とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

1年前シリーズ「一人称小説とは何か」

2019-03-25 21:35:28 | 1年前シリーズ
 一年前に書いたブログを振り返る。

 「一人称」と「語り手」については、今年度考え続けてきたことである。これからも考え続ける。その意味で大切なブログである。もう一度振り返りたい。

 小説には一人称小説と三人称小説がある。一人称小説は語り手が特定の限定できる一人の人間であるのに対して、三人称小説は特定できない。物語全体を俯瞰できる立場からの語りである。神の視点からの語りともいうことができる。

 しかしそう単純ではない。一人称小説と言っても様々なバリエーションがある。同じ作家の一人称小説でもあきらかに違いがわかる。例えば夏目漱石の『吾輩は猫である』も『こころ』も一人称小説である。しかし『吾輩は猫である』の「私」は猫である。あきらかに現実にはありえないことを前提としている小説である。この小説は人間を「異化」することを目的として書かれた小説と言ってもいい。しかし『こころ』は現実を前提として書かれている。現実にもそういう事件があったかもしれないという前提がある。しかも『こころ』は二人の「私」が出てくる。これは小説の構造としておもしろい効果がある。あきらかに作者はそれを狙って書いたものであろう。

 三人称小説のバリエーションも作品の数だけあると言ってよい。

 作家の仕事とはストーリーを考えるだけではない。どういう技巧を使ってそれを表現するかということも大きな要素である。どちらを重視するかはそれぞれの作家によって違うかもしれないが、作品論や作家論においてその作家と作品中の「語り手」との関係はとても重要な要素であることは明らかだ。
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「平和になる」か「平和がなる」か

2018-12-07 18:05:51 | 1年前シリーズ
 いよいよ、来年4月に「平成」が終わる。天皇制の是非はともかく、今の天皇はとてもすばらしい人であることはよくわかる。この天皇にこの「平成」という元号がよく似合っている。そのことを1年前のブログで書いているので、以下再掲する。

 「平成」という元号について「平和に成る」という意味合いがあると説明する人がいる。もちろん目くじらを立てるほどのことではないが。その意味ならば「成平」となるはずである。動詞の前に連用修飾語(英文法でいう「補語」)がくることはないからだ。だから「平和が成る」と読むほうが自然である。

 ただし、もちろんそんな単純に説明していいものでない。新元号の発表時に説明された「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経(偽古文尚書)』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である。しかしいずれにしても「平和が成る」という意味であることには変わりない。

 そこで2つを並べて見ていただきたい。

 平和になる。
 平和がなる。

 前者はあくまでも受動的である。自分の意志とは関係なく、勝手に平和になったように感じられる。それに対して後者は能動的な印象を受ける。自らの働きかけによって「平和」が「実現した」という感じであろう。

 今の天皇は平和の実現を目指した活動をしてきた。特に高齢になってからの活動には目を見張るものがある。憲法の精神を象徴としての自らの活動によって示そうとしたように思う。われわれは「象徴天皇」と軽々しく言っているが、天皇陛下自身には深い思慮があったのだ。すばらしい人だ。

 まだ天皇として1年以上ある。これからも象徴天皇としての「平和が成る」ためのすばらしい活動を見つめていきたい。


 あと5か月で「平成」は終わる。少しでも「平和が成る」ように努力したい。
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1年前シリーズ 日野照正さんのビンタと日本の教育事情

2018-09-02 18:20:52 | 1年前シリーズ
 1年前に次のような文章を書いていた。

 日野皓正さんが中学生をビンタしたことが話題になっている。私はそれほどのこととは思わなかったのだが、やはりマスコミは大騒ぎして、例のごとくみんなが「持論を展開」している。

 教育の現場にいる人間にとって「体罰」はいけないというのはもはや十分わかっている。そしてさらに「ことばの暴力」もいけないとなってきた。厳しく教え諭すことは認められてても、生徒の心を傷つけるようなことを言ってはいけないという。ここまでくるともはやなんにも言えなくなる。生徒によっては些細な言葉でも傷ついてしまうからだ。教師も生活がかかっているし、やはり日々のストレスの中厳しいことを言わないほうが楽なのは当然である。自主規制と忖度が働き、生徒に対して決して厳しく言わなくなり、学校はレジャーランドのようになってしまう。

 家庭に教育力がある場合はそれでも問題はないものと思われる。学校は勉強をする場であり、人間形成は家庭に任せておけばいいならば、それでかまわない。しかし、日本では学校に人間形成まで任せている。そのような中で、こんなに甘やかされてしまって本当に大丈夫なのか。自己主張はするが、それに見合う努力をしない人間ばかりになってしまうのではないか。日本の現状の教育状況は未来に大きなつけを残そうとしているのではなかろうか。

 今回の日野さんの件は、大切なことを考えさせる契機となっている。建前で終わらず、もっとよく考えてみるべきことだ。単純なバッシングでおわるようなことだけはやめてほしい。


 現在、スポーツ界でパワハラが問題になっている。私はスポーツにおいてはほめてのばすことは大いに賛成である。しかし厳しいことを言うことも大切だと思っている。もちろん昔のような体罰や人格を否定するような言動は現在はやってはいけない。しかし同じ失敗を繰り返したり、やってはいけないことをした生徒に厳しいことを言うのは当たり前のことである。

 大切なのは指導者がその子の為になるという確信をもって指導することである。自分や組織のために子どもを指導してしまえば、どんな言動でも間違いである。言葉遣いが丁寧でも「パワハラ」である。

 もちろんその子のためになるのか、自分のためなのかというのはそんなに簡単に見分けられるものではない。だから教育はむずかしいのだ。
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1年前シリーズ 百田尚樹氏「漢文廃止」を提唱 結論だけは一緒だが全然違う

2018-04-08 18:08:31 | 1年前シリーズ
1年前のブログを振り返るシリーズ。高校の国語には漢文があり、しかもそれがセンター試験で50点の配点になっている。あまりに比重が大きい。そのことを1年前に百田尚樹氏の意見に対する反論と絡めて意見した。以下が1年前のブログである。

 百田尚樹氏が「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」と語ったとネットに出ていた。百田氏が主張しているのは、日本人は「中国への漠然とした憧れ」を持ち、それが尖閣問題で日本人が中国に対峙する際に弊害になっている。日本人が「中国への漠然とした憧れ」を持つ理由は、日本人が漢文を学んでいるからだ、という論理である。とても乱暴な論理だ。根拠と主張が離れすぎていてまともな論理ではない。

 漢文を学んでいるという根拠をもとに、現在の中国に対して「漠然とした憧れ」を持っているという結論に達するとは思われない。これを言い始めたら、日本人は数学を学んでいるから論理的な思考をするはずである。理科を学んでいるから、科学的な思考をするはずである。

 百歩譲って「中国への漠然とした憧れ」を認めるとしよう。その際も中国の憧れが尖閣問題で日本人が対峙する際の弊害になっているという論理がわからない。中国に憧れがあるから、中国と戦争しようとしないということを百田氏は言いたいのだろうか。そんなに中国と戦争したいのだろうか。とても納得できる意見ではない。

 私は逆に日本人には根強い中国人に対する差別意識があるように感じている。中国人を下に見ようとしているというのが事実ではないか。百田氏はその典型であろう。

 以上のように考え、漢文履修の問題と尖閣問題を結びつけるのは明らかに無理があると思われる。

 私も漢文を廃止するという結論だけは賛成である。しかしその理由は違う。最近の高校生は学ぶべきものがたくさんある。国際化に向けた、英語の習得にはもっと時間をかけるべきだし、新しい情報分野やコミュニケーション法なども学ばなければならない。もちろん科学振興のために理数系の授業時間を十分に確保しなければならない。もはや時間が足りないのである。
 
 私は国語教師であり、国語教師の立場からも、現在の高校国語教育に大きな問題を感じている。これについては別のブログで紹介しているので、参照していただければ幸いである。簡単に言うと、これからの国語教育で一番必要になってくるのは、すべての教科の基礎となる言語技術の獲得だということである。そこに時間を割くためには、どうしてもどこかを削らなければならない。削るのは漢文が一番適当であろうと思われるのである。

 そもそも漢文の訓読は全員ができる必要はない。漢文の内容自体は古文の分野で扱ってもいいものである。返り点とかを気にしながら読む必要などないはずだ。また、むかしは漢文の学習は外国語学習としての意味合いも多少あったのではないかと思われる。中国語を読むという意味合いである。しかし、英語の学習がこれだけ盛んになればその役割はすでに終わったと言っていい。

 漢文が悪いと言っているのではない。大切な文化である。しかし、他にやらなければならないことがたくさんある中で、現在のような形で授業に位置づけられるのは、全体のバランスを欠くことになる。

 最低限お願いしたいのは、記述式の導入と同時にセンター試験から漢文を外すことである。それによって適正な扱いに変化してくるように思われる。
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1年前シリーズ「3.11」

2018-03-11 19:59:34 | 1年前シリーズ
 1年前のブログを振り返る。しかし、1年前を振り返りながら7年前を振り返ることになる。7年前は生と死を見つめ、生きることの意味を真剣に考えていた。しかし、今はそんなことをすっかり忘れている。経済界と、経済界に祭り上げられた安倍政権は人間の真剣に誠実に生きることよりも「経済的な豊かさ」をごり押ししているからであり、それを日本国民も望んでいるからだ。そしてそれはほとんどの日本人が結局はあの地震の当事者ではないからなのだ。

 もう一度振り返る必要がある。

 3.11がまたやってきた。この日は必ずしっかりとあの日を思い出そう。そしてあの日からの大きな混乱も思い出そう。そして忘れていく愚かさを反省しよう。

 原発の恐ろしさをあれほど味わいながら、いまだに原発をやめられないのはなぜだ。何らかのうさん臭さがあるに決まっているのだ。そしてそのうさん臭さを生んでいるのは我々日本人全員の責任だ。

 あの日以来しばらく節電節電と言っていたのにもはや節約なんて馬鹿らしいことのようになっている。まじめに節電している人たちを笑っている人だらけになってしまった。

 あれだけ絆といいながら、簡単に人を馬鹿にするようになってしまった。

 人は忘れる生き物である。なんでも覚えていたらつらくて生きていけない。しかし忘れてはいけないものもある。
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