TBA

(仮)

理解と配慮

2017-02-09 | 本と雑誌

雪は降らなかった。

じとじとした雨が少しだけ降った。




きょうは駅の近くの公民館のようなところに用事で行ったんだけど、

スーツを着た3人の人がそこの駐車場に車を止めて駅のほうに歩いていった。

某候補の応援のために、えらいさんが駅前に演説にくるらしい。


そこの所属の議員さんが、

市役所の駐車場を自分の事務所の駐車場がわりに使ってた、

というのがばれたばっかりなのに、

まさかそんなことは、ね。


いちおう、その人には入れないことにしておいた。


期日前の投票をするつもりだったのに、

選挙の広報を捨てられてしまったのでうろおぼえで行ったら、

候補者全員が無所属であせった。

まあ、なんとか推せそうな人に投票できてよかったけど。





「聖なる怠け者の冒険」おもしろかった。

夢なのかなんなのかわからなくなるくらい、

すごい冒険だから忘れそうになるけど、

とある週末の話。

信念をねじまげられそうになった時に、

堂々と胸をはって「いやだ」って言える人になりたい。

ちょっとウェストレイクっぽい感じも。



「ジブリの教科書 千と千尋の神隠し」
 
鈴木さんと森見さんがよかった。

「この映画をヒットさせていいのか確信が持てなかった」っていうのが、

ヒットするかどうかじゃなくて、

ヒットさせることはできるっていう前提なのがすごい。


「行き詰ったときにカオナシに話をまとめてもらった」という、

宮崎さんの話があるんだけど、

森見さんの「怠け者」では、カオナシが八兵衛明神で、

「とにかく千尋をもとの世界に返した」というのが、

「とにかく小和田君をもとの世界に返した」になってるのかも。


それと、名前を奪われることがキーになるお話なら、

まず「ゲド戦記」が思い浮かぶんだけど、

そこはあんまり触れてはいけないのかな。



「醜い日本の私」もおもしろかった。

中島義道さんの本はひさしぶりに読んだ。

読んでるうちに「そうそうこんな感じ」って思い出した。

めんどくさい人だけど、どっかには絶対いてほしい人。

身近にいるとちょっとあれだけど。


電線 看板 アナウンス 「形だけ主義」 言葉を信じない文化

でも、これらへの怒りは、単なる怒りではなくて愚痴にも近い感じ。

自分が異端であることもわかっておられるし、

なんとしてでも変えてしまえっていう主張でもない(たぶん)

まあ納得できることもあれば、そうでないところもあるし、

いろんな考え方があっていいだろ、っていうことなのかな、と。


電線を地中に埋めるお金ってどれくらいかかるのかわからないけど、

すごく高くつくなら別に醜くてもかまわないし、

もっと必要に迫られたところにお金を回すべきだとは思う。



最近よく聞く言葉で気になるのは、

なんか上から目線で押しつけがましい感じの

「理解を深める」とかいう言いかた。

みんな違ってみんないい、というのであれば、

いろんな考え方があっていいはずなのに、

自分たちの絶対的に正しい考え方を

「理解」しろって言われてるように聞こえる。


「理解できない」ということは、

必ずしも否定というわけではないはずなんだし、

かならず「理解しあえる」という自体が理想でしかないんだから、

「理解しあえない」ってことを理解しあったうえで、

お互いの考え方を尊重して、

距離を置いて共存することをめざせばいいのでは?


自分たちの考え方が「正しい」と盲信するあまりに、

服従か死か、みたいに押しつけあおうとするから争いが生まれるのだと思う。

白と黒以外にも色はあるんだから。

グレーで何が悪い。


日本人の「談合」や「空気を読む」も、

せまい島国なんだから、決定的な対立にならないように、

なんとかみんなで丸くおさまろうっていう知恵なのかも。



「配慮」って言い換えられた「要求」もなんか…

ほかの文化を受け入れる寛容さを持つ気がなくて、

あくまでも自分たちの文化や暮らし方を貫きたいのなら、

どんなにつらくても、自分たちのもといた場所にいたほうがいい。


より良い暮らしを望むことは理解できるけれど、

もとからいる住民も同じようにやっぱり、

よりよい暮らしを望んでいるのだから、

一方的に「配慮」を求めるのはまちがっていると思う。
コメント
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