論文を書くために考えていることの粗案を書き残す。これを発展させられればと思っている。
日本語の主語の概念は英語をはじめとする西洋語の主語の概念とはちがうものである。学者によっては日本語に主語はないと言う。たしかに英語のような主語を日本語に当てはめるのはむずかしい。しかし日本語にも、事態の主となる名詞は存在する。日本語の主語とはそういうものであろう。つまり主語の概念が違うのである。
この言語の違いが、明治期の近代文学の生成に大きく影響を与えた。近代文学は基本的に書かれた小説であり、そこには定点となる客観的視点を持った「語り手」が必要だった。それが江戸時代までの日本語にはなかったのである。
ないならばないでいいではないかと思われるかもしれない。確かにそれでも悪くはない。しかし「近代」は個人の時代であり、個人とは独立した存在である。だから客観的な視点で描かれる必要がある。と少なくとも当時の文学者は考えた。そこで客観的に描くための文体を手に入れなければならなかった。
事情はそこからもう一段階複雑になる。例えば英語では語り手は話題とされている場の中には存在しない。英語の文の主語はそもそも客観的な視点の中にいる。それに対して日本語は話題とする場の中に「語り手」は存在しているのだ。そのために「語り手」は事態の当事者になってしまうのだ。
日本の近代文学において困難だったのは、日本語の特質として主観的な立場に立つことが当たり前だった「語り手」が、西洋的な客観的に立場に立たなければいけないと考えたことによるものだった。