夏目漱石の初期の中編小説「野分」を読みました。決して小説としておもしろいものではないのですが、夏目漱石のその後の方向性を予感させる作品です。また、近代小説の文体を確立していく過程の作品としての意義もあり、文学史としての貴重な資料とも言えます
長いものに巻かれることのいやな「道也先生」は、その性格のために教師の職を何度もやめ、結局は東京で貧乏な生活をしています。夏目漱石の小説のテーマといえる「近代知識人」がここでも登場しています。「近代知識人」は理想を掲げ、旧来の日本の制度に対して異議をとなえますが、旧来の「常識」に敗れ去ります。道也先生の怒りは理解できます。今でも日本では同じように旧来の「常識」ははびこっており、なかなか変革できません。昔から同じです。
しかし客観的に見れば融通の利かない「近代知識人」の滑稽さも浮かび上がります。変えられない「常識」を変えていくのが優れた知識人であり、そのためにどう現実に対応するかを考え、行動しなければならないのです。しかし道也先生はそれができません。道也先生はやはり現実の世界では使い物にならない人間であり、道也先生が苦悩すればするほど、はたで見ている人間は困惑し、嘲笑するしかないのです。
おそらく漱石自身がそうだったのだと思われます。古い日本の「常識」に嫌気がさしながら、そこにうまく対処できない自分に対するいら立ちも覚え、客観的に見れば自分が「変な奴」でしかないことに苦しめられていたのです。伝統と改革に中に分裂していく自分の姿こそが、一貫した夏目漱石のテーマであり、それが「野分」ではっきりと示されてます。
文体については次の機会に書きます。