とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

現代文の参考書「言語論」

2021-11-07 09:48:58 | 現代文の参考書
(以前書いたブログを少し手直ししてもう一度掲載します。)

1.「言語論」入門
 「言語論」と呼ばれる評論があります。多くの評論の中で、高校の現代文の教科書で一番取り上げられている分野だと思います。
 高校で学ぶ現代文の評論は難解なものが多くあります。それらの多くは現代思想の「構造主義」と呼ばれるものです。「言語論」はその「構造主義」の土台と言ってもいいと思います。だから「言語論」を勉強することは、高校の現代文の評論を理解するための土台を作ることになります。
 難しいけれど、がんばって理解してください。

2.高校評論文は「常識」を疑う
 まずは確認しておきましょう。
 高校の国語の評論文はとてもむずかしい文章が教材になっています。なぜ難しいのでしょうか。それは、高校の評論文が「私たちの『常識』は、本当は正しくないかもしれない。」という内容のものが多いからです。「常識」を疑いまったく新しい概念を示すわけですから、理解するのが難しいのです。
 私たちの生きている時代は「近代」と呼ばれています。この「近代」の常識を疑う内容の文章が高校の現代文には多いのはなぜなのでしょうか。
 例えば、近代ではお金持ちが幸せだという「常識」があります。でも本当でしょうか。お金がたくさんあっても決して幸せではありません。例えば偏差値の高い人が優れているという「常識」があります。しかしそんなことはありませんよね。
 みなさんは「古代」の人たちのものの考え方は古いものだと思うでしょう。しかし「古代」の人たちはその人たちの「常識」の中でそれを当たり前だと思って生きているだけなのです。同じようにみなさんの「常識」は、次の時代の人たちからは古くてばかばかしいものと思われる可能性があります。
 新しい時代の新しい「常識」を作っていかなければ、人類は間違った価値観のまま生き続けることになります。それではだれも幸福にはなりません。
だから「近代」の「常識」を疑うことは必要なのです。

3.「言語論」とは何か
 このことを念頭において「言語論」について考えてみましょう。
 言葉についての「私たちの常識」はなんでしょうか。
 それは、
 モノがあって、初めてそれに名前がつけられる。つまり、モノが言葉に先行する。
 というものです。
 それに対して、「言語論」評論の主張は、
 言葉とモノは同時に存在する。もしくは言葉のほうがモノに先行する。
 というものなのです。このことをもう少し詳しく説明していきましょう。

3-1 近代の常識=「モノは名前より先に存在する」
 私たち人間は「名づけ」という行為を行います。
 例えば、赤ん坊が生まれるとそれに名前をつけます。人生の中でもとても大きな出来事なので印象深いものです。みなさんにも名前がありますよね。みなさんの名前はどのようにしてつけられたのでしょうか。どういう親の思いがあるのでしょうか。聞いてみるとその人のことがさらに分かってきます。名前にはいろいろドラマがありますが、ここで確認しておきたいのは、赤ちゃんが生まれることによって名前が必要になるということです。名前があると赤ちゃんが生まれるとわけではありませんよね。つまり、「赤ちゃんは名前に先に存在する。」と言ってよさそうですよね。
 また、新しい星を発見するとそれに名前をつける権利を得るそうです。新星を発見することを生涯の楽しみにしている天体マニアもいるそうです。新星がなければその星に名前はつきません。星が生まれたからこそ、そこに名前がつけられる。当たり前すぎて疑問に感じることはありません。
 新製品を開発するとそのネーミングに苦心します。名前の付け方によっては、大ヒットしたり、逆に予想外に売れなかったりすることもあるようです。
新しいモノが生まれたり。発見したりすると、それに名前をつけます。「名付け」は人間にとって、とても重大な行為のように思えます。
 そこで、こう考えます。
「何かが生まれると、それに名前が与えられる」
 そして、
「モノがあれば、それには名前が与えられる。」
 だから、
「モノは言葉より先に存在する。」
 と、わたしたちは考えるようになります。これがわたしたちの常識です。
 しかし、「言語論」はこれに疑問を投げかけるのです。



3-2 「言語論」⇒「言葉によってモノは存在し始める」
 上の常識は、上記のような名付けの典型的な例の場合は確かに正しいのですが、見方を変えるとそうはならないことがあるとわかってきます。
いくつかの例を見てみましょう。

3-2-1 具体例1 砂は何粒でも「砂」だし、どんな形でも「砂」でしかない
 「砂」について考えてみましょう。
 「砂」という言葉があります。「砂」というとみなさんはどういうモノを想像するでしょうか。「砂場」の砂であったり、砂浜の砂であったり、あるいは砂の一粒、一粒であったり、いろいろです。砂1粒でも「砂」、一握り(おそらく1000粒ぐらい)でも「砂」、砂場(おそらく何千万粒)でも「砂」です。「砂」という言葉はあるのですが、その「砂」が「砂粒」何個に相当するのかは考えたこともありません。
 砂粒ひとつひとつについて考えてみてください。一つ一つの砂粒は小さいので、特に区別もしないで「砂」と言ってしまいます。しかしよくよく見てみると、砂粒ひとつひとつはそれぞれ違う形をしているし、大きさも一定ではありません。それぞれ個性的なのです。なのに、それらひとつひとつに名前は与えられていません。なぜなのでしょうか。砂粒ひとつひとつならば、無視していいのでしょうか。
 人間ならば考えられない話ですよね。形も大きさも大きく違う砂粒がみんな「砂」という名前しか与えられていないなんてことが、人間の場合でもあてはまるのでしょうか。いいえ、人間の場合ならば、それぞれに何らかの名前が与えられるはずです。
 人間ではなくとも人間にとって身近な動物姿や形を全く無視して分類されるなんてことはありません。例えば犬の中でも大きな犬と小さな犬があり、外見上も大きく違ういろいろとの種類の犬がいます。それぞれの種類に応じたそれぞれ応じた名前が与えられます。セントバーナーナード、柴犬、チワワなど様々な種類の名前が登場します。砂の場合は違います。全く違う大きさの、まったく違う形の、しかも素材も違うような砂が区別されることなく、「砂」という名前しか与えられていないのです。変な話ではありませんか。
 命のないものでも同じようなことが言えます。例えば建物。小さな一軒家と大きなビル、建物という点では一緒ですが、「家」と「ビル」というように名称を別にします。アパート、マンション、平屋、様々な名称がつきそれぞれ別のものと認識されます。
 このようない「砂」は「砂」でしかないのにかかわらず。「犬」は「犬」であるとともに「セントバーナード」や「柴犬」です。「建物」は「建物」であると同時に「一軒家」であり「ビル」でもあるのです。「砂」よりも「犬」や「建物」が偉いということでしょうか。いいえ違います。
 名称を与えるか与えないかは、人間の勝手な判断によっているのです。人間にとって分類すべきものには別の名称を与え、分類する必要のないものは一つの名称ですませている、それだけのことなのです。
 だから、もし子どもの砂場用の砂に、「すなばんば」なんて名称を与えて、それが日本人の中で定着すれば、「すなばんば」は「すなばんば」として存在を開始することになります。
 名称が存在に先立つというのはこういうことなのです。

3-2-2 具体例2 「灰色」ってどんな色?
 似た例をもうひとつ。色のことです。
 「灰色」ってどんな色なのでしょうか。
 「黒」と「白」はだれもがはっきりしているので問題ありません。しかし、その間にあたる灰色は、かなりの幅があります。「薄い灰色」もありますし、「濃い灰色」もあります。「薄い灰色」と「濃い灰色」を並べてみると、明らかに違う色です。イメージも違うし、ファッション業界の人や、インテリア関係の人にとってはその違いは非常に大きなものであろうと思われます。しかし。一般には「灰色」は「灰色」であって、普段その違いを意識しないで、「灰色」という言葉をつかっているはずです。
 ちょっと考えてみてください。「灰色」ということばを聞いてみなさん、どんな色を思い浮かべるでしょうか。おそらく十人十色、みんな濃さの違う灰色を思い浮かべているのではないでしょうか。しかし、その思い浮かべた灰色を特に意識して区別しない限り、みんな「灰色」としてしか意識していないはずです。それぞれの人が思い浮かべた色を具体的に提示して、
「これ何色ですか?」
と、聞いても、だれもが、どの色に対しても、なんの疑問も感じずに
「灰色」
と答えるだけです。「黒」と「白」の間に「灰色」という言葉しかなければ、どんなに幅があろうと、私たちはそれを「灰色」としか認識しません。
 これは、言葉(つまり「灰色」という言葉)が、存在(「黒」と「白」の間の幅の広い色)に先立つ一つの例と言っていいのではないでしょうか。
もし、色に対して違いが重要な社会であったなら、きっと「薄い灰色」と「濃い灰色」に別の名前を与えていたと思います。現実に今の日本の社会では重要な違いです。現実に洋服の世界では「チャコールグレイ」という言葉が定着しつつあります。
 「チャコールグレイ」とは「濃い灰色」のことです。この言葉が定着することによって、ようやく幅の広かった「灰色」が、普通の灰色と濃い灰色の二つに分かれることができそうです。このことは「チャコールグレイ」という言葉によって、すでに存在していた灰色に切れ目をつけて、新たな色を創造したということになるわけです。
 このように、さまざまなこの世の中のものは、言葉によって存在を開始し、言葉によって存在を得ていると言えるのです。

3-2-3 具体例3  「辛い」ってどんな味?
 国語の評論文で「言語論」をしています。言葉とそれを指し示す内容は同時に生まれるということを説明する具体例として「辛い」という言葉で説明しています。以下の通りです。
 「辛い」という言葉について考えてみましょう。
 「辛い」というのはもちろん味の概念です。若い時私は「辛い」という味について特に何も考えずに、単なるひとつの味だと認識していました。しかし改めて考えてみると、コショウの味と、唐辛子の味は全く違います。ラーメンに唐辛子をかける人はあまりいませんし、そばにコショウをかける人もあまりいません。それぞれの味には特徴があるのです。だんだん「辛い」の意味は実は  ひとつの味ではないというのが分かってきました。
 英語では「辛い」が2語あります。「hot」と「spicy」です。カレーを食べたとき唐辛子系の「hot」な辛さが最初に来て、あとから「spicy」な辛さが追ってくる経験をしたことがある人も多いと思います。その時、同じ辛さでもいろいろあることに気づきます。
 中国語では3種類あるそうです。「辣(ラー)」と「麻(マー)」と「辛(シン)」です。「辣(ラー)」はトウガラシなどの熱を伴う辛味。「麻(マー)」はサンショウなどの痺れる辛味だそうです。では「辛(シン)」は何なのでしょう。ユズやシナモンといった、あまり痛覚を刺激せず、日本語的な辛味の範疇に収まらない味だということです。
 「辛い」という味は、一見不快な味でありながら、その刺激がくせになり積極的に食べたくなるような味の総称のようです。本当ならば全く違う、一緒の範疇に入らないような味が、ひとつの「辛い」という言葉によって結びつけられていると言っていいのです。
 「辛い」という言葉を考えてみると、「言葉」があってはじめて「モノ」が存在するということがわかってくるように思われます。

3-2-4 具体例4 「0」の発明
 「0」という数字は大昔にはありませんでした。古代インドの数学で数としての「0」の概念が確立されたのは5世紀頃だそうです。そしてインドの数学者のブラーマグプタは、628年に著した『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』において、ほぼ現代の数学同じような定義をしているということです。つまり、それ以前は「0」というすう時はなかったのです。
 「0」は何もない数です。何もない数が「0」という数字が生まれたから存在を始めますからです。私たちが「0」をイメージできるのは、「0」という数があるからなのです。ですから「0」という言葉によって「0」は存在を始まると言えますね。

3-2-5 具体例5 「愛」ってどんな気持ち
 「愛」という言葉があります。「愛」ってどんな気持ちでしょう。
 三省堂の「新明解国語辞典」では次のように説明しています。
 「個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間に本来備わっているととらえられる心情。」
 どうも長いだけで、わかるようでわからない説明ですね。私たちは「愛」という言葉を普通に使っているので、いざその意味を問われるとうまく説明できません。あまりに当たり前すぎて説明できないのです。その「愛」の意味を少し考えてみましょう。
 一番最初に思い浮かぶのが「恋愛」の「愛」です。
 そして次に「親子愛」とか「動物愛」のような場合の「愛」を思い浮かべます。
 この「恋愛」の「愛」と、「動物愛」の「愛」は同じ感情でしょうか。どう考えても違う感情ですよね。それなのに「愛」という同じ言葉で表現されるので、共通しているもののように感じられます。確かに「他者をいとおしく思う気持ち」という意味で共通していると言えるかもしれません。しかし、「友情」という気持ち同じように「他者をいとおしく思う気持ち」であり、なぜ、友情に「愛」という言葉を使わないのかうまく説明できなくなるのではないでしょうか。
 こう考えると、必然的な理由によって「愛」という言葉があるのではないということがわかります。友情には「愛」という言葉を使わなかったのは偶然の要素でしかないと思われます。
 「恋人同士」「親子」「動物」に対しては「愛」という言葉を使って、「友達」には使用しないというのは筋の通る理由なんかありません。なんらかの偶然的な理由によって「愛」と表現してきたものと、「愛」という言葉を使わなかっただけなのです。タマタマなのです。様々な感情を「愛」という言葉によって一つのカテゴリーに分類し、一つのものとしてとらえているだけなのです。
 つまり「愛」という言葉によっていろいろな感情の中の、いくつかの感情が一つの感情として存在しはじめていると言えるのです。
人類はさらに発展させて、そこに新たな言葉を発明することによって、新しい概念を作り上げてきました。「自由」「権利」「義務」などの抽象概念です。これらの目に見えない頭の中だけの「概念」を生み出すことによって、人間は秩序ある社会を作り上げてきたのです。

3-3 言葉によって存在が開始される
 以上5つの例を見てくると、そこに何かあったものに名付けて言葉をあたえているのではなく、言葉が先にあることによって存在が開始されるということがわかってくると思います。

4 「言語とモノは同時に存在する。もしくは言葉のほうがモノに先行する」は不親切
 ここで最初にもどります。最初に
 言語とモノは同時に存在する。もしくは言葉のほうがモノに先行する。
と書きました。しかしこれが高校生を混乱させ、わかりにくくしているのかもしれません。さっきの例で言えば、「砂」は「砂」という言葉がなくても存在していますし、「グレー」という色も存在しているのです。だから「言語とモノは同時に存在する。もしくは言葉のほうがモノに先行する。」というのはやはり無理があるのです。
 この場合
 言葉によってモノは認識される。
 というのがより近いのです。

5 言葉こそが人間
 「言葉」というのは、人間にとって何かを伝えるための道具のように思っていたかもしれません。しかし、言葉というのは「人間が人間であるためにどうしても必要なもの」であり、言い方を変えれば「言葉こそが人間の本質」なのです。


6 応用問題「となりの人と同じ色を見ているのか
 この問題と関連して次の問題を宿題とします。
 私が確か高校生のころだったと思います。ふと疑問に感じたことがありました。例えば空を見て「青」と思ったとします。その「青」はとなりの人と同じ色として目に映っているのだろうかという問題です、
 確かに空の色は「青」と子どものころから教え込まれているので、となりの人と「青」と話が通じないことはありません。「赤」は血の色なので、話は通じます。しかし、となりの人の目の中(つまりは「脳の中」)までは見ることができません。だからとなりの人がまったく別の色を「青」と思っているかもしれないのです。もしかしたら、となりの人と全く違う色彩世界を私たちはみているのではないでしょうか。はたしてこのように考えていいのでしょうか。
 これまで考えてきたことを総合すると、もし万一、その人の脳の中の映像を直接のぞいてみることができるならば、違う色を見ていてもおかしくありませんよね。しかし、たとえ違う色だったとしても、言葉としては通じているし、なんの問題も生じてはこないはずです。
 ちょっと理屈っぽい問題で、私自身明確に答えることができませんが、私たち人間が言葉によって物事を区分けして見ているとすれば、言葉が通じていて、それが同じならば、同じものをさしていると考えていいわけです。
 もしかしたら、生物学的、医学的にまったく別の考え方がなされるかもしれません。おもしろいテーマだと思うので、ぜひ考えて、勉強して、答えを導いてください。

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「辛い」とは何か(「言語論」入門)

2021-11-06 05:48:08 | 現代文の参考書
 国語の評論文で「言語論」をしています。言葉とそれを指し示す内容は同時に生まれるということを説明する具体例として「辛い」という言葉で説明しています。以下の通りです。

 「辛い」という言葉について考えてみましょう。

 「辛い」というのはもちろん味の概念です。若い時私は「辛い」という味について特に何も考えずに、単なるひとつの味だと認識していました。しかし改めて考えてみると、コショウの味と、唐辛子の味は全く違います。ラーメンに唐辛子をかける人はあまりいませんし、そばにコショウをかける人もあまりいません。それぞれの味には特徴があるのです。だんだん「辛い」の意味は実はひとつの味ではないというのが分かってきました。

 英語では「辛い」が2語あります。「hot」と「spicy」です。カレーを食べたとき唐辛子系の「hot」な辛さが最初に来て、あとから「spicy」な辛さが追ってくる経験をしたことがある人も多いと思います。その時、同じ辛さでもいろいろあることに気づきます。

 中国語では3種類あるそうです。「辣(ラー)」と「麻(マー)」と「辛(シン)」です。「辣(ラー)」はトウガラシなどの熱を伴う辛味。「麻(マー)」はサンショウなどの痺れる辛味だそうです。では「辛(シン)」は何なのでしょう。ユズやシナモンといった、あまり痛覚を刺激せず、日本語的な辛味の範疇に収まらない味だということです。

 「辛い」という味は、一見不快な味でありながら、その刺激がくせになり積極的に食べたくなるような味の総称のようです。本当ならば全く違う、一緒の範疇に入らないような味が、ひとつの「辛い」という言葉によって結びつけられていると言っていいのです。

 「辛い」という言葉を考えてみると、「言葉」があってはじめて「モノ」が存在するということがわかってくるように思われます。
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現代文の参考書シリーズ 時間論7【現代思想と直線的時間観への懐疑】

2017-08-15 09:51:46 | 現代文の参考書
現代思想の中で「時間」は大きなテーマとなっています。

 アインシュタインの相対性理論では時間を相対的なものととらえ、絶対的な時間はないとされています。もちろん相対性理論は純粋に科学的な理論なので本当は簡単に言い換えてはいけません。しかしあえて不正確なことを言わせてもらうと、時間というのはそれぞれの観測者によって当然違うものなのです。観測者はそれぞれの運動の中にいて、違う時間が流れの中に生きています。みんな違う時間が流れていくのです。

 ポストモダンは価値観の多様化に向かって進んでいきます。これはあきらかに直線的な時間観とは別の時間観です。

 わたしたち現代人の多くは時間に追われていきます。そしてそれに負けまいとなんとかその日を暮らしていきます。それは本当に幸せなのか。自然の中で時間を意識しない生き方のほうがいいのではないか。ポストモダンは私たちにそんな問題を投げかけています。


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現代文の参考書シリーズ 時間論6【「先進国」と「未開国」】

2017-08-12 07:57:49 | 現代文の参考書
 近代化が進んだ国が「先進国」と名付けられ、それ以外の国と区別されました。そして世界中の国が「先進国」目指して近代化を始めるようになりました。これも一概に悪いこととは言えません。近代化は人々をある意味で幸福にしているのは事実だからです。例えば医療の進歩は、近代化のおかげです。

 しかし、いわゆる「未開国」に住んでいる人は不幸なのでしょうか。飢餓の問題や伝染病の問題もあるのでそういう意味での改善はあるべきだとは思うのですが、しかし、不幸なわけではありません。近代人とは違う価値観の中でそこに住む人々は幸福に暮らしているのだと思います。

 先進国の人々はそこを植民地にして、悪い言葉で言えば「食いもん」にしてきました。その理不尽さに気づいた原住民は、近代化しなければならないと思い始めました。本来の自分たちの価値観を捨ててしまって、近代化の文脈で物事を考え始めてたのです。長い歴史を考えたら、もしかしたらその未開国の価値観の方がすばらいいものだったかもしれないのに、先進国のわがままのせいで、その価値観が失われてしまったかもしれないのです。その意味で押しつけがましいグローバル化は大きな問題があります。

 もしそうだとしたら人類は大変な失敗をしたかもしれない。だとしたら取り返しがつきません。
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現代文の参考書シリーズ 時間論5【円環的時間観と日本思想】

2017-08-10 14:25:45 | 現代文の参考書
 古代における時間観は円環的と説明してきました。それは様々な文芸作品にも表れてきます。日本文学においては、「もののあはれ」「栄枯盛衰」などの言葉によって表されています。

 『源氏物語』は最初は光源氏の栄華を極めるまでのサクセスストーリーのように思われます。もしそうだとしたら直線的な時間の物語と言ってもいいかもしれません。しかし次第にそうではなくなっていきます。光源氏の晩年は、女三宮の不義があり、また紫の上とも死別するなど、あまりうまくいっていないと言ってもよい。しかも宇治十条はもはや突破口を失い、同じところをぐるぐる回っているような展開となってしまっている。あきらかに現代的なストーリーとは違っています。

 物語論には貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)という類型があります。貴種流離譚とは若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるとする説話の一類型のことです。自分のいた場所から、物理的にぐるっと一周回ってくると偉くなっているという物語のパターンです。『源氏物語』では須磨・明石のあたりがそのパターンになっています。これも円環的時間による物語展開と言ってもいいでしょう。

 『奥の細道』における冒頭の文句、
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」
も、あきらかな円環的時間観をしめしています。

 このように古代の人間は円環的な時間を自らの根本に持ちながら生きていたのはあきらかですし、その思想を抜きにして古典文学を語ることはできません。現代を相対化する意味においても重要な視座であることは明らかです。
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