高校の国語がひどいことになりそうだ。
新学習指導要領によって高校の国語が次のように変わる。
必修科目は現行の「国語総合」(4単位)の代わりに、「現代の国語」(2単位)・「言語文化」(2単位)の2科目 になる。これは内容的に大きく変わる可能性は低い。言語活動を取り入れるという改革は進むと思うが、従来の「国語総合」と大きく変わらないであろう。
しかし主に2年生以降に学ぶ選択科目が困ったことになっている。「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4科目、いずれも4単位になる。「現代文」がなくなり、「論理国語」と「文学国語」になるのだ。この変更によって大きな問題が生じるであろう。
1つ目。おそらく多くの高校、特に進学校では「論理国語」だけを選ぶことになる。そして入試対策の難解な評論ばかりを勉強することになる。すると解説ばかりの授業になり、従来の講義型の授業しか成立しなくなるのだ。現在センター試験の難化により、意味もなく難解な評論文が高校の国語で扱われているのが現状だ。高校生が大学院で学ぶような文章を読まされているのである。読解できるはずがない。しかし、無能なのに学歴の高い国語教師はそれを楽しんで解説授業を行っている。今回の変更はそれをさらに推し進める結果となりかねない。
2つ目。従来国語の授業で扱われていた小説を勉強しなくなという危険性がある。これは本当に困ったことである、小説は大学入試で点になりにくい。勉強したからと言って点数に結び付きにくいのだ。だから今日少しずつ存在感を失いつつある。しかし文化を教えなくてなんの教育なのだろうか。それぞれの国で自国の文化を教える教育は絶対に行っているはずだ。それなのに日本だけは国語教育を軽視し、英語教育にシフトしている。日本は日本を捨て去ろうとしていると言ってもいい。加えて、小説は評論文に比べて構造的な複雑さがあり、本来探究的な学習をするには適している教材なのである。文科省の担当者がそれがわかっていないということは絶望的である。
なぜこのようなことになってしまったのか。おそらく国語教師も含めて国語教育に対して無関心であるからである。海外の「国語」教育もよく学び、そして一から議論して、まずは国語教育を議論できる環境を作り上げる必要がある。
新学習指導要領によって高校の国語が次のように変わる。
必修科目は現行の「国語総合」(4単位)の代わりに、「現代の国語」(2単位)・「言語文化」(2単位)の2科目 になる。これは内容的に大きく変わる可能性は低い。言語活動を取り入れるという改革は進むと思うが、従来の「国語総合」と大きく変わらないであろう。
しかし主に2年生以降に学ぶ選択科目が困ったことになっている。「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4科目、いずれも4単位になる。「現代文」がなくなり、「論理国語」と「文学国語」になるのだ。この変更によって大きな問題が生じるであろう。
1つ目。おそらく多くの高校、特に進学校では「論理国語」だけを選ぶことになる。そして入試対策の難解な評論ばかりを勉強することになる。すると解説ばかりの授業になり、従来の講義型の授業しか成立しなくなるのだ。現在センター試験の難化により、意味もなく難解な評論文が高校の国語で扱われているのが現状だ。高校生が大学院で学ぶような文章を読まされているのである。読解できるはずがない。しかし、無能なのに学歴の高い国語教師はそれを楽しんで解説授業を行っている。今回の変更はそれをさらに推し進める結果となりかねない。
2つ目。従来国語の授業で扱われていた小説を勉強しなくなという危険性がある。これは本当に困ったことである、小説は大学入試で点になりにくい。勉強したからと言って点数に結び付きにくいのだ。だから今日少しずつ存在感を失いつつある。しかし文化を教えなくてなんの教育なのだろうか。それぞれの国で自国の文化を教える教育は絶対に行っているはずだ。それなのに日本だけは国語教育を軽視し、英語教育にシフトしている。日本は日本を捨て去ろうとしていると言ってもいい。加えて、小説は評論文に比べて構造的な複雑さがあり、本来探究的な学習をするには適している教材なのである。文科省の担当者がそれがわかっていないということは絶望的である。
なぜこのようなことになってしまったのか。おそらく国語教師も含めて国語教育に対して無関心であるからである。海外の「国語」教育もよく学び、そして一から議論して、まずは国語教育を議論できる環境を作り上げる必要がある。