアヌも。せっかくクリスチャンが、ボロを出す前に犬死にしてしまったんだから、シラノがあのまま秘密を墓まで持って行けば、彼女も一生クリスチャンとの美しい想い出に生きられたと思うんですが。
最後の最後にバラしちゃうのね、シラノ。やっぱり自分だと気づいて欲しかったシラノの気持ちも分かるんですが、でもロクサアヌにして見れば、自分が本当に愛していたのは別の男だったと、その男が死ぬ直前に知らされるなんて、ある意味残酷な話だなあと思いました。

***

という訳で、この話で一番印象に残ったのが、「例えその作品が自分のものだと分かって貰えなくても、その作品がウケればそれは即ち自分の才能が認められたということで、表現者にとっては凄い幸せなことなんじゃないかなあ」ということでした。
逆に言えば、盗作で世に出てもそれって凄く空しいことですよね。お金や名誉は手に入るけど、認められたのは自分自身の才能じゃないから。
パンフレットではシラノを「恋と冒険に生きる道化師」と表現していたけど、恋の主役のように見えて、実際にはシラノの作品の代弁者に過ぎなかったクリスチャンの方が「道化師」なのかなと思いました。

いーじゃんすげーじゃん再び

2007-09-11 18:43:14 | 日記
紙媒体の情報に余りにも餓えていたもので、買おうか買うまいか迷ってたWFS買って来ました。

大ちゃんに関して、ぱらぱらめくって改めて思ったのは、この夏ホントによく働いたなーということでした。何か、あっちでもこっちでもバチェラレットで踊ってるように見えるんですが。挙げ句、The Iceではいなかったことにされてるし。ロクサーヌには最早懐かしさすら感じられるし。

で、競技に関する貴重な情報として、モロゾフさんのインタビューを読ませて頂きました。
でもこのインタビュー自体は7月のものなんですよね。1ヶ月以上も情報にタイムラグがあるっていうのは正直キツいかも。
この人の言うことは結構ハッタリが混ざってるので鵜呑みにできない気はするけど、やっぱり人にものを教えるのが上手い人は、自分の生徒をよく見てるなと思いました。
大ちゃんのフリーは、この時点では「ロミオとジュリエット」お試し中とのこと。その後どうなったのかそろそろ教えて欲しいんですが、やっぱり手の内って明かしたくないもんなんでしょうか。

そしてショートはヒップホップに挑戦ですって。それはまた楽しそうな。
確かに冒険ではありますよね。基本的に黒人の下町文化から発祥したものだし。ヨーロッパ貴族文化の流れを汲む(ように見える)フィギュアの表現とは、根本的なベクトルが違うような(ていうかちゃんと審査して貰えるんだろうか)。
スケートにもダンスにも門外漢の私がぼーっと見てて思うのは、フィギュアってバレエ的な、クラシカルな曲で優雅に美しく踊るのが上手い人は多くて、でもそういう人が今風のビートの効いたダンスで踊ると意外と上手くいかないというか、どっか微妙に野暮ったい雰囲気が残ることが多いかなあということです(私が武田奈也ちゃんを気に入ってるのは、その点彼女は例外的に、ちゃんと今風の雰囲気が出せてる感じがするからだったりします)。

大ちゃんはその点かなり期待してるんですが。
随分前から本人が「ヒップホップやりたい」って言ってましたよね。
公認サイトでおすすめしていた↓もなにげにヒップホップだし。
No Man’s Religion
フィギュアスケートとしては確かに冒険的だし(何となく、こういう系って競技では、どっちかというと無名の選手がインパクト狙いでやるようなイメージがあるんですが間違ってますか?)、色々難しそうではあるけど、本人の引き出しの中には元から入っていたという所がミソですね。
ショーのフィナーレとかでノリノリで踊ってるのを見るにつけ、「自身のプログラムで、あんな感じに踊ってる所をがっつり見たい!」とは思ってましたが、でもまさか競技の方でやることになるとは。
どういう感じになるのか想像つかない部分があるので、ちょっと怖いけどでも楽しみです。
衣装とか髪型とか、ここぞとばかりに遊んでくれると楽しいかも。

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日米対抗の出場選手が発表されましたが、大ちゃん、そこにも出る予定になってるのね。
ほんまによう働く子じゃな(何故か岡山弁)。
ホントに出るとすれば、そこが競技用プログラムのお披露目になりそうですが、心しておかなければならないのは、モロゾフさんのこの台詞かなと思います。

「プログラムが完成するのは、試合に出てからです。そして手を加えて、最終的な完成作品にしていくのですから」

最初に世に出るものはあくまでベータ版。だから見る側も、最初に出たものを見て早急に結論を出す必要はないかと、去年のことを思い出してもそう思います。
ていうか私は、未完成なものを見て、勝手に完成予想図を描いてわくわくするのが好きなのかも知れない。オペラ座もバチェラレットも、(それぞれベクトルは全然逆なんだけど)なんかすごいことやろうとしてるんだなと、それは最初から見えてたような気はするので。変ですか?