これまで太宰治をあまり真剣には読んでなかったが、映画化されるということで再読した。この小説がなぜこんなに受け入れられたのか、考えてみたくなった。
最近ナラトロジーを勉強しているので、そこから迫ってみたい。ナラトロジーとしては語り手が「主人公」の手記を紹介するという形である。語り手は冒頭の「はしがき」である男の手記を紹介すると言う。そして最後の「あとがき」にもう一度登場しこの小説をしめる。途中に主人公の「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」の一人称の手記が挟まれている。主人公は自分を冷静に分析している書きぶりである。しかし一歩引いて見てみると自分勝手な解釈だともとれる。一歩引いて見ることが可能なのは「語り手」の存在があることが大きい。
もう一つおもしろい構造を見ることができる。「主人公」と語り手が別人物であり、語り手と作者も別である。ところが「主人公」がどうしても作者を思わせるということである。だれもが太宰治と主人公をオーバーラップさせる。すると「語り手」は誰なのか。この仕掛けを太宰は思いついたのだ。視点を近づけたり、遠ざけたり、そして時には混乱させながらこの小説は進んでいくのだ。おもしろい仕掛けだ。
もうひとつ考えたのは、この作品を戦争文学として読むことができるのではないかということだ。今は思いつきであるが、考えてみたいテーマだ。