とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

関口宏さん、林家木久扇さん、ありがとう

2024-03-31 20:57:06 | TV
 今日、関口宏さんが「サンデーモーニング」を、林家木久扇さんが笑点を卒業した。お疲れさまでした。そしてありがとうございました。

 関口さんは、批判精神を発揮して番組を進行していらっしゃいました。平和主義の立場から権力に対しては厳しいことも言うこともありました。とは言えあくまで普通の批判精神を発揮していただけでした。現在でも特別左寄りだとは感じません。ところが近年の右寄りのネットユーザーから目の敵にされて、かわいそうな形での引退となってしまいました。もちろん年齢的なことから、進行にたどたどしい場面なども見受けられ、卒業の時期としては適当だったのだとは思います。しかしネット記事の扱われ方はあきらかにおかしいものでした。関口さんが「サンデーモーニング」でこういう発言をしたというネット記事が出て、それに対してネットの一般人のコメントが出る。そのコメントが関口さんを批判するものばかりなのです。こういう馬鹿な仕掛けを作り上げたインターネット社会は許しがたいものでした。いろいろな意味で戦い続けた上での卒業だったと思います。お疲れさまでした。

 木久扇師匠は現在の笑点の最古参でした。私が幼いころからずっと笑点に出ていた、いわゆる「おバカキャラ」を受け持っていました。笑点は木久扇師匠が支えていたように私には感じられます。卒業は残念ですが、やはり年齢的に限界だったのかもしれません。

 関口さんも、木久扇さんも時代を支えた人だと思います。二人ともまだまだ活躍するとは思いますが、ひとつの区切りとして、お疲れさまと申し上げたいと思います。

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映画『ダム・マネー ウォール街を狙え!』を見ました。

2024-03-29 16:01:33 | 映画
アメリカの株式投資を描いた映画『ダム・マネー ウォール街を狙え!』を見ました。巨大マネーに抵抗した個人投資家たちの夢を描いた気持ちのいい映画でした。

2020年の実話をもとにして作られた映画です。主人公はキースという平凡な会社員。キースはゲームストップ社というビデオゲームメーカーに投資しており、自身の投資する姿を動画配信もしています。キースの動画は多くの人に支持され、ゲームストップ社の株は徐々に上がっていきます。みんながキースの夢を支援し、それを自分の夢にしたのです。金融業界のヘッジファンドは、ゲームストップ社の株は絶対に下がると踏み、大量の空売りをします。ところがゲームストップ社の株は逆に急騰します。大富豪たちは大損してしまい、社会問題に広がります。

この映画は株式市場を舞台と下大金持ち対一般庶民の構図の物語です。日本においても大企業だけが儲けて、その他大勢は相対的に貧しくなっている状況です。しかしやはりこれはおかしいのです。庶民が夢を持てる国にならなければいけません。そういう夢を与えてくれる映画です。


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映画『落下の解剖学』を見ました。

2024-03-27 17:50:27 | 映画
2023年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した映画『落下の解剖学』を見た。真実とは何かを考えさせる深く重い名画だった。

人里離れた雪積もるフランスの山荘に一組の夫婦とその息子が住んでいる。夫はフランス人で妻はドイツ人だ。息子は目が見えず、盲導犬がサポートしている。夫婦は作家だ。その夫が不可解な転落死をする。妻が殺人容疑で逮捕される。妻は否認する。裁判となり、夫婦の冷めた関係が次々とあばかれていく。妻にとって都合の悪い証言や証拠が次々に出てくる。妻はそれに反論する。夫によって録音されていた夫婦の激しい言い争いが法廷で流される。その中では暴力を使ったかのような音もある。妻にとっては絶体絶命の展開です。最後に息子が証言する。果たして真実とは何か。

判決はでる。しかし実は真実はわからないままだ。芥川龍之介の「藪の中」のような作品だが、それが裁判の中で入り組んで展開していくので、後半は推理サスペンスとしての迫力があり、息をつくのを忘れる。もしかしたら、妻も夫も息子も真実はわからないままなのかもしれない。真実は人の数だけあるのである。それでも現実は進んでいく。そう考えれば多元的な世界は存在するのだ。おそろしく「リアル」なSF映画でもある。

隠されたテーマとしては言語の問題もある。いくつかの言語を使い分けることがわりと普通になりつつある国も多くなってきた。多くの現在の日本人にはわからない状況である。しかし近い将来、そういう日が来るかもしれない。言語政策をどうしていくべきかも、よく議論しなければならない。

深く考えさせられるすばらしい映画だった。
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夏目漱石の『草枕』を読む。3

2024-03-26 09:02:28 | 夏目漱石
 画工は宿につく。内部の構造が迷路のような宿である。那古井という土地自体も山の中の閉ざされた場所であり、しかもこの宿も迷路のようであり、異空間に幽閉されているような感覚をおこさせる。

 通された部屋は普段使っている部屋だという。客がないので他の部屋は掃除をしていない。突然の客であったために普段使っている部屋に通されたのだ。食事をとって風呂に入る。そして寝る。夢を見る。

 長良の乙女が振袖を着て、青馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
 
 この夢は「薤露行」との関連をうかがわせる。女は舟にのって流れていく。しかも歌を歌っているのである。この夢の舞台では「薤露行」でのシャロットの女とエレーンが同じ女が演じているころになる。さらにふたりの異性に好かれながら青馬に乗って峠を越すというのはランスロットを思わせる。しかも遠くでは戦争がおきている。この夢は「薤露行」の世界を日本に移したものなのだ。そしてこの夢をなぞるように「草枕」が展開していく。

 画工が眼を醒ますと夢と同じように、歌を歌っている女がいる。画工はそのときまだ那美と出会っていないので誰だか確定しないのであるが、那美であることは明らかだ。

 画工はここで詩人が自己を客観視する方法を説明する。俳句をつくることである。

 その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否やうれしくなる。涙を十七字に纏めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉しさだけの自分になる。

 俳句を作ることは異化する作業だというのである。漱石にしてみれば「写生文」というのは異化する作業そのものであったのである。

 夢うつつのなかで俳句を作っていると、部屋に女が入って来る。女は戸棚をあける。何かを取りに来たようだ。眼を醒まし風呂に行く。風呂から上がり、風呂場の戸をあけるとそこに女がいて、背中に着物をかける。女は「後目に余が驚愕と狼狽を心地よげに眺めている」。

 ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨の瓜実形で、豊かに落ちつきを見せているに引き易えて、額は狭苦しくも、こせついて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆一癖あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。

 どうも那美の顔は描写しづらいようである。この描写だけ見てみると、不細工な顔のように見える。しかし那美の美しさは小説の中ではっきりと表されている。なぜこのような描写になったのか。
 
 この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合な女に違ない。

 那美には統一がないからなのだ。那美は何かに押し付けられている。それが圧力となり心を乱しているのである。これは閉鎖的な村社会の集団的な圧力のせいであろう。出戻りの那美は代々の気違いの血をうけついでいるという那古井の住民の集団的思い込みが那美に対して圧力をかけているのである。那美自身がそれを明確に意識していたのかはわからない。しかしその圧力から逃れる方法を外部から来た画工に感じたのだ。だから画工に対してさまざまな方法で絡んでいく。役者として絡んでいくのである。
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夏目漱石の『草枕』を読む。2

2024-03-23 16:32:13 | 夏目漱石
第二章
 山道の途中雨に降られた画工は茶屋に入る。誰も出てこないので、画工は火にあたり休んでいる。婆さんが出てくる。

 しばらくすると雨は止む。漱石の作品では意図的に雨が降る。漱石作品の中の雨は要注意である。雨が止むと遠くに山が見える。天狗巌だ。この天狗巌がこの那古井という村の象徴のような場所である。

 そこへ馬子の「源さん」(源兵衛)があらわれる。「那古井の嬢さま」の話題になる。嫁入りのときに裾振袖を着て、高島田に結って馬にのっていったのである。「那古井の嬢さま」とはこの小説の中心となる登場人物、那美のことであるが、まだ画工は会っていないので顔がわからない。画工はミレーのオフェリヤの面影を当てはめてみる。するとすっぽりとはまる。

 夏目漱石は「薤露行」でもオフェーリアのイメージを描いている。「薤露行」と「草枕」は明らかに関連がある。

 袖振袖を着て、高島田に結っているその女性にあってみたいと画工が言うと頼めば着て見せると言う。ばあさんはその「嬢様」と「長良の乙女」はよく似ているという。「長良の乙女」というのは、二人の男が一度に懸想して、結局淵川に身を投げて果ててしまった女である。「那古井の嬢さま」、つまり那美も京都の男とここの城下の物持ちの男に懸想された。那美自身は京都の男を望んだのだが、親が城下の男と結婚させた。ところが戦争のために男が務めていた銀行がつぶれ、那美は那古井に出戻りとなったということだ。世間は那美を悪く評判した。

 那美は那古井では陰口をたたかれる。那古井は村社会の典型であり、決して桃源郷ではない。

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