2024年2月20日、森口博子さんの176曲サブスク解禁記念♫という訳でもないけど、書庫の古い資料を整理していたら1990年代の福岡ダイエーホークス諸々の保存資料が出てきて、懐かしく見返した。
田淵監督の頃の懐かしいユニフォームとヘルメット。同い年の湯上谷さん、大きくページで紹介されている。そういえば、ホークス福岡移転30周年のTVQ特番の依頼を受けたのが5年前、2019年2月20日だった…。
番組スタッフから「南海からダイエー初期時代の話が出来るOBで、今は球団から離れて福岡にいる適任者って誰でしょう」と聞かれて、即答で湯上谷さんの名前を出した。ご縁あって「プロ野球を語る会」などでガメさんともご一緒していたからだが、同じ見開きページでコメント寄せてるのが森口博子さんで驚く。
TVQの特番では、偶然にも森口博子さんと原口あきまささんを連れて平和台野球場跡やドームなどを巡り、私が案内役という設定だったので、このとき約30年ぶりに湯上谷さんと森口さんが並んでのショットも撮っていただいた。細くもご縁が続いていたということなのかと、少し驚く。
当時の私(ゼンリンG勤務時代)は1995年の春季キャンプからご縁をいただき王貞治監督(当時)就任に伴う地元後援会「王友会」の会報誌編集のディレクションを担当。カメラマンやライターがキャンプ取材などを行うので、私が直接同行することは稀だったが、2000年春に退社するまで役を務めた。その間、ダイエーホークスは初優勝・日本一となり、福岡の街はホークス一色となった。
王友会の件はすでに29年前のことだが、この頃はゼンリンが北九州市民球場の運営などを担っていた関係で会報誌も受注したのだと記憶している。当時のゼンリンは福岡ブルックスから名称を変更したアビスパ福岡のスポンサーも努めていたし、陸上部などスポーツチームだけでなく定岡正二さんの「チーム定岡」のスポンサーでもあった。そんな、普段はすっかり忘れていることを思い出したり。
2011年には王貞治ベースボールミュージアムの特別展「九州のプロ野球歴史展」の企画構成も担当するなど、西鉄ライオンズOB会の事務方を務めながらホークスとライオンズ双方のお手伝いが出来るという夢の時間が2010年代だった。その発端は2009年に和田博実さん監修で執筆編纂発行した「写真集西鉄ライオンズとその時代」であり、2010年から12年にかけて産経新聞で連載した「伝説の西鉄ライオンズ」などがご縁だった。
2019年のTVQ特番ロケでは、王会長や工藤監督(当時)らとも記念写真を撮らせていただいた。
特番のあと、嬉しいことにホークス球団のスタッフ某氏から工藤監督のサインが入った2018年日本一記念帽子もいただいた。実は西鉄ライオンズOB会の事務方を長く務めてOB各氏と接する機会ばかりだった私だが、一度も自分から「サインをください」と言ったことも無いし、公私混同はせずに通した。それ故に信頼していただき、様々な資料やエピソードを伺うことができたと思う。そんな私のことを知るスタッフが「益田さんが持っている方がいいと思うから」と大切な帽子を譲ってくれたのも感動だった。
昨春(2023年)には安倍和春さんと中西太さんが相次いで亡くなられ、西鉄ライオンズ全盛期や南海ホークスとの宿敵エピソードを次世代にファンとは別の目線で正確に伝えていくことも使命のように感じている。
懐かしいダイエーホークスのファンブック等を見返しながら、そんなことを考えた。たまには回想して初心というか、自分の存在意義を確認するのもいい。