『道草』は夏目漱石の自伝的小説と言われている。夏目漱石自身がモデルであり、ロンドン留学から帰国した後、東大の教師をつとめていたころのことが題材となっているのは明らかであり否定のしようがない。もちろん虚構も交えてあり、完全に事実を書いていたわけではない。とは言え、夏目漱石という人間を考える上でどうしても気になる小説である。
また、夏目漱石は自分でストーリーを作るのは苦手だったようである。だから夏目漱石の作品は同じ所をグルグル回っているような印象を受ける。しかし『道草』は具体的な場面が比較的によく伝わるような気がする。伝わるからなのだろうか余計なまどろっこしい描写が少ない。その分、乾いた描写の鋭さが印象に残る。
自伝的小説といいながら、『道草』の文体は客観的描写に徹していて、自分をモデルにしていると言われる健三の描き方も突き放している。妻の御住(漱石の妻の「鏡子」をモデルにしていると思いわれる)を描く視点も客観的である。だからこそ、二人の関係が平等に捉えることができる。漱石の文体が完成したのは『道草』だという批評家がいるが、それも納得できる。
世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。
『道草』の主人公健三が最後にこのように言う。人生というのはあらゆるものが「片付」かない。ひとつの心理であろうが、この小説で片付かないものとして一番目立つところにあるのは、養家問題であり、妻との関係である。夏目漱石は、生まれてすぐに養子に出されている。しかしその後実家にもどる。健三も同じである。生まれて間もなく預けられた養家が、後に夫婦間の不和からトラブルに見舞われ実家にもどる。この時の後始末がいつまでたっても「片付」かない。
妻御住との関係もぎくしゃくしている。これも夏目漱石の妻の鏡子夫人が『漱石の思い出』で述べている「証言」とも一致している。
小説で読む限り地獄のような苦しみのように感じられるが、実は我々の生活なんて似たり寄ったりと言っていい。いつも何かに追われている。ストレスまみれになりながら毎日毎日を繰り返しているというのが、多くの人間の実感である。健三が特殊なのではない。逆に健三はまだ若くて教師という職に就いている。十分とは言えなくとも、当時としては恵まれたほうであったと言っていいはずである。それでも片付かないのだ。
漱石の作品はこういう「片付かない」世界で生きている人間を描いている。言い換えれば「閉ざされた」世界である。しかし「閉ざされた世界」から抜け出したいと思うのが人情であろう。ではどのように抜け出すのか。
御住にとっては生まれた赤ん坊が抜け出す手段となっている。この小説の最後の場面を引用する。
細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰る事は何だかちっとも分かりゃしないわね」
細君はこういいいい、幾度か赤い頬に接吻した。
御住は様々な困難があっても、赤ん坊がいるから救われるのである。しかし健三はそうはいかない。子どもはまったく助けてくれないのだ。印象的なシーンがある。御住が陣痛を突然陣痛を起す。突然すぎて産婆が間に合わない。御住は「もう生まれます」と健三に宣言して、一人で産んでしまう。健三はどうしてうよいかわからず。その子どもを手に取る。そのときの描写が次の通り。
彼の右手は忽ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪郭からいっても恰好の判然としない何かの塊に過ぎなかった。(中略)彼は恐ろしくなって急に手を引込めた。
御住には子どもがいる。しかし健三には赤ん坊は得体のしれない物であり、自分とのつながりを感じることができない。それどころか御住さえ、遠くに逃げてしまうのだ。
孤独はどこまで行ってもついてくる。それを解決する手段はない。しかし書くことによって見えない読者とつながることができる。そこに微かな希望を見る。