とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

萩原健一さんのこと

2019-03-31 13:49:10 | 日記
 萩原健一さんが亡くなった。すばらしい役者であり、すごいシンガーだった。残念である。

 萩原さんの演技は独自のものだった。他のだれもがまねできないものだった。私は世代的にグループサウンズの時代は記憶があるがほとんどわからない。だから萩原健一さんの印象は「太陽にほえろ」から始まった。しかし「太陽にほえろ」よりも「傷だらけの天使」の印象がすごかった。シュールなわけのわからないドラマだった。この斬新さは子供心に強いインパクトを与えた。そして「前略おふくろ様」は口下手な主人公を演じるという、当時としては新たな人物造型を発明した作品であった。

 実生活でのトラブルが次々とあったが、その後も独自の演技を生み出していった。大河ドラマ
「利家とまつ」での明智光秀の演技はすごかった。実直ですこし気が弱い真面目な光秀が狂気を帯びていく演技はこの人でなければできない。

 去年NHKでの「不惑のスクラム」は死を意識させられた。死の意識を持ちながら前向きに生きる中高年の姿に感動させられた。

 シンガーとしての萩原さんもものすごかった。一度でいいからライブハウスで聞いてみたかった。

 すごい人だった。残念だ。
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生徒の小論文3(『こころ』シリーズ⑯) 

2019-03-29 15:12:39 | 『こころ』
『こころ』において生徒に書かせた小論文を紹介します。たどたどしくて舌足らずだという指摘があるかもしれませんが、おもしろい視点が含まれています。この視点を生かして再構成して推敲していけば、いい小論文になると思われます。

 なお、読書感想文や授業課題提出のために「コピペ」することが、絶対にないようにお願いしておきます。

 夏目漱石の『こころ』という作品で、「先生」と呼ばれている人物は青年に自分の過去や犯した罪を打ち明けている。なぜ「先生」は青年にすべてを打ち明ける必要があったのか。私は、「先生」が青年を「先生」そのものとしてこれからの人生を歩んでほしいと考えたからだと思う。

 その根拠となるのは、本文に書いてある「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が止まった時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。」という部分だ。

 普通に考えると主人公はとても図々しい。初対面でありながら、いきなり「先生」と呼んでいる。他にも「自分は先生と懇意になったつもりでいた」や先生に会える好奇心で墓地に行ったりと自分勝手な部分が多い。しかし「先生」自身このような行動を迷惑だと思っていない。

 「先生」に何回も会う内に、主人公は「先生」の奥さんとも出会う。主人公は先生の奥さんのことを「美しい」と表現しているが、最初のうちは好意という言葉は読み取れない。「先生」の行動を見てみると、主人公が「先生」の家に上がる時、なぜか「先生」は下女を呼ばずに、奥さんを呼ぶことが多い。さらに見てみると、先生が留守の間は必ず、「私を待っていなさい。」と主人公に言い残し、「先生」の家で待たせている。このような行動から、「先生」は主人公と奥さんを近づけさせ、気持ちを奥さんに向かせようとしていることがわかる。なぜこのようなことをする必要があるのか。「先生」は昔「K」という友人と同じ相手を好きになり、自分が一歩先に行ってしまったがために「K」を自殺させてしまったという辛い過去を持っている。その相手というのが自分の妻である。妻の「静」の発言である、「子どもでもあると好いのですがね。」から、妻は子供が欲しいと考えている。しかし、「先生」は友人のこともあり、子供を作れば天罰が下ると考えている。また、最初に述べたように、主人公はとても図々しいが「先生」は迷惑だと思っていない。逆に主人公の事をとても真面目だと言っている。ということは、「先生」は主人公みたいな人間を待っていたと考えられる。自分の過去にずいずい入り、過去を少し語ればものたりなさそうな顔を見せる。「先生」はこの主人公の行動に尊敬しつつ、やっと自分が望んでいた人材を見つけたのだ。人間を信じられない「先生」が、自分の魂・妻・罪を他人にあずけ、自分は死ぬことができるのだ。

  「先生」は主人公を自分の替わりに生きていかせることになる。そのためには自分の犯した罪、自分の過去、妻の気持ちを主人公にわからせなければならない。なぜ主人公はある男性を「先生」と呼んでいたのかはわからないが、「先生」は主人公が現れたことで、主人公を自分の替わりにさせようと計画し、奥さんと二人の時間を過ごさせたのも、主人公と「先生」が鎌倉の海水浴場で会ったのも、偶然ではなく、必然だったのである。

 非常におもしろい。もっと論をち密にしていけば本当にすごい論になりそうな意見です。
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1年前シリーズ 「一人称小説と探偵小説」

2019-03-27 06:53:21 | 国語
 1年前のブログを振り返ります。前回のブログからの続きです。

 一人称小説というと初期の「探偵小説」が思い出される。

 例えばコナンドイルのシャーロック・ホームズシリーズ。ここでの語り手「私」はシャーロック・ホームズの友人、ワトソン博士である。物語はワトソン博士の視点を通して語られる。そして基本的にワトソンが見たものを、ホームズが見る。二人は同じものを見て事件を推理するのである。初期の探偵小説というのは謎解きゲームであった。だから読者とホームズには同じ証拠が提示されなければならない。同じ証拠からどういう推理によって事件の真相まだたどりつくかを、読者とホームズが競うのである。だから、ホームズがみたものをホームズ本人でないワトソン博士が正確に語る必要があったのである。このように初期の探偵小説はこのような探偵以外の語り手が必須であった。

 しかし、その後クリスティが語り手自身が犯人である作品をつくり、この構造の「探偵小説」は限界に達した。

 その後はあまり謎解きゲーム的な要素を取り入れることへのこだわりが少なくなった。読者もそれほどゲーム性にとらわれることなく、小説に社会性や登場人物の心情への関心に向けられるようになる。それと合わせるように「探偵小説」という単語は消滅し、「ミステリー」という分野に統合されていくことになる。

 話をもどす。一人称小説が初期の「探偵小説」にとって必須だったのは、探偵がみているものは読者も見ているということである。しかしそれだけではない。もうひとつ大切なことがある。そしてそれが一人称小説の一番大切なことなのかもしれない。それは何か。

 他人の心の中が見えないということである。ワトソンとホームズは同じものを見ている。しかしワトソンはホームズの心の中が見えないのである。「他人の心の中が見えない」。これが一人称小説の一番大きな要素なのではないだろうか。
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1年前シリーズ「一人称小説とは何か」

2019-03-25 21:35:28 | 1年前シリーズ
 一年前に書いたブログを振り返る。

 「一人称」と「語り手」については、今年度考え続けてきたことである。これからも考え続ける。その意味で大切なブログである。もう一度振り返りたい。

 小説には一人称小説と三人称小説がある。一人称小説は語り手が特定の限定できる一人の人間であるのに対して、三人称小説は特定できない。物語全体を俯瞰できる立場からの語りである。神の視点からの語りともいうことができる。

 しかしそう単純ではない。一人称小説と言っても様々なバリエーションがある。同じ作家の一人称小説でもあきらかに違いがわかる。例えば夏目漱石の『吾輩は猫である』も『こころ』も一人称小説である。しかし『吾輩は猫である』の「私」は猫である。あきらかに現実にはありえないことを前提としている小説である。この小説は人間を「異化」することを目的として書かれた小説と言ってもいい。しかし『こころ』は現実を前提として書かれている。現実にもそういう事件があったかもしれないという前提がある。しかも『こころ』は二人の「私」が出てくる。これは小説の構造としておもしろい効果がある。あきらかに作者はそれを狙って書いたものであろう。

 三人称小説のバリエーションも作品の数だけあると言ってよい。

 作家の仕事とはストーリーを考えるだけではない。どういう技巧を使ってそれを表現するかということも大きな要素である。どちらを重視するかはそれぞれの作家によって違うかもしれないが、作品論や作家論においてその作家と作品中の「語り手」との関係はとても重要な要素であることは明らかだ。
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生徒の小論文2(『こころ』シリーズ⑮)

2019-03-24 16:15:33 | 『こころ』
 『こころ』において生徒に書かせた小論文を紹介します。たどたどしくて舌足らずだという指摘があるかもしれませんが、おもしろい視点が含まれています。この視点を生かして再構成して推敲していけば、いい小論文になると思われます。

 なお、読書感想文や授業課題提出のために「コピペ」することが、絶対にないようにお願いしておきます。

 私は「先生」は人間不信に陥り、それゆえに自分の利を追求するために他を顧みない自己中心主義になってしまった哀れな存在だと考える。そこから「先生」にとっての「K」という存在はどのようなものだったのかということを考察していく。私は次の3つであると考える。①理想、②憎むもの、③大切にすべきもの、である。

 「先生」は叔父に財産の一部を奪われ、特にお金に関することで他人を疑うようになっていく。これは、人を信じることができず卑怯なこともしてしまう「先生」と、道のために精進を怠らず、自分の生き方に向き合っていく「K」の対比関係があることが伺われる。「K」と「先生」は真逆の存在なのだ。このことを前提として先の3点について考える。

 ①「先生」は「私」との会話で、「私は死ぬ前にたった一人でよいから、他を信用して死にたいと思っている。」と言っている。「K」は他人を信用する人間であった。他人を疑うよりも自身を追いつめるほどの人間であった。だから「先生」は「K」になりたかったのだ。「K」こそが「先生」の理想だった。「K」になりたかったからこそ、「K」を下宿に一緒に住まわせたのだ。

 ②「先生」は精進している「K」を恋のライバルになろうとは思わなかった。だから「K」を同じ下宿に住まわせたのであるが、しかし「K」がお嬢さんのことを好きになってしまう。「先生」は「K」の人間的な気高さを知っているから「K」に勝てるとは思えない。「K」がじゃまになる。「先生」にとっては「K」は理想であったからこそ、「恋」の要素によって「憎む」べきものになってしまうのである。

 ③こうして「K」を裏切ってしまった「先生」だったが、「K」の決して他人のせいにしない性格によって逆に「先生」は苦しめられることになる。「先生」は「K」の姿を見て、「手をついて謝りたくなった。」とKに対する良心が生まれる。「K」が死んだ後も、罪悪感に襲われ、人を信用できなくなる。「K」という存在は「先生」にとってかけがえのない大切な存在となっていったのだ。

 人間不信に陥っている「先生」にとって「K」はそこから脱するための「鍵」であった。しかしその「鍵」を自らの心の柔さによって失ってしまった。自分の生きるための核を自分の手によって失ってしまったのだ。もはや「先生」は生きることができなかったのはしょうがないことだった。

 
 「K」と「先生」の対比を重点にして論を進めている。おもしろい視点を与えてくれる。
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