とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

映画『21世紀の資本』を見ました。

2020-06-30 20:46:43 | 映画
 ドキュメンタリー映画『21世紀の資本』を見ました。盲目的に信じていた資本主義に対して疑問を持ってしまう映画です。

 この映画はトマ・ピケティのベストセラー『21世紀の資本』をわかりやすく映画にしたものです。

 まず映画は、資本が一部の人間に集中し、ごく少数のお金持ちと多数の貧困者をうみだすことを紹介します。資本主義は一時的には中流階級を生みます。その結果貧しいものがいなくなり、経済的に成功したような幻想を与えます。しかしいつの間にかごく一部の人間に資本は集中し、富める者と貧しい者との格差が広まり、多くの貧者を生み出すことになります。このような内容を、この映画は映像化し説明します。

 次にこの原因を巨大グローバル企業に発見します。グローバル企業は、税を流れる方法を発明します。企業の所在地を海外のバミューダなどのタックスヘブンに移し、実際に儲けいる国家からの税から逃れます。例えば日本で儲けた企業も日本に税を納めることがなく、タックスヘブンの国で税を逃れ、企業は利益を上げます。しかし日本には税は入ってきません。税収を取りっぱぐれる日本は貧しくなっていきます。だから弱者に回すこともできません。

 なぜこんなことになったのか、その原因を追究しようと思っても、グローバル企業の実態は見えないため、グローバルという言葉の元、国際社会全体が架空の楼閣となってしまっています。もはや現代人は空虚な実感のない社会で生きているという感覚になってしまいます。

 昔は努力をすれば儲けることができました。しかし今は頑張ってもほとんど無駄な努力に終わって今います。人々は社会そのものを信じなくなります。

 この映画は現代に警告をならしてくれます。

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やっぱりマスクが一番予防効果があるのでは?

2020-06-29 21:43:25 | 社会
 新型コロナウイルスの感染が再度広まり始めた。東京では連日50人を超える新規感染者が出て、首都圏や京都、大阪でも増える兆しが出てきた。この感染者を見るとやはり「三密」の場所での、飲食やカラオケなどマスクを外す場所でのクラスターが多いようである。だとするとそのような場所での営業を自粛する要請をすべきであろう。

 小池都知事は「これは第2波ではない」と言い、なんの対応もしようとしない。しかし小池氏は間違っている。小池氏は第1波だから感染は終息しつつあり、これから増えることはないという趣旨で言っているのだ。そんなことはない。第1波は終息しつつあると決めつけるわけにはいかない。第1波であってもこれからが本格的な感染である可能性は十分ある。だから第1波であろうと、第2波であろうと関係ないのである。小池都知事にはこんなことも理解できていないのだ。こんな人がリーダーであることは心配である。

 東京の感染者が増え、東京の人間が地方にまき散らして帰っていく。それが4月の感染であった。今、その繰り返しになろうとしている。東京はもっとしっかりと対策をとってほしい。自分勝手な対応しかとらない現在の都知事は、東京以外の人間にとってみれば迷惑でしかない。結局東京のことしか考えていないのだ、この国は。

 根本にもどろう。
 ・三密を避ける
 ・マスクをつける
 これを守ること。そして守れない業種は自粛してもらう。もちろん損失を補償しなければならない。しかし業種が絞られる。それくらいの経済支出はしなければならない。

 まずは今危険であることが明らかな、カラオケ店やキャバクラ、ホストクラブなど限定して自粛してもらい、一方では他の業種はできるだけ通常の活動をしながら、様子を見ていくことを提案したい。
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安倍晋三氏の場当たり的な対応にうんざりだ

2020-06-28 08:07:04 | 社会
 安倍晋三氏の新型コロナウィルスの対応は場当たり的だった。今回、その場当たり的な対応の責任を専門家会議のせいにした。これも最悪な場当たり的な対応である。

 安倍晋三氏は、東京オリンピックの延期決定までは新型コロナウィルスに対して大きく騒ぎ立てることはなかった。騒ぎ立てることで東京オリンピックが中止になることを防ごうとしたのである。

 東京オリンピックの延期が決定すると、いきなり学校を休校にした。唐突感がいなめなかった。確かに学校は多くの人間が集まる場所である。しかし学校よりももっとクラスターの発生しやすい場所ははるかに多くある。学校だけをターゲットにしたような対策は、場当たり的である。「やってる感」を演出しただけの対応であった。

 案の上その後、感染は広まり緊急事態宣言の発動となった。

 そして「アベノマスク」の登場である。安倍総理の場当たり的な対応の象徴のような政策だ。無能ぶりを日本国中に認識させた。

 さて、緊急事態宣言により日本の感染は抑えることができた。安倍晋三氏は記者会見を繰り返し、自分の手柄をアピールし続けた。しかし感染を抑えることができたのは安倍晋三氏の手柄ではないということは、ほとんどの国民は認識していた。日本国民が従順に対応し、さらには東アジアの国では感染が広がりにくかったという「ファクターX」もあったからである。

 安倍晋三氏の関心はもう経済に移ってしまった。もはや何があろうと後戻りすることは考えようとしない。もちろんこれは経済界の要請もあるだろうし、オリンピックで損失することが明らかな電通からの要請もあるのだろう。それ以上に国民がこれ以上の自粛に耐え切れなくなっているのだ。安倍晋三氏の判断はある意味正しい。

 しかしそうなると学校の休校要請や緊急事態宣言との整合性がとれなくなってくる。これまでの対応と、これからの対応が違いすぎるのだ。そこで、これまでの対応は専門家会議のせいだとでも言いたいように、専門家会議を廃止する。これもまた場当たり的である。これまで利用するだけ利用して、いらなくなれば切り捨てる。安倍晋三という人間の本質がここにある。

 自粛解消後しばらくたち、また首都圏で感染がひろがりつつある。その対応が以前と違いすぎる。この対応も場当たり的である。こういうときこそ、記者会見を開いて対応の違いの理由を丁寧に説明すべきなのだ。しかし安倍晋三氏は国会が終わってから隠れてしまった。以前なら外遊していればよかったのだが、外遊もできない。ただ「隠れている」のだ。

 自分だけ。安倍晋三氏は「自分だけ」なのだ。
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井上ひさし作『十二人の手紙』を読みました。

2020-06-27 13:23:12 | 読書


 井上ひさしの短編集『十二人の手紙』を読みました。作者の腕を見せつけられる短編の数々を堪能しました。しかもエピローグにはそれまでの短編で登場した、横のつながりのなかった人たちが一つの事件にからんできます。そのおしゃれな構成に楽しませてもらいました。

 私たちが小説を読むと普通その字面の意味を正直に受け取って今います。しかし近年、「ナラトロジー」の考え方が広まり、字面の意味の裏には、書き手や語り手の隠された本心があるという視点で読書することも増えてきました。面倒くさい読み方かもしれませんが、そのほうがその小説の本質を見ていると感じる場合もあります。

 『十二人の手紙』はそんな裏を読む読み方を読者は要求されます。「手紙」の裏には、文面とは全く違う書き手の意図があります。表面的な意味と隠された意味の差こそがこの本のおもしろさになっているのです。

 この文庫本は本屋さんに平積みにされていました。「まさに、どんでん返しの見本市だ」と帯がついています。これは読んでみたくなります。こんなふうに過去の忘れられた名作を再評価して紹介してくれる企画はとてもいい。せっかくだから本当におもしろい、読んでおくべき本を読みたい。本屋さんも努力しているんだなあと感心します。

 井上ひさしさんの作品は、本当に小さいころから、知らず知らずにたくさん接してきています。それを次回以降、書いてみたいと思います。
 
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朝日新聞「折々のことば」より 「我々の社会は、『死』を如何に身近に感じ得るか、という点で、準備が少なすぎるのではないか。」(村上陽一郎)

2020-06-25 19:02:50 | 折々のことば
 6月24日の朝日新聞「折々のことば」より。以下鷲田清一さんのことばを引用する。

 戦時下、人命が余りに軽んじられた反動で、命の「至上の価値」を唱えるうち、日々死の脅威に晒(さら)されている人々を支える体制も手薄になっていたと、科学史家は憂う。この社会は「隣にいる成員が日々次々に死んでいく社会」でもあるのに、その過程に人は子細に目を向けていないと。「近代科学と日本の課題」(「中央公論」7月号)から。

 授業で古典の授業をしていると、この話題がよく出てしまう。昔の人は身近な人の「死」を経験することが、少なくとも現代人と比べれば多かった。それに対して今の高校生は身近な人の死をほとんど経験していない。だから「死」をリアルに感じることができない。

 これはとてもいいことではある。長生きすることは人間の夢だ。ただし「死」の重みを知らないまま大人になる人ばかりになってしまうと、命を軽く感じてしまうのではないか。あるいは「生きることの大切さ」の実感に乏しいのではないか。それが心配になるのである。

 古典の世界の人たちは「死」を覚悟している。その価値観の違いを考えることは古典を学ぶ意義の一つである。

コメント (2)
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