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司馬遼太郎「功名が辻」にみる千代のコーチング 18

2006年07月21日 | 読書
安土城下に引っ越してから、一月も経たぬ天正十年十二月のはじめに、
「長浜を奪取せよ」
と言う軍命が下った。

柴田勝家に外交上の配慮で譲ったが、今は養子の柴田勝豊が守っている。
柴田勝家は越前におり、この時期、長浜城との間の北国街道は雪で閉ざされていて、援軍を出すことが出来ない。
秀吉は大軍で出陣しながら戦わずに、勝家と勝豊の不仲を利用して、降伏をすすめ、秀吉方に付けば領土の安泰と身分を保障するという条件で、長浜城を開城させた。

秀吉は、雪が融けて柴田勝家の大軍が南下してくる前に、勝家の同盟軍のうち最大の伊勢長島城に本拠を置く滝川一益を伐ちに出た。
天正十一年二月、総勢七万五千が伊勢路に入り、亀山城を囲んだ。
城将は滝川の武将佐治新助で、非常な戦上手されていた。

夕刻、敵の奇襲隊突っ込んできた。夕餉の準備などをしている各隊の中、戦闘準備をしていたのは伊右衛門の隊のみであった。
伊右衛門隊は敵の奇襲騎兵を城門まで押し戻した。
この活躍を観た秀吉は、驚喜して喜び伊右衛門を褒め称えた。

その翌朝に、総攻撃が始まった。

「殿、昨日はあれほど筑州様(秀吉)からお褒めを頂戴した以上、今日は全軍に先駆けて一番乗りせねばなりますまいぞ」
「そのとおりだ」
「殿、殿、殿は下手じゃな。そういうときには筑州様のように、我ら家来の胸が躍り血が狂うような言い方で言いなさるのが、上手の大将と申すべきではありませぬか。『そのとおりだ』では家来は喜んで死ぬ気にはなれませぬぞ」
「どうすればよい」
「吉兵衛よう申した、と、こう申されよ。わしこそおのれに死に遅れはせぬぞ、おのれとわしとは主従とはいえ幼いときから親代わり当然になってよう育ててきてくれた。今日の合戦は、わが武門が興るか興らぬかの瀬戸際、わしが死ねば供養を頼む、吉兵衛、そちが死ねば永代に供養し、子々孫々、必ず重用してそちの働きに報いるぞ、とこう申されよ。武士と名の付く者ならば、主人からこう申されれば、命も要らずに働くものでござるわ」
「なるほど」
「なんと威勢の悪いお返事であることよ。殿は正直にましますゆえ、大将の演技が出来ぬ。せめて、『吉兵衛、そのとおりぞ』とわしが手をお取りなされてはどうじゃ」
「吉兵衛、頼む」
と、手を取ろうとした。
吉兵衛は笑いだし、
「殿はほんにお正直。その素直さが財産じゃ。殿、殿のお正直はいい、しかしそれだけでは国主までにはなれませぬ。もし十にひとつ、吉兵衛がこの合戦で死にましたるときには、この言葉、よう覚えていて下され、何にもよらず、外での出来事は奥方様にお語りあそばすこと」
「あれは婦人だ。外での事をいちいち知っておく必要はない」
「それは常の婦人のこと。奥方様はどうやら、おもしろい女性にござる。男でも思いやらぬご意見をお持ちあそばす。今まではこの吉兵衛が、舌足らずながらも、世間のこと家中のこと、天下のことなど、聞き知り及びたる限り申し上げておりました」
ははあ、そうであったか。千代が屋敷に居ながら妙に世事に明るかったのは、そのせいであったか。
吉兵衛は、山内家興隆のために、全軍の先頭に立って城に入るつもりらしい。

伊右衛門隊は、先陣を切って戦い、その日、亀山城は落ちた。

戦いの中で、吉兵衛伊右衛門とともに働いたが、ついに敵の槍に倒れ死んだ。
夜、陣中で吉兵衛の遺骸を焼き、その骨は祖父江新右衛門があずかり、直ぐに戦場から遺品と共に千代のもとにやり、遺族を慰めさせた。

千代は、数日、泣き暮らし、何度も
「もう、武士はいやです」
と言った。

伊右衛門を書いた、古い記録には、こうある。
「我と吉兵衛のむつまじきこと、親族に越えたり。つねに怒ることなく、隠すことなく、戦場に臨んでも共に励みしかども、我は吉兵衛に毎度劣りし。(中略)かくて我、比翼の友を失ひぬれば、戦場に臨みても勇ことなく、酒宴の席にて楽しむことなし、と、涙を流してぞ語りける」

天正十一年(1583)四月二十四日、越前北ノ庄城が落ち、柴田勝家とお市ノ方が自刃した。

秀吉は、五月に安土に帰り、将士の論功行賞をした。
伊右衛門は、五百石の加増を得たが、気持ちは晴れない。
今度の戦では、吉兵衛が討ち死にまでしたのに、たったの五百石か。他の将士にけっして遅れを取ってはいないのに、伊右衛門には納得できない行賞だった。

帰宅後、伊右衛門は千代に、
「浪人したい」
と、言った。
「一豊様のご決心次第でございます。千代は、一豊様がたとえ乞食をなさろうとついて参ります」
千代は、一豊を一国一城の主にすることに少し疲れていた。
夫に功名を強い、栄達を強いていたことが、伊右衛門の重荷になっていた。
そう、思ったとき自分が、いやな女だったと思ったのである。

つづく

千代は、無理に自分の考えを押しつけようとはしない。伊右衛門が浪人したいと言えば、それを受け入れる。そして、自分を振り返り反省をする。
コーチングには、いつもフラットな気持ちで相手と自分を見ることが求められています。

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