とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

全体読みと部分読み

2015-10-31 09:22:46 | 国語
 みなさんは映画を見る時、何回も見ることはあまりないと思います。たいていは一回見てしまうと、もう一度みようという気はおきません。一度見てしまうと内容がわかってしまっているから、もう一度みるのが時間の無駄のように感じてしまうのだと思います。しかし、2回目、3回目と何度も見ることもないわけではありません。たとえば私は『となりのトトロ』というアニメ映画はテレビで何度も再放送されるのでついつい見てしまいます。そしてその都度なんらかのあらたな発見があり充分おもしろいのです。もしかしたら最初見た時よりも、おもしろいと感じている時も多いのかもしれません。

 本も同じです。普通本は一度読んでしまうともう読む気がしなくなります。ストーリーがわかってしまうと「読む」という行為が生産的な行為だと感じられなくなるのだと思います。

 現代人は資本主義的な思考が根本にしみついていて、何でもお金に換算してしまいます。読書は新しい知識やストーリーを獲得する行為であり、だからこそ価値のある行為であると考えているのです。時間もお金に換算され、時間の無駄はお金の無駄となると考えてしまいます。だから、本を再読するという行為を無駄な行為と感じてしまうのです。

 しかし、本当はそうではない。みなさんも好きな本を何度も読み返したことがあるのではないでしょうか。読めば読むほど面白さが感じられる。数年ぶり、10数年ぶりに読み返してみると、人生経験の違いのせいで、全く別の感想をもったりすることもあります。2度、3度と読むことによって、本当のその本のおもしろさがわかってきます。場面場面のおもしろさは1度目ではわかりません。作者の工夫がわかるのも何度も読むことによって初めてわかるのです。

 実は1度だけでは本を読んだことにはならないのではないでしょうか。何度も読まなければ本当の良さがわからないのです。


 国語の授業で、最初から細かく段落を区切って、キーワードを探したり、文章の論理構造を考えたり、要約をしたりとゆっくり読み進めた経験をみなさんもしたことがあるのではないでしょうか。読解力をつけるにはこれは確かに大切な作業です。ひとつひとつの論理構造をあいまいにしないで、正確に読み取る訓練をすることによって、日本人が苦手としている論理能力を高め、読解力を高めると同時に、自己表現力を高めることになるのです。

 しかし文章全体の意味をつかんでいないで部分を細かくばかり分析していると、方向性がつかめず逆に何が書いているのかわからなくなります。それではなんのための授業なのかわかりません。大切なのは全体として筆者が主張したいことを読み取ることであり、全体を読み取ることなのです。まずは全体を読み通の大意をつかむことが必要なはずです。この作業が国語の授業ではおろそかにされています。

 しかし逆に大意がわかっていまうと、今度はその思い込みから部分をいい加減に読んでしまいます。認知心理学ではっきりとしめされていますが、人間は一度先入観を持ってしまうと、その方向でものごとを判断してしまいます。冤罪事件が後を絶たないのは、何らかの思い込みが間違った証言を生みだしてしまうからだそうです。その証人は自分では正しいと思って証言したことが、実は単なる思い込みで間違っていたために、罪なき人を犯罪人に仕立ててしまうのだそうです。わたしたちもだいたいこういうことが書いてあるのだろうと思いこんでしますと、部分的なことはこういうことが書いてあるんだろうと勝手に解釈していまい、読み飛ばしてしまいます。これもまた誤読につながります。

 大切なのは全体を読んだら、今度は丁寧に部分に戻る。そして部分を正確によむことによってさらに全体の意味をもう一度とらえ直すこと、つまり「全体」と「部分」の往復です。この全体と部分の循環の中でより正確な読解が可能になります。


 1度だけ読むことでは真の読解になりません。国語教育の本来の姿はそのあたりにあるのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする