NEST OF BLUESMANIA

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音盤日誌「一日一枚」#409 ELVIS PRESLEY「MEGA エルヴィス」(BMGビクター/RCA BVCP-850)

2022-12-28 05:15:00 | Weblog
2022年12月28日(水)



#409 ELVIS PRESLEY「MEGA エルヴィス」(BMGビクター/RCA BVCP-850)

米国のシンガー、エルヴィス・プレスリーのベスト・アルバム(日本編集)。95年リリース。

エルヴィス・プレスリーとは言うまでもなく、20世紀最大最強のポピュラー・シンガーだが、筆者にとっての彼は、政治家小泉某氏が言うような「自分の青春そのもの」みたいな存在というよりは、洋楽を聴き始めたころに知った(中年の)スーパースターであり、既に雲の上の存在だった。

ちなみに映画「エルヴィス・オン・ステージ」(70年)の白いジャンプスーツ姿が、エルヴィスに関する最初の記憶だったと思う。

エルヴィスの活動期間は意外と短くて、1954年から77年までの約23年間。日本編集の本盤は、27曲でほぼ全ての時代をカバーしている。

「ザッツ・オール・ライト」は、デビュー・シングル。黒人ブルースマン、アーサー・クルーダップのカバー。

53年サン・レコードで自主盤を吹き込み、それがオーナーのサム・フィリップスの目に止まり、デビューのきっかけを掴んだ。何事も、どこからチャンスが舞い込んで来るか分からない。フィリップスのようなキーパースンの目に止まるようなチャレンジは大切だな。

サンで5枚のシングルを出したのち、大手のRCAと契約。エルヴィスの本格的ブレイクに至るセカンド・ステップである。

チャンスはさらに次のチャンスを呼ぶが、それをすかさずモノにしてこそ、初めて真の成功に至るってことね。この移籍なくして、「キング・エルヴィス」は生まれなかった。せいぜいローカル・スター止まりだったはず。

56年「ハートブレイク・ホテル」で一躍脚光を浴びて、人気歌手の仲間入り。以降はとんとん拍子でレコードをリリースしていく。

「アイ・ウォント・ユー」「冷たくしないで」「ハウンド・ドッグ」「ラヴ・ミー・テンダー」など同年中になんと5枚10曲(両面)もシングルでチャート・イン。いかにすさまじい人気だったかが分かる。

エド・サリヴァン・ショーへの出演で話題になったり、一方、映画俳優としての仕事も始まる。

翌年以降もその勢いは続く。57年は「テディ・ペア」「監獄ロック」など4枚8曲がチャート・イン。

しかし、58年に徴兵があり、2年間兵役に就くことに。
その間は活動もややペースダウンとなるが、折り悪しくロックンロールのブームが下火となっていたこともあって、現役復帰後はバラード・シンガーの方向にシフトしていく。

「イッツ・ナウ・オア・ネバー」(オー・ソレ・ミオの英語版、「今夜はひとりかい?」(ともに60年)、「好きにならずにいられない」(61年、映画「ブルー・ハワイの挿入歌)のヒットがその好例である。

映画に主演してその主題歌を歌うという、のちに日本の加山雄三が踏襲したパターンで活動を続けたのが60年代。「G.I.ブルース」(60年、シングルではなく、サントラ盤でヒット)「ブルー・ハワイ」(61年、同上)といった具合だ。

「グッド・ラック・チャーム」は62年、映画とは無関係にリリースしたシングル。全米1位となったが、以降はしばらくチャート低迷の時期が続く。60年代のナンバーワンヒットはこののち、64年の「ブルー・クリスマス」(本盤未収録)、69年の「サスピシャス・マインド」のみである。

そんな感じで一時のブームは去り、エルヴィスもレコードリリース、映画出演こそコンスタントに続けてはいたものの、次代に「過去の人」になっていった。

67年にはプリシラ・ポーリューと結婚(のち73年に離婚)、この時にはエルヴィスも32歳になっていた。若くて独身という強みを失ってしまったわけだ。

しかし、歌の実力という最大の強みは彼に残った。

再び、歌手活動に重点を置くようになったのが、60年代後半だ。ありとあらゆるジャンルの曲を歌い、レコーディングしていく。本盤で言えば、「イン・ザ・ゲットー」「明日へ架ける橋」「アメリカの祈り」「偉大なるかな神」「マイ・ウェイ」などである。

そしてラスベガス、ハワイなどを拠点に、ライブ・ショーに力を入れることで、「王」はまた注目を浴びるようになる。

それが実を結んだのが映画「エルヴィス・オン・ステージ」だ。

ここでのエルヴィスのパフォーマンスは、圧倒的だった。

それまでは、毒にも薬にもならない駄作映画ばかり出ていた、いわば二流俳優だったエルヴィスが初めて見せた「本気」。

これには、オールド・ファンも、若い人たちも感動した。「エルヴィス、健在なり」という強い印象が残った。

「この胸のときめきを」は、その時期に生まれたスマッシュ・ヒットである(70年、全米11位)。続いて「バーニング・ラブ」も大ヒット(72年、全米2位)。

しかし、音楽活動が再び活発になった一方、エルヴィスの私生活は決して順調ではなかった。

愛妻プリシラは他の男性に心がわりして、破局。離婚後の彼は生きる支えを失い、過食症に走るようになる。

77年8月、エルヴィスはこの世を去る。死因はオーバードーズによる不整脈だったという。

富と名声、全てをおのれの歌声ひとつで手に入れた男としては、あまりに悲しい最期であった。

ショービジネス随一の肉体派で、「強きアメリカ」の象徴のような人だったのに、である。

思うに彼は、終生、米国南部の純朴な青年の心を持ち続けていたのだと思う。

ビートルズとの面会の時、ツンデレなジョン・レノンが「僕たち、あなたのレコードなんて持っていませんよ」と皮肉を言ったのを真に受けて、すぐにレコードを一式ビートルズに贈ったというエピソードが、エルヴィスの全てを物語っているだろう。

妻の裏切りなど、まったく予想もつかないくらい、ピュアでナイーブな人、善良そのものの人だったのだ。

そんな、まっすぐ過ぎるぐらいまっすぐな人、エルヴィス・アーロン・プレスリーの生涯は、何百枚ものレコード、数十編の映画として残った。

他のどのシンガーも出しえなかった、神々しいまでに深みのある声に耳を傾けて、彼の魅力をもう一度噛みしめてみよう。

20世紀という時代がわれわれに贈ってくれた最大のギフト=才能を。

<独断評価>★★★★☆

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