エマオへの途上の二人が復活されたあの方に出会い、パンを割かれた仕草を見て、復活されたあの方であることを意識したとき、あのかたの姿は見えなくなっていた。・・・この話は御存じでしょう。このことをよく覚えてください。私たちが、あの方を考え、意識し自己了解したときに、あのかたは姿を消さたのです。そのとき意識するとしないに関わらず、思い起こされる時、いつもあの方は傍におられるのことを・・・。今月はあの方の地上への誕生をお祝いする月ですね。あの方の「死を知らせる十字架」が高く掲げられるその建物で、彼の誕生をお祝いする「クリスマス」。わたしたちは、もう死ぬことはない・・・そんな思いにさせられませんか。健康を祈ります。再会を楽しみに。 marco(2010.12.1)
言葉というものにあの方の復活が還元されてしまう時、人の言葉で納得することにまとめられてしまうことに、わたしは非常なる怖れを感じたのです。言葉という情報を総括する手段にその出来事が了解されてしまうとき、おそらくそのことの本当の出来事はそうではなくなってしまうだろうから。わたしの書いたその方の本当の物語はあの方の言われたとおり、世界の果てにまで及び読まれるかもしれない。だから、その思いは過去の言葉で完了されて分かってしまったことにしてはならないと思われたのです。わたしマルコは、よみがえったというその方に肉体的に確認できる意味で会ってはいないので、再び姿は消されるであろうその方をわたしのつたない言葉で、書き留めて完了としてその出来事を過去に押しやってしまうことは実に恐ろしいことだと思われたのです。そこで、わたしは福音書の終をこう締めくくり筆を折ったのです。「マリア達はあの方の復活を天使から告げられた時、おののき恐れながら墓からでて逃げ去った。人には何も話さなかった。恐ろしかったからである・・・」と。(後の読者たちが付け足してしまいましたが。)あの出来事、あの恐ろしさが、人の言葉の解釈の自己了解にあの恐ろしさの表現はどうしたものかと・・・。ガリラヤで待っておられ、そして父の住まいに帰られたあの方は、この福音が語られ、そして聞いた者たちが聞こうとすれば、その心によみがえられるでありましょう。そこで打ち切り書くのを中断して私の福音書が終わっている理由を、彼が再び来られるまで何年も何年かかろうとも、生きとし生けるすべての人々の普段の生活の中に。普段の生活・・・そう、ガリラヤで待っているとあの方は言われたのですから。彼は生きていると言われるのですから、まさに願う人には現われ、あの方みずからがよみがえってお話されるでしょう。あの方が再び来られるというその時まで・・・わたしはそれを信じたのです。このようなことを書くのは、ある二人のお弟子が姿を現されたあの方にであったという話を聞いてますますそう思ったからなのです。・・・
あの方は、ラザロは死んだのだ、と言われました。いつも身を寄せておられたマルタとマリアの弟のラザロが重い病気になったとき、遠くにお弟子たちと旅をされているあの方を呼びに行ったのに、来られたのはラザロが死んで墓に収められてもう4日も経っていたのです。「ラザロは死んだのだ」とあの方はいわれ涙を流されたのです。なんとこの兄弟姉妹たちを愛されていたことでしょう。あの方は、多くの村人に迎えられ、ラザロは収められた墓の前に立たれると、とても興奮された様子になられ今までにないような祈りをなされたのです。「ラザロよ、出て来なさい!」・・・・ あの方がこの地上の肉体の死から、再び霊を吹き込まれよみがえらせたのは、これで三回めです。(マルコ5:21-43、ルカ7:11-17)。地上の人の肉体の死と、イエスが語られる神の霊界へ帰れず肉体と共に消滅していく本当の死の意味がおわかりになったでしょうか。生き返ったラザロは、その後、次の永遠の世界があることを知り、喜んで地上の生涯を終えたのです。これはあの方が亡くなられるひと月ほど前の出来事でした。・・・ marco(2010.9.10)
◆僕は、このマルコからの手紙を読み終えた時、生きるということ、死ぬということの意味が分かったように思われたのです。そして、次の言葉を思い出しました。『はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信ずる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。』(ヨハネ5:24-25)
それから、マルコからの手紙が届いたのは三か月後のことでした。
・・・死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人の内よりよみがえり・・・・生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。・・・
あの方の死は一回だけのものであり、復活もまた同じであるとすれば、あの方を知らず亡くなった人たちはどうなるのだろうかという課題が我々に持ち上がりました。私たち人も生き物という被創造物にすぎないのだという限界(障害)というべき無意識の前提条件がすでにそこ(闇の世界)に至る私たちの言葉を封じてしまっていたのです。私たちが生きる世界においては、光がなければ何も見えないように、いいえ、そのことも我々は意識しないほどに人工の光に取り囲まれている中にあって、光のない陰府の国というような闇の世界へは福音は届いてないだろうからどうなってしまうのだろうかと我々は思ってしまうのでした。
光も闇も天国も陰府もすべてを支配される神のひとり子は、死にて葬られてからそのまま眠られていたのだろうか。そうではないのです。まさに福音は陰府に降られたあの方によって、十字架につけられ死にて葬られたが故に、その闇の世界に伝えられていたのです。あなた方はそのことを知るべきです。陰府の国といえども福音が伝えられていないところは「ない」のですよ。生きている人にも死んだ人にも福音は伝えられたのです。大切なことを話そう。ここで二重の意味があることを覚えて欲しいのです。「生きる、死ぬ」とは、実際に肉体が朽ちていくこと、そして肉体が墓に入れられるこの地上の物体としての体の有無のこと、それはこの地上の次元のこと。そして、もう一つは、霊的に天上の普遍的な霊界につながり生き続けるというその「生きる」、そしてその霊界とは切り離され肉体とともに消滅してしまう霊のこと「死ぬ」と表している言葉があるのです。・・・