とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

高校国語の学習指導要領の改悪

2018-10-28 08:23:46 | 高校国語改革
 高校の国語がひどいことになりそうだ。

 新学習指導要領によって高校の国語が次のように変わる。

 必修科目は現行の「国語総合」(4単位)の代わりに、「現代の国語」(2単位)・「言語文化」(2単位)の2科目 になる。これは内容的に大きく変わる可能性は低い。言語活動を取り入れるという改革は進むと思うが、従来の「国語総合」と大きく変わらないであろう。

 しかし主に2年生以降に学ぶ選択科目が困ったことになっている。「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4科目、いずれも4単位になる。「現代文」がなくなり、「論理国語」と「文学国語」になるのだ。この変更によって大きな問題が生じるであろう。

 1つ目。おそらく多くの高校、特に進学校では「論理国語」だけを選ぶことになる。そして入試対策の難解な評論ばかりを勉強することになる。すると解説ばかりの授業になり、従来の講義型の授業しか成立しなくなるのだ。現在センター試験の難化により、意味もなく難解な評論文が高校の国語で扱われているのが現状だ。高校生が大学院で学ぶような文章を読まされているのである。読解できるはずがない。しかし、無能なのに学歴の高い国語教師はそれを楽しんで解説授業を行っている。今回の変更はそれをさらに推し進める結果となりかねない。

 2つ目。従来国語の授業で扱われていた小説を勉強しなくなという危険性がある。これは本当に困ったことである、小説は大学入試で点になりにくい。勉強したからと言って点数に結び付きにくいのだ。だから今日少しずつ存在感を失いつつある。しかし文化を教えなくてなんの教育なのだろうか。それぞれの国で自国の文化を教える教育は絶対に行っているはずだ。それなのに日本だけは国語教育を軽視し、英語教育にシフトしている。日本は日本を捨て去ろうとしていると言ってもいい。加えて、小説は評論文に比べて構造的な複雑さがあり、本来探究的な学習をするには適している教材なのである。文科省の担当者がそれがわかっていないということは絶望的である。

 なぜこのようなことになってしまったのか。おそらく国語教師も含めて国語教育に対して無関心であるからである。海外の「国語」教育もよく学び、そして一から議論して、まずは国語教育を議論できる環境を作り上げる必要がある。
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安田純平氏は「自己責任」である。だからすごいのだ

2018-10-25 07:32:12 | 社会
 シリアで武装勢力に拘束されていた安田純平さんが約3年4カ月ぶりに解放が確認された。安田純平氏は自分の意志で取材に行き、そこで拘束されたのだから多くの人が言うように「自己責任」である。しかし「自己責任」であるから無視すべきだというものではあるまい。「自己責任」でありながら、危険を冒してまで意義のある活動をしたことに対して称賛するのである。それが多くの人の率直な感想であろう。

 安田さんは「自己責任」ではないという論調や、逆に「自己責任」だから無視していいというような論調はどちらも「常識」が見えなくなっているようにしか思えない。

 そもそも長年の中東の混乱は国家的なわがままから生じていると言っていい。国家が個々の生活者を混乱に陥れている状態なのだ。そこにジャーナリストが個人の力切り込んでいくことはとても意義のあることである。そのことによって歴史的な国家の横暴を知ることができ、歴史を評価することができるのだ。
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「組織」が作る不祥事オンパレード

2018-10-23 15:11:32 | どう思いますか
 さまざまな分野での不祥事がとまらない。昨年度大問題になった省庁の文書改ざんなどの不祥事。モリカケ問題や自衛隊日報などの問題である。ことしになってもリニア建設にからむ談合問題、最近のKYBの問題や、省庁における障害者雇用水増し問題など次から次へと問題が出てくる。これらはすべて組織を優先させるために行われたものであり、組織は結局守られる構造の中で起きている。どの問題も大変重大なものであるにも関わらず、トップは安泰であり、担当者が責任を取らされるだけなのだ。

 ここまでひどくなってしまうと、我々は組織を信用しなくなる。社会を信用しなくなり、政治を信用しなくなる。こんなに不正がはびこる世の中に怒りを感じても、その怒りをぶつけてることができやしない。これでは国が成り立ちやしない。無政府状態に少しずつ陥っていくような気さえしてくる。

 やはり世の中は「正義」によって支えられなければならない。「組織」が「正義」の地位を奪ってしまってはいけない。「組織」こそが「正義」を貫かなければならない。

 本当にひどい世の中になってしまった。

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秋バテ

2018-10-21 16:31:05 | 日記
 最近「秋バテ」という言葉を耳にする。秋バテとは、夏の疲れがたまって体力を消耗し、それがもとになって自律神経の乱れや血の巡りが悪くなって起こるもので、食欲不振や寝不足、めまい、立ちくらみ、頭がすっきりしないなどの症状だという。あきらかに私は今「秋バテ」である。とにかく疲れが抜けない。立ちくらみなどの症状がずっと続いており、いくらでも寝ていられるような状況だ。

 昔から季節の変わり目に体調が悪くなりやすかったような気がする。若いうちはそんな意識はなく、なんか疲れた状態がつづくなと感じている時期があった。しかし年をとるにしたがって、それが深刻な状況になり、精神的にも追い詰められるようになってしまった。困ったものだ。

 とにかく休養しかない。しかし体調が悪くなる前にどんどん予定を入れてしまっていたので、なかなか教養がとれない。とは言えこれは自業自得だ。自分でなんとか調整するしかない。そして休む。いまこそ休む勇気が必要なのかもしれない。
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鏡の中の右と左が逆転するのはなぜ? 「探求」ブームへの懸念

2018-10-20 08:16:05 | 教育
 『チコちゃんに叱られる』を見ていたら、「鏡の中の右と左が逆転するのはなぜ」という問題が出題されていた。実はこの問題は20年くらい前に私が進学校に勤務していた時に夏休みの宿題として出したものである。提出は自由だったのだが、実際に解答を提出した生徒が2人いた。一人はほぼ正解といっていい詳しい解答を書いてきた。その解答にはさすがに感動した。

 近年「探求型」という言葉が教育界のブームになっている。「鏡の中の右と左が逆転するのはなぜ」というような問題に取り組むことは探求心を刺激し、探求意欲を高めることができる。しかし当時と現在は大きく違う。インターネットの普及である。20年前はインターネットがないから、問題を考えるためには図書館に行き、資料をさがすことから始まった。その資料もほとんどが読み込むのがむずかしいものだった。だから必然的に自分で考えなければいけなかった。本当に探究心がなければいけなかった。しかし現在はインターネットを検索すればほとんど答えが出てくる。インターネット内の解説を理解する力は必要であるが、自分で考えて答えを見つけるという力は必要ない。本当の意味での探求心なんて必要ないのである。

 果たして今教育界で求めている「探求」とは何なのか。わからないまま進む姿はかつての「ゆとり」と同じではないだろうか。
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