とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

中途半端に終わりました

2018-05-30 17:42:47 | お題
 ゴルフは20年前ぐらいから、数年前までやっていました。

 練習場でのゴルフがほとんどでしたが、適度な運動になるし、のんびりとした時間をすごすことができました。自分と向かい合う時間にもなり、好きなスポーツです。練習場はそれほど高くないのもよかったです。

 コースにも数度出たことがありますが、あっち行ったりこっち行ったりでまだ楽しめるというところまではいきませんでした。しかし貴重な時間を過ごしている気持ちにはなりました。
 
 やめてしまったのは腰のせいです。腰痛がひどくなり、ゴルフどころではなくなってしまいました。でも、もしかしたら、軽いスイングは逆に腰のストレッチになっていたのではないかという気もしています。あまりに動かしていないから腰がより悪くなっているのではないかという気もします。

 
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日大アメフト問題は冷静な対応を

2018-05-27 09:21:39 | どう思いますか
 日大のアメフトの事件は、問題のプレーの映像を見る限り明らかに悪質であり、日大側に大きな責任があるのは明らかである。尋常ではない。ただしマスコミの報道姿勢には疑問がある。

 事件の真相があきらかではないのに、監督やコーチをすでに犯罪人扱いしている。もちろん監督やコーチに大きな疑惑があるのは明らかではあるが、まだ事件の真相が明確になっていないのに、極悪人扱いしてしまっているのは早すぎである。

 さらには日大という組織が巨悪のような報道までなされている。こういう報道はあってはならないことである。

 この間まではTOKIOの山口君で、その前は財務省の福田次官、そして今回は日大である。ターゲットが見つかれば集団リンチである。こんなマスコミがいじめ事件がおこれば、加害者と学校を集団リンチする。こんなことではいじめがなくなるはずがない。

 まずは真相を明らかにすること、そしてそれに応じて的確な処分と対応をすることが大切である。冷静な対応が必要である。

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「ダイヤモンドと希望」

2018-05-24 08:06:03 | 国語
 教育出版の国語総合の教科書の一番最初に「ダイヤモンドと希望」という教材がある。筆者は森岡正博氏。哲学者である。現在は早稲田大学人間科学部教授のようである。

 この教材は教科書の一番最初にあるのにふさわしいいい文章である。

 最初にギリシア神話の「パンドラの箱」のエピソードが描かれ、「どんなに苦しいことに襲われたとしても、希望だけは飛び去ることな」いということを語る。次にカントが人間の中には誰も破壊いてはならないダイヤモンドが埋まっているといったことを紹介する。ダイヤモンドとは「人間の尊厳」である。「パンドラの箱」とカントの言葉をうけて、最後に筆者は人は「ダイヤモンド」を破壊することは不可能だと考えることを主張する。「そう考えることによって、私たちは、つらさや苦しみに見舞われた時に、それでもなお自分の人生を生きていくための小さな希望を与えられる可能性があるのではないか。」と筆者は主張するのだ。つまり人は生まれた時からそこに希望があり、その希望はたとえ死んでも消えることはないと言っているのである。

 この筆者の主張は阪神大震災や東日本大震災を経験して到達したもののようである。生と死を深く見つめて生まれてきた言葉で感動的な文章となっている。

 ただし、この教材は「評論」という位置づけで教科書に載っているのだが、これは評論とは言えないのではないかと思われる。評論ならばもっと根拠が明確になっていなければならないが、根拠が漠然としているのである。だから一見すると宗教のおさそいのようにも思われるのである。

 森岡氏の他の文章を読むことによって森岡氏の主張がもう少し見えてくる。扱い方を丁寧にして、他の森岡氏の文章を紹介するなどしないと変な誤解を与えて終わってしまうので注意が必要だと感じた。
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「働き方改革」の懸念

2018-05-22 18:20:50 | 政治
 「働き方改革」というのは概ね良いものだという方向で話は進んでいる。全体としては労働時間の短縮の方向に向かっているように思われるからだ。

 しかし現政権は経済界の言いなりである。だから「働き方改革」も結局は経営者側の得になるような改革なのではないかとどうしても勘繰ってしまう。そう考えてもう一度考えてみるとやはりうさん臭い部分が見えてくる。この改革は労働時間の短縮という意味ではいいと思う。しかし一方では単一労働単一賃金が強く打ち出されている。これはよさそうに見えて、実は逆なのではないか。これまで正社員だった人間の労働時間が短縮され、一方では賃金がパートと合わせるために減額されるのではないか。つまり正社員のパート化が狙いなのではないかと思われるのである。これは実はうまく作られた罠だったのではないだろうか。

 さらに「高度プロフェッショナル制度」や廃案になった「採用労働制」などは、能力のある人はどんどん働かせようという制度である。何らかの能力の高い奴はたくさん働かせて、なんの特技もない人は安い金で働かせる。経営者の思うつぼのように思われる。

 おそらくこんな単純なことではないのだろうが、いずれにしても「働き方改革」の意味がわからなすぎる。マスコミの人は長所、短所をわかりやすく解説してほしい。
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小説の構造 「語り手」と「作者」の関係 

2018-05-16 07:58:58 | 国語
 高校生に小説の構造について説明しました。次のような内容です。

 いったい小説って何なのでしょうか。「語り手」と「作者」の関係を考えながら小説の構造をかんがえてみましょう。

《第1段階》
 小説の骨格には話の筋(ストーリー)があります。具体例として次の桃太郎の冒頭部分を使ってみましょう。

  むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。
 ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ選択にいきました。


 この筋だけの話(ストーリーだけの話)を第1段階とします。いわゆる「物語」の状態です。

《第2段階》
 さて、この話を誰かが誰かに語り聞かせる場面を想像してみてください。そのとき「語り手」は少し聞き手を意識して語り始めます。

 きょうは花子ちゃんにおもしろいお話しをしてあげるね。
 むかしね、むかしっていうのはね、花子ちゃんが生まれるずっと前のことだよ。
 花子ちゃんが生まれるずっとずっと前にね、田舎の村にね、おじいさんとおばあさんが住んでいたんだ。
 おじいさんはね、おばあさんととっても仲良しでね、ふたりっきりで生活していたけど、毎日毎日働いて、幸せだったんだ。
 秋になってきてね寒くなってきたんだと思うんだけど、昔って枯木に火をつけてストーブにしてたんだけど、その枯木を準備しなければならなくなってね、おじいさんは山に枯木を探しに行ったんだ。
 おばあさんはね、今はどの家だって水道があるけど、昔はなかったから、洗濯しに川までいったんだ。


 なんて話をし始めます。これは語り手が聞き手を意識して聞き手に理解しやすいように筋(ストーリー)に介入しているわけです。これを第2段階とします。「語り」の段階です。

《第3段階》
 次第に語り手は介入の度合いを高めていきます。その具体例を書きます。

 トンビが輪を描いている。北からの風がゆるやかに流れている。風は山の上の木々を赤く染め始める。秋の空は高く澄んでいた。
 山のふもとに小さな家がある。その小さな家で老夫婦が生活をしていた。家といっても今の感覚から言えば小屋である。雨風を防げばそれでいいという建物である。その頃のそのあたりに住む人々はそれが当たり前の家であった。
 科学という言葉のなかったころである。誰もが神を信じていた。神の力で生かされていると信じていた時代だ。彼らは死は怖くなかった。いや、死は怖くないというのを建前として生きていた。かれらは静かに生きていた。子供のいない老夫婦にとってそれが生きるということであった。
 この時期になると冬を越す準備をしなければならない。年老いた男は山に枯木を取りにいく。男は年を経るにしたがって体が動かなくなることを感じていた。背中に痛みを感じて生きていくことに苦しさを覚え始めていた。体のいたみは心を締め付け始める。漠然とした不安。
 「ちくしょう。」
 男は山に向かって一言叫ぶ。その叫び声が返ってきたとき、涙があふれてくる。
 年老いた女は川に洗濯に行く。女にとって耐えることが生きることだった。この時期水が冷たいのは知っている。しかし、それを悔やんでいてはいけない。いつも自分を殺すことだけを心掛けてきた。

 例えばこのように語り手はどんどんストーリーに介入していきます。最初のほうでは聞き手に視点の誘導をしています。そしてストーリーを壊さない程度に勝手に設定を作り上げていきます。そして登場人物の心を描き始めます。

 このように、語り手はどんどん第一段階の筋(ストーリー)に介入して脚色していきます。ここまでくるとほとんど小説と言っていいですね。

《一人称小説と三人称小説》
 さて右の例は視点が上からの視点です。このような語りの小説を三人称小説といいます。しかし小説にはもう一つの語りの小説があります。それは一人称小説です。これは語り手が「私」になる小説です。たとえば「おじいさん」が語り手だったらどうなるでしょう。

 妻は洗濯にでかけた。私は家にひとりになった。何もすることがない。ひまだ。ひまだからと言って、何もしないわけにはいかない。ひまなときに何もしないと、ひまが私を苦しめ始めるからだ。年を取るとその苦しみが一番つらい。だから無理やり仕事を見つける必要があった。山に柴刈りにいくことにした。とは言え、一冬分の柴はすでにある。これ以上の柴はもういらない。柴の山が夢に出てくるのもつらい。しかしそれは「ひま」よりはマシだ。「しば」は「ひま」よりまし。私の一日はそれを考えているだけだ。
 
 こういうのが一人称小説です。この一人称小説は視点がはっきりしているという特徴があります。右の場合、おじいさんが見えるものしか描けません。だからおばあさんの心情は書けなくなります。

 そして語り手が筋(ストーリー)にどのように介入していくかは、作者が決めているのです。小説家の作者というのは、語り手に筋(ストーリー)の語り方を演出していく総合プロデューサー的な役割をしていることがわかります。逆に言えば、語り手の介入の仕方に作者の意図が表れるといっていいのです。
 
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