とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

映画『アメリカン・ユートピア』を見ました。

2021-06-29 07:11:22 | 映画
 映画『アメリカン・ユートピア』を見ました。デヴィッドバーンのブロードウェイで行われた音楽ショーのライブ映像映画です。音楽、パフォーマンス、そして歌詞が直接体に訴えてくる見事な作品でした。

監督 スパイクリー
出演 デヴィッドバーン

 デヴィッド・バーンが様々なルーツを持つ11人のミュージシャンやダンサーとともに舞台の上を縦横無尽に動き回ります。音楽の力、そして言葉の力が直接観客に届きます。言葉が直接届かない私にも十分伝わってきます。

 現代の人間社会を批判的に見つめ、人間の立ち位置を見つめなおすきっかけとなるステージです。クライマックスでは、ブラック・ライブズ・マターを訴えるジャネール・モネイのプロテストソング「Hell You Talmbout」が歌われます。圧巻です。

 デヴィッド・バーンは私よりも10歳年上です。私もこれからが本当の闘いだと思うことができます。

 このようなショーが日本語であったらなあと思ってしまいます。日本のショー文化が、もっと成熟していくことを願います。
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映画『海辺の家族たち』を見ました。

2021-06-25 20:16:59 | 映画
 映画『海辺の家族たち』を見ました。兄弟たちの関係をだらだらと描く退屈な映画かもしれないと恐れながら見たのですが、意外な展開があり、その展開が関係性を変えていくために、私にとってとても心地よい映画でした。お気に入りです。
 
監督
ロベール・ゲディギャン
出演
アリアンヌ・アスカリッド
ジャン=ピエール・ダルッサン
ジェラール・メイラン

(あらすじ)
父が突然倒れた。女優のアンジェルは久しぶりに故郷に帰ってきた。海沿いに町である。家業である小さなレストランを継いだ上の兄のアルマンと、最近リストラされて若い婚約者に捨てられそうな下の兄のジョゼフ、兄妹3人が集まった。意識はあるもののコミュニケーションが取れなくなった父、家族の思い出が詰まった家をどうするかなど、たくさんの話し合うべきテーマを語りながら、それぞれが胸に秘めた過去があらわになっていく。町の人びとも巻き込んで、家族の絆が崩れそうになった時、兄妹は入り江に漂着した3人の難民の子どもたちを発見する。

 この映画は不思議な転換点がいくつかあります。ひとつは隣人の夫婦の心中と思われる死です。死の描かれ方が日常的であり、だからこそせつなく印象に残ります。ふたつめはアンジェルに恋焦がれる漁師の青年の姿です。この青年の純粋な愛の告白も日常的でありながら、ドラマチックです。そして3人の難民です。これは日常的な出来事ではありません。しかし、その3人の描き方、そして3人の面倒を見る大人たちの姿はとても日常的です。

 日常の中に非日常があり、非日常の中に日常がある、そんな感覚の映画です。その展開は無理があるはずなのに、無理を感じさせません。それが私にはとても心地よいものとなっていました。
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第一学習社の新課程の高校国語教科書

2021-06-24 18:40:04 | 国語
 高校は来年度の1年生から新学習過程に移行する。高校の1年生では多くの学校は「現代の国語」と「言語文化」の二つの科目を学ぶことになる。「現代の国語」は主に評論文を、そして「言語文化」は主に小説と古典を学ぶことになる。これまでは「国語総合」という科目の中で現代文と古典を学んできた。多くの学校では現代文を2時間、古典を2時間学んでいた。単位を5単位に増やしている学校では古典を3時間学んでいた。それだけ古典を重視していたのである。しかし今後はそうはいかない。

 「言語文化」で古典と小説を学ぶために、古典と小説の時間が少なくなる。進学をあまり考えない高校ならば、古典の時間を減らし小説を読むことができる。しかしいわゆる進学校ではそうは行かない。共通テストではこれまでのように古典が国語の半分をしめるのだから、点数をかせぐためには古典重視にならざるを得ない。だから小説軽視になってしまう。古典を重視するか、小説を重視するかによって大きく対応が違ってくることが予想された。

 そんな中、第一学習社だけがまったく違う方向性の教科書を作ってきた。「現代の国語」に評論と小説を入れ、言語文化は古典と韻文を入れてきたのだ。この結果、従来の指導方法に近いものが可能になっているのである。

 私自身は第一学習社の教科書を高く評価したい。その理由は後日述べたい。同時にやはり改革の必要性も感じる。この理由も後日述べたい。

 おそらく第一学習社以外の教科書会社は第一学習社の教科書を見て「やられた。」と思ったに違いない。それは企業努力が足りなかったのだと私は思っている。
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みんなが共犯者

2021-06-20 11:26:09 | 社会
 オリンピックが、1万人の観客を入れて開催され、さらに今日は開会式は2万人の観客を入れると言う憶測報道まで出てきた。感染病の専門家の意見を無視しての暴挙であることは明らかだ。多くの人の意見は同じはずだ。

 しかし世の中は動かない。その理由はみんなが共犯者であるからである。オリンピックを開催しないことの経済的な損失が大きすぎる。イベント会社は存続の危機だろうし、旅行関係の業者も厳しい。スポンサー企業だってスポンサー料が大損だ。テレビ局はオリンピック特需を失い、しかも経済の悪化はスポンサーの撤退につながる。みんなにとっていいことはない。

 みんながオリンピックの有観客開催が望ましいとは思わないでいながら、それを言うことにもためらいがあるのだ。だから政府の姿勢に強く言えない。強く言えなくなれば、人間だれでも自分を正論化するための理屈を考え始める。それが「選手たちのため」である。選手たちは人生をかけてオリンピックを目指した来た。だからみんなで応援しなければならない、という理屈で納得しようとする。しかしこれには別次元のことを同じ土俵に乗っけてしまうと言う論理の混乱がある。無観客であろうがそれは可能なのだから。

 「忖度」という言葉が流行ったが、日本中が「忖度」し、もはや正しいことが見えなくなっている。みんなが共犯者である。

 こういう国だからこそ、学校でも職場でもいじめが横行し、かつては太平洋戦争がおこったのだという気がする。

 覚悟はできているのか、と自分に問い詰める。
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菅政権と「論理国語」

2021-06-19 09:26:51 | 社会
 菅政権の論理性のなさは驚くばかりである。特にオリンピック開催、そして入場者数について、感染対策についての説明はまったく論理性に欠いている。とにかく観客を入れてオリンピックを開きたいというだけである。最近は昔よく言っていた「アスリートファースト」という言葉さえ聞かれなくなった。ただ単に「開きたい」から「開く」という論理なのだ。

 おそらくその背後には大きな利権がからんでいて、それを言うわけにはいかないのであろう。そこまで一般の国民に感づかれながらも、暴走を誰もとめられない。もはやこの国では「論理」という言葉は力を失っている。

 来年度から高校でも新教育課程に移行する。国語では「論理国語」という科目もでき、論理性を重視するようになる。確かに今の政権の有様を見ると論理性を重視することは大切である。しかし、日本の一番の権力がこんなに論理性を無視してもいいのならばだれも論理なんか馬鹿らしくて学ぶ気になりはしない。ごり押しすればいいのだ。

 だれもが論理よりも権力を欲しがる。

 民主主義という論理が通用しなくなった国においては、どんなことでも起こりうる。そしてそれは崩壊に突き進む危険性を常にはらんでいる。負けるわけにはいかない。
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