’69年に大学に入った頃、キャンパスは学園紛争で荒れていた。東大で入試が中止されるという異常事態が生起した頃だ。ヘルメットにゲバ棒とは無縁だったけれども、思想的には一時唯物論(無神論)・無政府主義に浸っていた。人間の歴史の中でも近代以降は唯物論的な科学思想が文明を飛躍的に進化させ、微細で高度な機械主義が席捲した。神社でさへ御神籤はコインを投入させて、小さな窓口から落ちてきたオミクジを取り出す。お寺の住職や、神社の神主でさえ、暮らしていくために駐車場の経営を行うし、幼稚園から中・高・大学まで建てて高く経営する。私の旦那寺の住職は檀家回りの時には「おんぼろ車」なのだが、実は外車のスポーツカーを乗り回すし、テニスに興じる。これがこの時代なのだ。
私は17年前に父を喪い、去年母を亡くした。深く面倒を見ていた生徒をがんで亡くした時に、「死」とは何か、生きるって何だろうと考え始めた。生と死を学問として考えるのは哲学や生命倫理学がある。そして、人がほとんど死を迎える病院のこと医療のことを学び始めた。この時、どうしても避けて通れないものとして宗教があり、仏教を中心として勉強し始める。もともと日本は「かんながらの道」、あるいは仏様のおわす国、しかし恥ずかしながら詳しいことは何にも知らない。いかにさまざまな日常的習慣・所作に宗教的な意味が伏在していることか!
終いの棲家として南阿蘇に家を建てた。地鎮祭の時、建築業者は神主ではなく、祝詞をあげるのではなく僧侶がきて読経した。偶々我が家の宗教日蓮宗の寺院だったのだが、法華経のなかに地鎮めの題目があるのだろう。それはそれはすばらしい「歌」であった。声量豊かなバリトンの声が五岳に向かい、そして隣の杉林にもこだましていった。この時、人智を超えた超自然的霊威というものを感じた。
そうなのだ、土地は現世では人から人へ金銭で売り買いがなされるが、本当は地球誕生以前から宇宙におわす「神」からいっときの間拝借するのだ。死んだら当然、誰彼への相続云々ではなく自然(神)にお返しするのだ。
山川草木生きとし生けるものすべてに神がおわし、その霊威に対し謹厳実直な態度で接すべきだと思っている。今日本は自然が時として齎す威力に脅えている。奢れる者久しからず、霊威を軽んずるものはその圧倒的なパワーに吹き飛ばされ叩きのめされるだろう。
今、映画監督龍村仁の『地球のささやき』を読んでいる(かれの作品は2冊目)が、まったく同じ考えが書いてあり、思いを強くしている。
その中の一節。「”宇宙の魂”は何も特別の場所で特別なときにのみ出会えるようなものではなく、私たちが生きている毎日毎日の日常の中に、リアルに実在する。もっと言えば、私たち自身がこの”宇宙の魂”の一つの現れであり、それぞれがそれぞれの場で出会うあらゆる出来事、生命・自然現象すべてがその現れである。”見えない世界”は”見える世界”の対極にあるのではなく、まさに”見える世界”の中に実在する。」
私は17年前に父を喪い、去年母を亡くした。深く面倒を見ていた生徒をがんで亡くした時に、「死」とは何か、生きるって何だろうと考え始めた。生と死を学問として考えるのは哲学や生命倫理学がある。そして、人がほとんど死を迎える病院のこと医療のことを学び始めた。この時、どうしても避けて通れないものとして宗教があり、仏教を中心として勉強し始める。もともと日本は「かんながらの道」、あるいは仏様のおわす国、しかし恥ずかしながら詳しいことは何にも知らない。いかにさまざまな日常的習慣・所作に宗教的な意味が伏在していることか!
終いの棲家として南阿蘇に家を建てた。地鎮祭の時、建築業者は神主ではなく、祝詞をあげるのではなく僧侶がきて読経した。偶々我が家の宗教日蓮宗の寺院だったのだが、法華経のなかに地鎮めの題目があるのだろう。それはそれはすばらしい「歌」であった。声量豊かなバリトンの声が五岳に向かい、そして隣の杉林にもこだましていった。この時、人智を超えた超自然的霊威というものを感じた。
そうなのだ、土地は現世では人から人へ金銭で売り買いがなされるが、本当は地球誕生以前から宇宙におわす「神」からいっときの間拝借するのだ。死んだら当然、誰彼への相続云々ではなく自然(神)にお返しするのだ。
山川草木生きとし生けるものすべてに神がおわし、その霊威に対し謹厳実直な態度で接すべきだと思っている。今日本は自然が時として齎す威力に脅えている。奢れる者久しからず、霊威を軽んずるものはその圧倒的なパワーに吹き飛ばされ叩きのめされるだろう。
今、映画監督龍村仁の『地球のささやき』を読んでいる(かれの作品は2冊目)が、まったく同じ考えが書いてあり、思いを強くしている。
その中の一節。「”宇宙の魂”は何も特別の場所で特別なときにのみ出会えるようなものではなく、私たちが生きている毎日毎日の日常の中に、リアルに実在する。もっと言えば、私たち自身がこの”宇宙の魂”の一つの現れであり、それぞれがそれぞれの場で出会うあらゆる出来事、生命・自然現象すべてがその現れである。”見えない世界”は”見える世界”の対極にあるのではなく、まさに”見える世界”の中に実在する。」