村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。今回読みながら書いたもの8回分をまとめて掲載する。
①「気に入っていると本人は言っていたし、それを疑う理由もとくに見つからなかった」
19「私の後ろに何が見える」307ページ。免色さんが「私」が描いた肖像画を、絵の具も十分乾いていないのに自分の家に持ち帰ったという話を聞いて、「私」の不倫相手の女性が、免色がその絵のことを「気に入ったのね」と尋ねたことに対して、
「気に入っていると本人は言っていたし、それを疑う理由もとくに見つからなかった」
と答えた。
このセリフが気になる。とても理屈っぽいセリフである。論理的といえば論理的なのだが、実際の会話の中で使われるとふたりの距離感を示すことになる。「私」は常に冷静に論理的な思考をする人のようである。
そのあとの回想場面で、宮城県の海沿いの町で出会った女性に、その時「私」が読んでいた森鴎外の『阿部一族』について説明したあと、
「私はその本を読み終え、もう一度読み返していた。話がなかなか面白かったこともわるが、森鴎外がいったい何のために、どのような観点からそんな小説を書いたのか、書かなくてはならなかったのか、うまく説明できなかったということもある。でもそんな説明を始めると話が長くなる。ここは読書クラブではない。」
と簡単な説明にとどめた理由を理屈っぽく解説している。
このような論理的な記載が村上春樹の小説には多かったような気もする。そして論理と現実のはざまで物語が生まれているような気もする。
②えがくこと
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その2回目。第1部を読み終わった。
第1部を読んでいて感じたのは、この小説は明らかに「表現論」であるということだ。もちろん評論文ではないので、表現については小説のサブテーマの一つであり、それが作者のしゅちょうであるかどうかはわからない。しかし、主人公は表現について考え、それが作品の展開に大きな影響を与えているのはあきらかだ。
主人公「私」は画家であり、肖像画を描く仕事をしていた。しかし妻と別れることをきっかけに肖像画は描かないことにする。そこに免色という人物があらわれる。免色は自分の肖像画を描くことを依頼する。その時「肖像画という制約を意識しないで自由に描」くことを要望する。「私」は受け入れ、免色の肖像画を描き上げる。
一般的な肖像画は写真のようなものであり、対象者主体である。それに対して抽象画は表現者主体である。免色の望む肖像画は対象者と表現者の関係の中で生まれる絵である。これは小説そのものであろう。すばらしい小説は現実との関係性の中にしか生まれない。ここには作者の表現についての思いが描かれているのではないかというのが、今のところの見立てである。このような視点から「イデア」「メタファー」がどういう意味を持っているのかが見えてくるのではなかろうか。
しかし、そういう見立てを超えて行くのが小説である。はたしてどうなるのか。楽しみである。
③他者による認識のないところにイデアは存在しない
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その3回目。38「あれではとてもイルカにはなれない」から
イデアである騎士団長が「私」に対して言う。
「イデアは他者による認識なしには存在しえないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ。」
それに対して「私」が騎士団長に言う。
「じゃあもしぼくが『騎士団長は存在しない』と思ってしまえば、あなたは存在しないわけだ。」
騎士団長が答える。
「理論的には。しかし現実的ではない。なぜならば、人が何かを考えるのをやめようと思って、考えるのをやめることは、ほとんど不可能だからだ。」
そして、次に騎士団長が言う。
「イルカにはそれができる。」
人間は「私」という存在にしばられ、「私」の観念に行動が制御されて苦しめられていく。しかしこういう存在は人間という生き物の特性なのだ。人間が人間であることはこういうことなのかと考えさせる理論である。
④メタ認知と自己
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その4回目。43「それがただの夢として終わってしまうわけではない」から。
人間は、誰でも通常は「自分」という存在を疑いもなく受け入れている。「自分」は「自明な存在」である。自分は当たり前の存在であり、何の疑問も感じずに受け入れている。小さいころ「自分」という存在に疑問を投げかけることはあるかもしれないが、そんな根源的な悩みは成長するにしたがってすぐに忘れてしまう。通常は自分は自分であり、それを疑ったり悩んだりしないまま大人になる。
しかし、ある瞬間その自己同一性に違和感を持つことがある。『騎士団長殺し』から引用する
「しかしその朝は、それらはなぜか私の手には見えなかった。手の甲も、手のひらも、爪も、掌紋も、どれもこれも見覚えのないよその人間のもののように見えた。」
病気になった時など、非日常の中に身を置いたときなどに、自分を自分として見ることに違和感を感じ始めて、自己を客観視する経験を持つ。それがメタ認知体験である。メタ認知を体験したあと、そのメタ認知の意味を積極的にとらえる人間が出てくる。そしてそれを新たな自己の再生ととらえる。
この章の最後を引用する。
「私は自由なのか? そのような問いかけは私には何の意味も持たなかった。今の私が何よりも必要としているのはあくまで、手に取ることのできる確実な現実だった。頼ることのできる足元の堅い地面だった。」
当たり前の自己に対する違和感を抱いたときに、自己の存在意義を見つめなおし、自己をこの世界にしっかりと位置づけようとする。そうしなければ不安定だからだ。不安定なままでは生きてはいけない。
人間は他者との関係の中で生きている。自分が自明の存在であり、何も疑問を感じていなかった時代には他者は必要としない。自己に対する自信を見失った時、初めて自分といす存在は自分だけでは成立しないことがわかる。そこで他者との関わりを積極的に試みなければいけないことに気づく。
小説はいよいよ動き始める。それは「私」の再生のために必然的に動き始めるのだ。
⑤イデアとメタファー
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その5回目。
イデアとは社会的に形成されてきた抽象概念である。それに対してメタファーというのは個人が作り上げたものだ。どちらも実体のないものという点では共通しているが、イデアはすでにあるものであるのに対して、メタファーとは新たに作り上げるものであるという点で異なっている。
このメタファーについて、自分がメタファーだと主張する「顔なが」は「ものとものをつなげるたけのもの」と説明させている。(「52オレンジ色のとんがり帽をかぶった男」)。つまりメタファーは関係を作り上げるものなのである。
「私」が「メタファー通路」に入り、川まで来ると顔のない男がいる。その男はペンギンの人形と引き換えに「私」を舟に乗せる。その時にいう。「おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。ここはそういう場所なのだ。」
イデアを殺し、メタファーの世界へと変化することは、世界との関わりを積極的に持とうとするとメタファーが生まれるということか。
⑥「質感が違う」
現象学を勉強しているとき次のようなことを学んだ。理屈の上では夢と現実は区別できない。それでも実際にわらわれは夢と現実を区別している。それは現実と夢とは感覚的に区別ができるからだ。
これと関連していることが『騎士団長殺し』に書かれている。「57私がいつかはやらなくてはならないこと」の冒頭。メタファーの旅から戻った「私」が考える。引用する。
私はやはり暗闇の中にいた。それで自分がまだ穴の底にいるような錯覚に一瞬襲われたが、そうでないことにすぐに気がついた。穴の底の完全な暗闇と、地上の夜の暗闇とでは質感が違う。
優れた小説はリアリティがあり、その「質感」が読者を引き込む。しかし村上春樹の小説はそこが弱いような気がする。メタファーはあくまでも物語であり、どうしてもリアリティに欠く。しかもメタファーの冒険は騎士団長によって予言されているので、成功することが約束されている。正直言ってこの「メタファーの旅」を私は楽しむことができなかった。
さあ、いよいよ残り100ページ。どこへ連れて行ってくれるのか。期待と不安がある。
⑦「メタファーの冒険とリアルな冒険」
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その7回目。
前回
「優れた小説はリアリティがあり、その「質感」が読者を引き込む。しかし村上春樹の小説はそこが弱いような気がする。」
と書いた。
しかしこの後、秋川まりえという少女が冒険をしていることが明かされる。秋川まりえというのは、他の人間には心を閉ざしている。「私」は幼い時に妹を亡くし、その少女と重なるところもあった。ふたりは絵画教室で出会い、秋川まりえは唯一「私」とは心を交わし始めた。秋川まりえはちょうど「私」が物語的なメタファーの冒険をしている同じ時間帯に、リアルな冒険をしている。ふたりの冒険は明らかに関連づけられている。「私」と秋川まりえは、ふたりで困難を乗り越えていたのだ。
作者は物語の力を信じている。物語は決して「閉じた環」ではない。現実の世界とつながっている、そう作者は考えているのだ。
⑧「信じる力」
村上春樹の『騎士団長殺し』を読み終わった。気になったことをメモ的に書き残す。その8回目。
「私」は別居中の妻と再会し、妻が生む子供の父親は自分かもしれないと言う。性行為が行われていないのだから現実的にはあり得ないのだが、観念的に妊娠させたという仮説を立てる。そして言う。
「この世界には確かなことなんて何一つないのかもしれない。でも少なくとも何かを信じることはできる。」
私たちは常に不安定な中にいる。自分は何で生きているのであろう。自分はなぜこの世界にいるのであろう。自分とは何? このような疑問を感じるのは近代人の本質なのかもしれない。その不安定な中で画家は絵を描くことによって自分を取り戻そうとする。そして小説家は小説を書くことによって確かなものを手に入れようとする。
観念と現実は別物ではない。観念は現実としっかりとつながっている。そういう確信が得ることができることが、小説家としての願いである。
「信じる力」
これを得るために我々はもがき苦しみながら生きているのだ。それを教えてくれる小説だった。
①「気に入っていると本人は言っていたし、それを疑う理由もとくに見つからなかった」
19「私の後ろに何が見える」307ページ。免色さんが「私」が描いた肖像画を、絵の具も十分乾いていないのに自分の家に持ち帰ったという話を聞いて、「私」の不倫相手の女性が、免色がその絵のことを「気に入ったのね」と尋ねたことに対して、
「気に入っていると本人は言っていたし、それを疑う理由もとくに見つからなかった」
と答えた。
このセリフが気になる。とても理屈っぽいセリフである。論理的といえば論理的なのだが、実際の会話の中で使われるとふたりの距離感を示すことになる。「私」は常に冷静に論理的な思考をする人のようである。
そのあとの回想場面で、宮城県の海沿いの町で出会った女性に、その時「私」が読んでいた森鴎外の『阿部一族』について説明したあと、
「私はその本を読み終え、もう一度読み返していた。話がなかなか面白かったこともわるが、森鴎外がいったい何のために、どのような観点からそんな小説を書いたのか、書かなくてはならなかったのか、うまく説明できなかったということもある。でもそんな説明を始めると話が長くなる。ここは読書クラブではない。」
と簡単な説明にとどめた理由を理屈っぽく解説している。
このような論理的な記載が村上春樹の小説には多かったような気もする。そして論理と現実のはざまで物語が生まれているような気もする。
②えがくこと
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その2回目。第1部を読み終わった。
第1部を読んでいて感じたのは、この小説は明らかに「表現論」であるということだ。もちろん評論文ではないので、表現については小説のサブテーマの一つであり、それが作者のしゅちょうであるかどうかはわからない。しかし、主人公は表現について考え、それが作品の展開に大きな影響を与えているのはあきらかだ。
主人公「私」は画家であり、肖像画を描く仕事をしていた。しかし妻と別れることをきっかけに肖像画は描かないことにする。そこに免色という人物があらわれる。免色は自分の肖像画を描くことを依頼する。その時「肖像画という制約を意識しないで自由に描」くことを要望する。「私」は受け入れ、免色の肖像画を描き上げる。
一般的な肖像画は写真のようなものであり、対象者主体である。それに対して抽象画は表現者主体である。免色の望む肖像画は対象者と表現者の関係の中で生まれる絵である。これは小説そのものであろう。すばらしい小説は現実との関係性の中にしか生まれない。ここには作者の表現についての思いが描かれているのではないかというのが、今のところの見立てである。このような視点から「イデア」「メタファー」がどういう意味を持っているのかが見えてくるのではなかろうか。
しかし、そういう見立てを超えて行くのが小説である。はたしてどうなるのか。楽しみである。
③他者による認識のないところにイデアは存在しない
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その3回目。38「あれではとてもイルカにはなれない」から
イデアである騎士団長が「私」に対して言う。
「イデアは他者による認識なしには存在しえないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ。」
それに対して「私」が騎士団長に言う。
「じゃあもしぼくが『騎士団長は存在しない』と思ってしまえば、あなたは存在しないわけだ。」
騎士団長が答える。
「理論的には。しかし現実的ではない。なぜならば、人が何かを考えるのをやめようと思って、考えるのをやめることは、ほとんど不可能だからだ。」
そして、次に騎士団長が言う。
「イルカにはそれができる。」
人間は「私」という存在にしばられ、「私」の観念に行動が制御されて苦しめられていく。しかしこういう存在は人間という生き物の特性なのだ。人間が人間であることはこういうことなのかと考えさせる理論である。
④メタ認知と自己
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その4回目。43「それがただの夢として終わってしまうわけではない」から。
人間は、誰でも通常は「自分」という存在を疑いもなく受け入れている。「自分」は「自明な存在」である。自分は当たり前の存在であり、何の疑問も感じずに受け入れている。小さいころ「自分」という存在に疑問を投げかけることはあるかもしれないが、そんな根源的な悩みは成長するにしたがってすぐに忘れてしまう。通常は自分は自分であり、それを疑ったり悩んだりしないまま大人になる。
しかし、ある瞬間その自己同一性に違和感を持つことがある。『騎士団長殺し』から引用する
「しかしその朝は、それらはなぜか私の手には見えなかった。手の甲も、手のひらも、爪も、掌紋も、どれもこれも見覚えのないよその人間のもののように見えた。」
病気になった時など、非日常の中に身を置いたときなどに、自分を自分として見ることに違和感を感じ始めて、自己を客観視する経験を持つ。それがメタ認知体験である。メタ認知を体験したあと、そのメタ認知の意味を積極的にとらえる人間が出てくる。そしてそれを新たな自己の再生ととらえる。
この章の最後を引用する。
「私は自由なのか? そのような問いかけは私には何の意味も持たなかった。今の私が何よりも必要としているのはあくまで、手に取ることのできる確実な現実だった。頼ることのできる足元の堅い地面だった。」
当たり前の自己に対する違和感を抱いたときに、自己の存在意義を見つめなおし、自己をこの世界にしっかりと位置づけようとする。そうしなければ不安定だからだ。不安定なままでは生きてはいけない。
人間は他者との関係の中で生きている。自分が自明の存在であり、何も疑問を感じていなかった時代には他者は必要としない。自己に対する自信を見失った時、初めて自分といす存在は自分だけでは成立しないことがわかる。そこで他者との関わりを積極的に試みなければいけないことに気づく。
小説はいよいよ動き始める。それは「私」の再生のために必然的に動き始めるのだ。
⑤イデアとメタファー
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その5回目。
イデアとは社会的に形成されてきた抽象概念である。それに対してメタファーというのは個人が作り上げたものだ。どちらも実体のないものという点では共通しているが、イデアはすでにあるものであるのに対して、メタファーとは新たに作り上げるものであるという点で異なっている。
このメタファーについて、自分がメタファーだと主張する「顔なが」は「ものとものをつなげるたけのもの」と説明させている。(「52オレンジ色のとんがり帽をかぶった男」)。つまりメタファーは関係を作り上げるものなのである。
「私」が「メタファー通路」に入り、川まで来ると顔のない男がいる。その男はペンギンの人形と引き換えに「私」を舟に乗せる。その時にいう。「おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。ここはそういう場所なのだ。」
イデアを殺し、メタファーの世界へと変化することは、世界との関わりを積極的に持とうとするとメタファーが生まれるということか。
⑥「質感が違う」
現象学を勉強しているとき次のようなことを学んだ。理屈の上では夢と現実は区別できない。それでも実際にわらわれは夢と現実を区別している。それは現実と夢とは感覚的に区別ができるからだ。
これと関連していることが『騎士団長殺し』に書かれている。「57私がいつかはやらなくてはならないこと」の冒頭。メタファーの旅から戻った「私」が考える。引用する。
私はやはり暗闇の中にいた。それで自分がまだ穴の底にいるような錯覚に一瞬襲われたが、そうでないことにすぐに気がついた。穴の底の完全な暗闇と、地上の夜の暗闇とでは質感が違う。
優れた小説はリアリティがあり、その「質感」が読者を引き込む。しかし村上春樹の小説はそこが弱いような気がする。メタファーはあくまでも物語であり、どうしてもリアリティに欠く。しかもメタファーの冒険は騎士団長によって予言されているので、成功することが約束されている。正直言ってこの「メタファーの旅」を私は楽しむことができなかった。
さあ、いよいよ残り100ページ。どこへ連れて行ってくれるのか。期待と不安がある。
⑦「メタファーの冒険とリアルな冒険」
村上春樹の『騎士団長殺し』を読んでいる。気になったことをメモ的に書き残す。その7回目。
前回
「優れた小説はリアリティがあり、その「質感」が読者を引き込む。しかし村上春樹の小説はそこが弱いような気がする。」
と書いた。
しかしこの後、秋川まりえという少女が冒険をしていることが明かされる。秋川まりえというのは、他の人間には心を閉ざしている。「私」は幼い時に妹を亡くし、その少女と重なるところもあった。ふたりは絵画教室で出会い、秋川まりえは唯一「私」とは心を交わし始めた。秋川まりえはちょうど「私」が物語的なメタファーの冒険をしている同じ時間帯に、リアルな冒険をしている。ふたりの冒険は明らかに関連づけられている。「私」と秋川まりえは、ふたりで困難を乗り越えていたのだ。
作者は物語の力を信じている。物語は決して「閉じた環」ではない。現実の世界とつながっている、そう作者は考えているのだ。
⑧「信じる力」
村上春樹の『騎士団長殺し』を読み終わった。気になったことをメモ的に書き残す。その8回目。
「私」は別居中の妻と再会し、妻が生む子供の父親は自分かもしれないと言う。性行為が行われていないのだから現実的にはあり得ないのだが、観念的に妊娠させたという仮説を立てる。そして言う。
「この世界には確かなことなんて何一つないのかもしれない。でも少なくとも何かを信じることはできる。」
私たちは常に不安定な中にいる。自分は何で生きているのであろう。自分はなぜこの世界にいるのであろう。自分とは何? このような疑問を感じるのは近代人の本質なのかもしれない。その不安定な中で画家は絵を描くことによって自分を取り戻そうとする。そして小説家は小説を書くことによって確かなものを手に入れようとする。
観念と現実は別物ではない。観念は現実としっかりとつながっている。そういう確信が得ることができることが、小説家としての願いである。
「信じる力」
これを得るために我々はもがき苦しみながら生きているのだ。それを教えてくれる小説だった。