記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

日本の近代化を支えた北部九州の産業遺産と吉田初三郎

2007年06月16日 13時25分48秒 | 吉田初三郎
 今日の西日本新聞に、炭坑節に唄われた田川の二本煙突の記事が
再び掲載された。昨日は「軍艦島を世界遺産にする会」の坂本理事
長が「聞きたい」のコーナーに登場。九州では明治・大正・昭和期
の日本近代化を支えた産業遺産の保存と後世への引継が話題となっ
て久しい。

 実際、官営八幡製鉄所の設置が拍車をかけ、三井、三菱などの財
閥系はじめ地場の麻生、貝島などの財閥が次々に北部九州各地に炭
鉱を開拓。特に福岡県は筑豊や三池を中心に、どこを掘っても石炭
が出る勢いであった。今では考えられないが、福岡市周辺にも多数
の炭鉱があり、志免の海軍炭鉱はじめ十以上の鉱山が開拓されてい
た。絵葉書やパンフレットにもそれらの資料は多数残っている。

 前出の坂本さんは、私のブログにもコメントをくれた一人だ。軍
艦島の昭和戦前の絵葉書画像を紹介した際のことであった。長崎市
は昨年の「長崎さるく博」の成功、軍艦島周遊コースの盛況を受け
て、端島を観光客誘致のために上陸許可+遊歩道整備に予算を計上
している。

 坂本さんの「もの珍しさだけで終わったら価値はない。近代の歴
史を学ぶという観点での整備が必要だ。」とのコメントには私も同
感である。これまで重視されることがなかったから必要ない訳では
ない。今、我々現代人が後世へ何をどう伝え引き継いでいくかが、
一番大切なのだ。今を評価するのは我々ではなく、子孫達である。

 吉田初三郎は同様の念を、幾たびの兵役や戦地の実地踏査を経て
最も感じていた画家であった。日露戦争の従軍をはじめ、日中戦争
以後も幾度も従軍画家として南京や上海などを巡り、後世への記録
としての鳥瞰図やスケッチを多数描いてきた。

 その経験を踏まえ、戦後の日本が「観光立国・産業立国」の号令
のもとに復活しつつあった昭和20年代。晩年の初三郎は戦災から復
興しつつあった多くの都市の鳥瞰図を描き、絵に添えて一筆の中で
は「50年後、100年後の人々のために都市図を遺す」旨の記述を記
している。

 昭和21年、廣島原爆八連図を描いた際も、長崎とともに被爆した
悲劇の都市の惨状を、5ヶ月間、のべ200人以上の現地取材によ
って証言を集め、記録画を作製した。普通の画家の域を超え、信念
だけでなく自身の使命と認識していた様子が、日記等から伝わって
くる。

 残念ながら、初三郎が思いをぶつけて描いた数々の戦後の鳥瞰図
は、原画として残っている地でも半ば忘れ去られようとしている。
個人や旅館などオーナーが依頼したのであれば、それがいかに大切
かは代々引き継がれていることが多いが、役所が発注した場合は、
これまでの調査から大半が当時のいきさつや資料も残らず、作者名
すら「卯三郎」などと間違われていることが多い。

 遺された大切な資料群を活かすも殺すも、我々現代人の気持ち次
第である。昭和33年版の初三郎「田川市鳥瞰図」の直筆トレース図
には、二本煙突や竪坑櫓など登録文化財への答申が決まった施設は
もちろん、官舎や当時の田川市の施設、そして8軒もの映画館など
娯楽施設まで詳細に描き込まれていて、これこそ100年後に引き
継ぐ都市の記憶である。

 初三郎の長崎市(昭和9年)絹本原画をはじめ、田川市、直方市、
豊前市、都城市、串木野市、宇部市、宇和島市、鹿児島市などの直
筆トレース図は現在、私の方で保管研究資料としている。これをな
んとか活かしていく術を模索中である。

今日の画像は、吉田初三郎「大牟田市鳥瞰図(昭和10年)」部分。
大牟田も絹本原画の残る可能性が高いながら原画は未だ見つからず。
他都市に習えば、現在も現役で残る大牟田市庁舎の新築記念に描か
れた図であり、同庁舎内のどこかに眠っている可能性が高い。

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