marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ひとりひとりの物語:思考における階層のこと:親愛なるXへ(その6)

2022-02-16 16:02:01 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 普段の生活において、僕らは常に自分の行動を説明ながらからだを動かしている訳でない。意識しない行動の方、正確に言えば自分の行動さえもいちいち言葉化して認識するということしていないはずである。改めて一日の終わりに日記を書くなどをするとき、今日の行動はどうだったなぁとか、自分を客観的に見つめなおして言葉化して文字に書き表したりするわけだ。何をいいたいかといえば、そういうこと、つまり自分の頭脳での意識し言葉化する、更に文字にしたためたりするということは、人生の内でほんのわずかなことなのではないだろうか。無論、職業にしている物書きなどは違うだろうけれど。ましてや、自分のからだとその体調からの意欲としてのエネルギーの源などは、そのこと自体が神様に文句を言いたくなるようなことが、あまりに多すぎるのではないだろうか。喜びや楽しみが頭脳の快楽物質を放出して意識化して自己納得するようなことなど、人生の中でほんのわずかのことでしかないと。◆行動をしつつある人、座る人、その人が物言わぬ限り、廻りから見て何をその時、考えているかなどということは、僕らは端から見ているだけでは分からない。そこで、S先生と人が頭で考えるなどというその思考次元の話になったことがあった。人が行動を起こし社会生活をする、その行動のエネルギーたるものがどこから来るのかという話になった。ひとのなんたるかが解明されて行った時、それは幸福な社会となるか、あるいは逆の不幸のそれとなるかもしれないという話になった。人の思考の解体は、あまりやらない方が幸せなのかも知れない。人が頭で自分の言葉で自分の世界のことを詳しく知っていくことは度が過ぎると不幸を招くということか。・・・いやいや、と先生はいう。それは思考が時代よりも先走りすることから、そう心配が生じるので、時代はそのような心配ごとも暫時受け入れていくのだから、人がいきなり地上から消えてしまうことは無いのだからね、と。人という猿の頭脳は自分の環境も整わせることなく急激に飛躍してしまったのだからなぁ。考えにおいて、そのひずみにまと外れして逸脱する思考線を拾ってしまうのが出てきてしまうんだぁ。◆僕らの世代は、地球の歴史から見て、やはりおかしな世代、どうしようもない人類の生まれた地球時代だったのかもしれない。少なくとも、それは人がひとを招き呼ぶものなのだと言われれば、健全な精神に健全な思考が宿るということばの、その逆のことが僕らの世代には起こっていたのだということが言えるのかも知れない。◆知人のIの話をしよう。知能が秀でているやつは、エッチなのだろうか。それは、同じ頭脳の働きの優れた神経系が平等にリンクしすぎてしまっているからなのだろうか。そう思ってしまうのは、話を聞く僕の方の知能が劣っているからの話だけなのか。対象において解析し、数値化し始め極めて繊細に思考しはじめるIは、昔、真空管5球のステレオアンプや大型スピーカーを時前で作りあげたりして、雑談で話す内容とやらはフーリエ級数がどうのこうのとか、虚数「i」は素晴らしい、この数式は目からうろこだとか、光は曲がるのだとか、えんえんと語るような、かなり理科的オタクなのであった。その彼が、目を潤ませるようにして、どこかの雑誌から切り取ってき来たグラビア写真を画鋲で机の前に貼り付けて「これ、いいだう」などと語るが、そのニヤニヤが嫌らしくなく、目を細めてニコニコ語るその顔が純粋な若者に見えてしまうのが何とも不思議な感覚として記憶に残っている。今は、ネットでも下ネタはいろいろ見られるだろうから、ありふれてしまってかえって純粋なニコニコ顔とはならなくなったかも知れないなぁ。