marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(32回目)

2016-06-21 21:18:08 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆    前回のヨハネ伝に戻り(先に表題書いておりませんので30回から)第1章の33節には、洗礼者ヨハネが「・・・その人こそは御霊によってバプテスマを授ける方である」と書かれていますね。(口語訳で御霊。新共同訳では聖霊で同じ事)。さて、聖霊については、第14章26節、第15章26節、第16章13、14、15節、第17章14節 などにある。(もっとありますので捜されたし・・・)。と言うことで、ヨハネ伝には、父なる神、子なるキリスト、助け主である聖霊が書かれてあり、ここから三位一体が言われてきたことが推察されると書いてきた。つまるところ、イエスは助け主である聖霊を送ってくださり様々な理解を助けてくれるというのである。
さて、その聖霊の助けにより頼んで言葉についてのイエスの見解を聞いてみよう。ヨハネ伝第6章63節「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。わたしがあなた方に話した言葉は霊であり、また命である」とある。イエスの言葉が、霊、命であると。これは分からないな。我々、地上の朽ちゆく肉なる人間が話す(この中には実態言語とかいろいろあるのだろうけど、その辺は八木先生の著作にお任せすることにして)我々の言葉とは異なるものであることが理解された訳です。これ以上は、詮索しても人間の限界、あとはその導き?お教え?をお願いすることとして、それ以上、踏み込めません、ギブアップ。いずれ、イエスが身元に引き寄せたという方々には理解されるであろうということである。つまるところ、ヨハネ伝には多く書かれているということだ。  今後、イエスの語る言葉にはすべて、霊があり、命があることは理解されたのだ、今後そのように考えて読むこととしよう・・・Ω








































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































世界のベストセラーを読む(31回目)

2016-06-21 20:15:54 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 前回、八木誠一先生の本の紹介をしてしまいましたので、ここで一言。出来るだけ解説書は出さないようにと思ってましたが、やはり、そのうち解説書だらけになりそうです。初めに、聖書の事を哲学的にといえばいいか、理屈で理解しようとすればと言えばいいいか、僕は八木誠一の一連の著作が好きですね。「<はたらく神>の神学」(岩波書店)最新のが出てますので、後ろに今までの研究の内容の目録のようなのが掲載されてますので、良ければ立ち読みされてください。     
このブログでは初回から「自分」とか「言葉」とか書いてきましたが、八木さんの「宗教と言語、宗教の言語」(1995年4月12日初版発行)をすぐ購入して読み、えらく開眼してしまった思い出がある。暫くぶりで開くと色々な箇所に線が引いてあるが(と言うわけで古本屋には売れないね)今の僕と変わらない考えに目がとまった。(p86)「欧米神学追従を脱却して、みずから創造し育てる労苦と責任を負わなければ、我々はいままでなかったよいものを作り出して世界に貢献することができず、もっぱら他人の開拓的創造的な努力の実をあれこれと摘み取ってその「博識」ぶりを同胞にひけらかすだけの安易な人間に留まり、世に何の創造的奉仕もできないからである。・・・」何も学生運動下火の時期とは言え、素直でなく聞こえるのは、また、カール・バルトの基で学んだ滝沢克己(学生運動家には理解された)とのやりとりをやられていた神学者だからと言うわけではないのですが、他の著作も本当に、すべてのしらがみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものにするため、闘ってきた学者であると僕は感じるです。その闘いは続けなければ行けないと思う。本来、伝道、伝道といいつつ、自らその壁を作り出してその中で権威つけと自己満足をしているのを、教会の門の前に立ち止まっている人々は感じているのだ、それに気づきもしないのではないか。中に入りこんでしまえば、一応それなりの尊重もしなければねぇと言うわけで、それ以上の自らの理性での納得は今に分かると言うことにされ内に秘めてしまう人は多くいるのではないかと思う。それなら教会に入らない、若松英輔の「イエス伝」になる訳である(この写真も先にありますので捜されてください)。次回は、聖霊という言葉にもどり、イエスの言(ことば)について考えたいと思います。そこで困難なことが生じたら、やはり八木誠一の言葉について書かれたその著作に戻らないと行けないかと思う。・・・Ω ※今日の写真は「<はたらく神>の神学」。