記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

童謡と吉田初三郎

2010年01月08日 00時12分19秒 | 吉田初三郎
「夕焼けの歌~三丁目の夕日」57巻を年末に買い、年明けから読んでいる。私の
マンガの読み方は「一日一章」。その点、三丁目~はどこから読んでも一話完結
なので、パラパラと捲って気になる話から始める。童謡歌手の話があって、それ
で思い出したのが阿蘇・久木野村にある「日本国際童謡館」だ。

 独立してすぐの頃、立ち上がったばかりのFM Mimi(現在は経営が変わりスタ
イルFM)に参加した。コミュニティFMが全国に立ち上がるブームの頃だった。私
は前職時代から友人の紹介で天神FMの番組の音楽選曲などに参加し(もちろん、
ボランティア)独立した当初も音楽系の仕事が多かった。その流れの中で、知人
の紹介で、当時存続問題で揺れていた日本国際童謡館の再建にかかる総合支援の
依頼が来た訳である。

 大庭照子館長はNHK「みんなのうた」でヒットした童謡「小さな木の実」など
の童謡で知られるが、元々はシャンソン歌手。事務所のスタッフと泊まり込みで
童謡館へ調査に入り、結果的には私らの力では再建存続は難しいと判断して断っ
た。しかし、それ以後も事あるごとに連絡をいただき、元々童謡好きの私は福岡
でコンサートがある時は可能な限り出向いている。

 大庭館長が私たちのためだけに歌ってくれた「川の流れのように」は、まるで
そこに美空ひばりがいるような錯覚になるほど。身震いするほど感動したのを憶
えている。童謡館で育った矢部さん、曽我さんのDOYO組も含めて、九州をは
じめ全国各地で童謡コンサートやイベントに出演しているので、ご存知の方もい
ると思うが、高齢化社会の今こそ昔の童謡の力、大切さはもっと見直されていい。

 童謡の歴史などに興味を持ったのは大庭先生のおかげ。その後、研究している
吉田初三郎の活動を辿る中で「童心」がキーワードであることに気づく。日本の
アンデルセン・久留島武彦と村上巧児(西鉄合併時の社長、到津遊園創立、井筒
屋創設、西鉄ライオンズ産みの親)の関係、到津遊園「日本一桃太郎像」を巡る
初三郎を含めた3人の関係は、調べるほどに興味深い。

 一昨年、いのちのたび博物館での初三郎展「美しき九州の旅」展で展示したが、
戦後すぐに初三郎に舞い込んだ依頼は「歌の新聞」という童謡雑誌だった。服部
正、服部良一、サトウハチローら戦前戦後の作詞作曲家が挙って参加し、初三郎
も自作の童謡や民謡詩を提供し、挿絵や表紙絵を描いている。

 この雑誌、戦後の物資難、混乱期の発行のため部数は少なく僅か3号で休刊。
しかし、この中には「初出し」で後に小学校の教科書に掲載され、子供の頃に親
しんだ唄がたくさん発表されているが「あめふり」「靴が鳴る」「もしもし亀よ」
などはいずれも「案」としての掲載である(そのまま採用され、私たちの知る唄
となった)。

 童謡の世界で、実はこの雑誌は「幻」のものであり、現存する本もほとんど無
い。そのため童謡史から漏れている真実も多く、研究の余地がある本である。い
ずれも私個人の所有品。

今日の写真は、「歌の新聞」昭和21年9月発行の第2号、10月発行の第3号表紙。
鳥瞰図で知られる「大正広重」吉田初三郎だが、実は彼が描きたかった絵は美人画
や謡曲画である。独特の柔らかな表情の初三郎美人絵。

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