とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「知らんけど」

2024-06-27 18:29:19 | 国語
最近、関西の漫才師が「知らんけど」と付け足しにように話すことが気になった。なんか馬鹿にしてるように思えてしまい、感じ悪いと思っていた。そしたら、この表現、関西圏では、日常的に使われているということを聞き、しかもこれが流行語のように全国に広まっているということを知った。日本語学者の間でもすでに研究の対象にもなっているのだという。なんだか、時代にとりのこされたような気持ちだ。

そんな状態だから、私以外の人はみんな知っているのだろうと思いながらも、一応解説すると、「知らんけど」は会話の中で、自信はないけど多分そうだと思う、という意思を表現する場合に用いる表現だそうだ。

「明日は、傘は必要ないみたい。知らんけど」

「知らんけど」は、断定を避けて、責任を回避する際に使う表現だという。ポイントは、会話の最後に使うこと。話してきた会話の内容を全てひっくり返すような感覚が、受けたようで全国的に広まったという。英語では「maybe」や「I guess」が近いのだそうだ。

話を聞いてみれば理解はできるのだが、わたしのような年寄りは感覚的に嫌いな表現だ。おそらく私に対して言われたら、ムッとしてしまうだろう。とは言え、そもそもは普通に使われている方言なんだからムッとしたらいけないのだよと、肝に銘じておこねば。
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近代の個人主義があらゆるものを個人作業にした。

2022-08-26 13:45:28 | 国語
 近代について考えている。

 近代は個人の時代である。ひとりひとりが独立している。それによって個人は自由を得た。

 それに対して前近代は個人にあまり自由はなかった。そのためにあらゆる作業は指導者の命令による集団作業になった。これは一方では個人の能力を生かせないのでデメリットもある。しかし一方では集団による作業は発想の幅が広がるし、効率的である。メリットもあったはずだ。

 例えば歌舞伎の脚本は共同作業で作られていた。一応作者の名前がつくが、それは作家グループのリーダーであった。脚本会社みたいなものだ。

 我々は、小説は個人の力で書くものと思い込んでいるが、それは近代の常識である。近代特有の現象なのだ。

 しかしこの近代の個人作業はやはり効率が悪い。効率が悪いどころか、一人よがりになってしまい、しかもすぐに壁にぶつかり、作者は精神的に追い詰められる。

 近代の国語教育では、作者の意図を考えることが重要である。そして個人の作業を高く評価しようとする。しかし、もはや近代小説は限界に来ていると考えれば、その教育方針はは根底から覆される。

 自由な共同作業、それが脱近代なのではないかという仮説を、今考えている。まだ思い付きでしかなく、メモ的な文章になっていて申し訳ないが、とにかく書いておく。
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係助詞とは何か

2022-06-18 12:58:59 | 国語
 係助詞とは何か。実はこれが難しい。

 古典文法を勉強していると、「係助詞」で出てきて「は・も・ぞ・なむ・や・か・こそ」と覚えさせられる。では「係助詞」とは何かと問われると実は答えられる人はほとんどいない。

 「係り結び」に使われる助詞ということで説明しようとする人もいる。確かに「ぞ・なむ・や・か・こそ」はそれで説明できる。しかしそれでは「は・も」」が説明できない。「は・も」の結びが終止形だと言えるならばそれでもいいのだが、そうではないのだ。「係助詞」はきちんと説明するのは困難なのである。

 「係助詞」は山田孝雄という著名な国語学者が命名した助詞であり、なんらかの関連性があるようにも思われる助詞である。しかし実はそれをきちんと説明している人は、国語学者の中でもあまりいない。みんなが漠然と認めているという状態なのだ。

 高校の古典の授業でも実はごまかしている。もしこれを読んでいる高校生がいたら、探究してみてほしい。
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「世界をつくり替えるために」4

2022-06-04 07:13:09 | 国語
 前回、脇道にそれたので戻す。

 筆者は、第二段落で人間が世界に違和感を覚えるのは、言葉を手に入れたための宿命だと言い、だからこそ世界を学び、世界を自分に合うように作り替えなければならないと言う。そして、学ぶことには二段階あり、自然を学ぶことが第一段階、自然を学んだ人間がつくりだしたものを学ぶことが第二段階だと言う。そしてこの第二段階のために学校があると言う。私はここに疑問を覚える。筆者の主張はあまりに学校よりのように思えるのだ。

 確かに本来的に学校は「読み、書き、そろばん」を学ぶためにあった。そして「読み、書き、そろばん」は人間の人類の発展のために人間が生み出したものだと言ってもいいだろう。その意味で筆者の言っていることは間違いとまでは言い切れない。

 しかし、現代の教育はそうなっていない。あきらかに国家にとっての理想的な国民を作り出すためのものとなっている。国家的な教育統制はどんどん進んでいく。これでは、教育は子供たちに違和感を増長させるだけである。

 現代の学校は筆者の言うような純粋なものではない。それなのに筆者は「学校」を理想化する論理を軽く言いすぎているのである。そこに私は強い違和感を覚えてしまう。
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「世界をつくり替えるために」3

2022-06-03 06:54:06 | 国語
 前回人間が「言葉」を使うことによって、世界を対象化しすると言った。世界を対象化することによって自己の存在に覚醒し、自己を特別な存在とみなし、自分によってよりよい世界を望むようになる。言い換えれば、人間は「言葉」を手に入れたことにより、欲を持ち始めたとも言える。つまり「言葉」の獲得が人間の苦悩の源なのである。

 ここで思い出すのが、旧約聖書のアダムとイブの「禁断の果実」である。「禁断の果実」というのは「言葉」である。

 人間にとって「言葉」は生きるために必要なものであったが、逆に「言葉」によってつらさも背負いこむことになった。それは現代でも古代でも変わりがない。このつらさを逃れることは人間にとっての必然であり、だから宗教が必要になったのだ。

 近代になり、宗教の力が相対的に低くなり、人間の欲望が相対的に高くなっている。この近代化の波は人間を狂わせ始めている。人間の欲望を抑制するために宗教に頼ることができないのであれば、どうすればいいのか。「言葉」との格闘の中でそれが見つけられるのか、むずかしい局面にさしかかっているように感じられる。
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