夏目漱石の『三四郎』の読書メモ。今回は十章。いろいろな考える要素があって、長くなりそうだ。
三四郎は広田の家に行く。広田は合気道のようなものを稽古している。広田は三四郎に『ハイドリオタフヒア』を貸す。その中に「生きるとは、再の我に帰るの意にして、再の我に帰るとは、願にもあらず、望みにもあらず、気高き信者の見たる明白なる事実なれば、聖徒イノセントの墓地に横たわるはなお埃及の砂中に埋まるが如し。」とある。結局は自分に帰り、自分からは離れることができないのである。
原口の家に行く途中、子供の葬式に出会う。三四郎は美しい弔いだと思う。『ハイドロオタフヒア』を読み、子供の葬式に出会い、三四郎は客観的に人の生死を見ていることに気付く。そして美禰子のことを考える。美禰子を客観的に見ることができるのだろうか。三四郎は美禰子を客観的に見ることができないことに気付く。
「生きている美禰子に対しては、美しい享楽の底に、一種の苦悶がある。三四郎はこの苦悶を払おうとして、真直に進んでいく。進んで行けば苦悶が除れる様に思う。苦悶を除る為めに一足傍へ退く事は夢にも案じ得ない。これを案じ得ない三四郎は、現に遠くから、寂滅の会を文字の上に眺めて、夭折の憐れを、三尺の外に感じたのである。しかも、悲しい筈のところを快く眺めて、美しく感じたのである。」
三四郎は何があろうとまっすぐに生きて行くつもりである。傍観者の立場を捨て、自分の力で判断し行動することを決意する。ここに三四郎の大きな成長が見られる。
原口の家に着く。美禰子の画を描いている。次は意味深な文章である。
「静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方そうほうがぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。」
現実の美禰子と絵の中の美禰子の関係が描かれている。これは実物の美禰子と鏡の中の美禰子との関係とも似ている。三四郎は現実と虚像のどちらかに軍配を上げているわけではない。その二つの関係が、人間なのだという認識に至ったということなのではないだろうか。
美禰子が兄は近々結婚するという。実はこの時点で美禰子の結婚は決まっている。兄が結婚するということは、里見の家に兄の嫁が入るということになる。美禰子は居づらくなる。だから美禰子は結婚を焦っていたということも考えられる。里見から紹介された結婚相手を、よし子は断った。よし子は兄にからまだ自立できないのである。野々宮が優柔不断なのもよし子に一つの原因があったとも考えられる。よし子がいる限り野々宮は結婚できない。野々宮がよし子の縁談を断った瞬間に、美禰子は衝動的にそのよし子の縁談相手の男との結婚を申し出たのではなかろうか。いずれにしても野々宮とよし子が縁談を断った時に美禰子がその男との結婚を決めたと考えるのが時間的には説明がつく。
原口の眼の解説が始まる。
「そこでこの里見さんの眼もね。里見さんの心を写す積りで描いているんじゃない。ただ眼として描いている。この眼が気に入ったから描いている。(略)すると偶然の結果として、一種の表情が出て来る。」
原口も自分の判断で行動している。個人の一方的な判断である。他者の存在を一方的な傍観者的な立場から判断している。広田も、野々宮も、原田もみんな傍観者として閉じた世界の人間なのだ。三四郎は動き出す。
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです。」
三四郎の美禰子への愛の告白である。三四郎はまっすぐに生きて行く。その決断は美禰子には遅すぎた。美禰子は微かな溜息をもらす。