応神天皇5世の孫で、彦主人王(ひこうしのおう)の息子である男大迹(おほど)王(後の継体天皇)の出生地であるとされる西近江・高島に在る、鴨稲荷山古墳を訪れた。当該古墳と継体天皇との繫がりは、はっきりしないが、継体天皇の母方である豪族・三尾氏に繋がる被葬者がねむるものと思われる。
出土した副葬品は、超一級の品々であるのに対し、訪れた眼前の古墳は、お世辞にも優れたものではなく貧弱にさえ見える。石棺が露出しているありさまである。
鴨稲荷山古墳と出土遺物を紹介するにあたり、高島歴史民俗資料館発行の「鴨稲荷山古墳ガイド」の説明が適切であり、それを用いて紹介する。
〇石棺の発見!そして・・・
高島市宿鴨集落の北東、志呂志(しろし)神社の南東に、稲荷塚と呼ばれる土盛があった。明治35年(1902)県道小浜朽木高島線改修工事の際に、この塚より土取りが行われた。8月9日石室・石棺が現れ、翌10日高島郡長・大溝警察分署長らが立会の上、石棺の蓋が開かれた。朱に染まった棺内には種々の副葬品があり、棺外からも馬具や土器類が発見されたと伝えられる。
その後、大正11・12年(1922-1923)京都帝国大学文学部考古学教室の浜田耕作・梅原末治両博士が現地に立ち、本格的な学術調査を実施、『近江国高島郡水尾村の古墳』と題する報告書を刊行し一躍有名となった古墳である。現在、出土遺物の多くは、東京国立博物館と京都大学総合博物館に保管されている。
石棺材は、大阪府―奈良県境に所在する二上山の白色凝灰岩であることが判明している。1978年には、関西学院大学考古学研究室による測量調査、1981年からは高島町教育委員会の数度にわたる発掘調査が実施され、1990年の調査では周濠が確認された。
〇継体大王の出自の地に築かれた鴨稲荷山古墳
鴨稲荷山古墳が位置する一帯は、第26代継体大王の出生地「近江国高島郡三尾別業」とされ、2人の妃の出身地と「日本書紀」に記載され、継体大王との関係が指摘されている。鴨稲荷山古墳は全長約45mで周濠を含めると約60m、二段築成の墳丘に、底部径約30cmの円筒埴輪や葺石を有する、6世紀前半(古墳時代後期)の前方後円墳である。後円部に横穴式石室を設け、刳抜式の家形石棺を納める。石棺内には、朝鮮半島製とされる金製垂飾付耳飾(きんせいすいしょくつきみみかざり)や双鳳環頭大刀(そうほうかんとうたち)、倭製とされる金銅製の広帯二山式冠や飾履・捩り環頭大刀(鹿角製には直弧文)・魚佩(ぎょはい)・三輪玉などの他、石室内からは三葉文楕円形杏葉(さんようもんだえんがたぎょうよう)・十字文楕円形鏡板付轡(くつわ)をもつ馬具や須恵器類など豪華で豊富な副葬品が出土した。
(発掘調査時の石棺)
(朝鮮半島製金製垂付耳飾り・複製)
(双鳳環頭大刀)
(広帯二山式王冠・複製)
(金銅製飾履・複製)
(馬具類・これらは当時黄金色に輝いていた)
〇被葬者に迫る!
鴨稲荷山古墳の被葬者は、葬送に最新の家形石棺を使用でき、副葬品に当時最高級の品々をセットして潤沢に与えられるなど、大和王権と大いなる関係をもつ『6世紀前半頃の古代高島に登場した一大首長』で、継体大王擁立に大きな働きを演じた者とされている。ここでは、研究者による被葬者像の3説を紹介する。
<滋賀県教育委員会説>
鴨稲荷山古墳が、弥生時代・古墳時代にこの地で成長してきた首長権を表象しないことはたしかであろう。しかし、被葬者が移動してきた近江三尾氏の鼻祖(先祖)ならば、理解できる。
<水谷千秋説>
高島郡にゆかりの深い有力者の墓であることは言うまでもなく、王権から破格の扱いを受けた人物だった。具体的には、三尾氏と深い関りを持ちながらも三尾氏そのものではなく、中央でもかなり高い地位にあった人物。例えば三尾氏出身の若比売を母に持つ継体の長子大郎子(おおいらつこ)皇子を考えてみたい。
<白井忠雄説>
継体大王を擁立した近江三尾氏の族長。さらには、継体の最初の妃雅子媛の兄・三尾角折(つのおり)君と考えている。他の妃は女(むすめ)とあるのに、雅子媛は角折君の妹とあるから、この兄もヲホド王(継体大王)と近い年齢であり、鴨稲荷山古墳の築造年代がヲホド王の没年531年に近いことからも、角折君と推定する。
以上が、高島歴史民俗資料館の発行するガイドが記載する内容である。被葬者は誰であるのか3説を転載したが、コメントする知識を持たないものの、ヲホド王の父親は彦主人王(ひこうしのおう)で、近江国高島郡の三尾別業に居たとされている。当地は近江三尾氏の本拠地でもある。被葬者は継体大王に繋がる三尾氏の係累の誰かであろう。それは、何やら半島渡来の人物像が見え隠れしているようだ。
それにしても出土品のレベルは第一級と云うより超一級で、藤ノ木古墳出土品と比較しても引けを取らない。ここで『広帯二山式金銅冠』について考えてみたい。
この金銅冠の装飾文様は先にココで検討したように、死後の他界観を表したものではなく、被葬者の生前の素性・権力や民へ豊穣をもたらす存在を表象したものと考えている。
二股に分かれた波文、これは往々にして蕨手文と称されているが、蕨手文にどのような意味があるのか、云われるのは魔除けであると。魔除けが王冠を飾る文様であるとするのに違和感はないが、もっと積極的にとらえたいと考えている。
これは二股に分かれた波文であろう。其の上に船が浮かんでいる。意味するところは被葬者の先祖は、渡海してきた氏族であろう。魚の歩揺が表すのは豊穣の恵みである。魚の卵は数えきれないほどの多数で多産の象徴である。
以下、蛇足である。古墳の規模は特筆すべきものではないが、出土品が超一級と記したのは、下掲の写真のように金銅製冠と金銅製飾履が同時に出土していることである。同時出土は奈良・藤ノ木古墳等全国的にみても極一部である。
分布図を見れば一目瞭然であるが、弥生の卑弥呼の時代の遺跡は、北部九州に集中しているが、古墳時代も6世紀となれば、これら金銅製品の出土の中心は畿内へ変化する。これからみても6世紀の大和は王権が確立される時期であった。
それにしても、このような豪華な金銅冠や金銅製飾履を持つ持ち主は、朝鮮半島に出自を持ち、大王やその係累に繋がる人物以外に考えようがない。
<了>