marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(11回目)

2016-06-01 20:18:30 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆  一日おいて、今日はとても寒いです。一昨日は、PCおかしくなるくらい暑い夜だったのに今日は北の方ではみぞれも降ったというニュースがありました。そこで、まずはお茶を飲みます。緑茶。さて、そろそろ、プロテスタントのもう一人の方のお出ましを願いましょう。その前に、大切なことを書かねばなりませんでした。「聖書を自分の言葉で読む」が主眼でしたが、そもそもそこに「自分」という大きな壁があったことに気がつきませんでした。キリスト教では、純真にその道を求めている人が、少しのきっかけでその道に迷ったり、外れてしまうことを石につまずき前に進めなくなるような例えで「つまずき」と言います。どうぞ、パウロさんと言う弟子が手紙に書いたように固い食べ物を食べられるようになってから、このブログを読むようにしてください・・・と一応責任を回避しておきます。たいした事書いてませんけど。 さて、宗教に何か答えを求めようとする方は、実際、自分探しに迷った方が多いのではないでしょうか。自分は何なんだろうとか、心の中の漠然とした不安とか、人生の生きる意味とか、自分(他人が)が嫌になったとか、自分の位置、心の確信のようなものが得られないなどの理由から、聖書を読んでみたいとか、キリスト教会に行って見たいと思う。このことは、人類が神から離れて以来の正常な感覚なのだと僕個人は思います。「神のもとに帰らぬ限り人は安らぎを得られない」といったのは、アウグスティヌスでありましたか。そのような事が、まず心の中に誰にでも起きるものである(起きない人もいるでしょうけど)ことが、第一に神はおられるとことでありましょうし、確かに自分の言葉で読み、求め続けようとの思いにさせられるならば、本当に心の安らぎを得あられるでありましょう。(でもま、人ぞれぞれなので・・・ね。)そうでした、そのような人は、イエス御自身、私が選んだのだと言わておられますから他の人は何やかやを言えないのでした。 「真実にして、実質的なる知識は、主として、神についてに知識とわれわれについての知識の二つの部分から構成されている。しかしながら、知識についてのこれらの二つの枝は、非常に密接に関係しているので、そのどちらが先であり、他のものを生み出すかということは、わかりにくい。何故ならば、先ず第一に何人も、自分自身を眺めようとするならば、直ちに自分がそのうちに「生き、動く(使徒言行録17:28)神を考えようとするのでなければならないからである。・・・」第一章神についての知識とわれわれ自身についての知識「(カルヴァン)キリスト教綱要抄より」。今日の写真は「THE ENGLISH BIBLE(OXFORD/CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS 1970)・・・Ω