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〇第5章・ラタナコーシン インドラ神の宝蔵
現王朝をラタナコーシン朝と呼ぶ。ラタナコーシンとは、『インドラ神の宝蔵』との意味である。
バンコクの王宮を囲む城壁には、アユタヤーから持ってきた煉瓦を用い、王宮もアユタヤーの王宮の位置関係を下敷きにして建設された。ラタナコーシン朝もまた仏教興隆事業に着手した。王宮建設と共に王宮内寺院やエメラルド寺院建立に着手し、三蔵経の大々的な校訂作業をおこなった。
ラーマ2世王は詩人であり、彫刻をよくする芸術家であったため、この時代はさまざまな芸術が花開き、仏教と結びついた名作が出現した。下の写真は今回唯一撮影が許可された、ラーマ2世王作の大扉でバンコク都ワット・スタット仏堂伝来のものである。
先ずは、冒頭に紹介したラーマ2世王の大扉である。これは仏堂正面の扉である。ワット・スタットは、ラーマ1世がスコータイのワット・マハータートから大仏を請来するため建立に着手し、ラーマ3世王の時代に完工した。その仏堂の破風にはエラワンに載るインドラ神が表され、堂内には三界経に基いた世界が描かれることから、本堂は須弥山を表していると考えられている。
プラ・マーライ経は、民衆に親しまれた仏教説話。原点はスリランカにあると云われ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどの上座部仏教圏に流布している。神通力を備えたマーライ尊者が、飛翔して地獄、天界を巡り、未来仏である弥勒菩薩に会い、弥勒の言葉を人々に語るというものである。
(花文把手付水注:九博HPより)
文様になる部分に彫を加え、ニエロと呼ぶ銀・銅・鉛を溶融した合金を彫に充填し、焼成した象嵌技法により装飾されている。緻密でその技術力は日本の力量と変わらない。
拵はタイ製であるが、刀身は日本刀である。アユタヤとの朱印船貿易でタイに渡った日本刀が、タイ流にアレンジされた。このような刀剣所有に関しては、厳格な規定が存在し、この種は王族を含む上級貴族のみに許されたと云う。この最上級は王位継承権をもつ王族のみが佩刀を許された七宝装拵刀が存在するという。その刀も刀身は日本刀であるという。
以上、7回に渡り紹介してきた。タイの歴史は浅いと聞くことがある。それはタイ族が現在のタイ領での歴史であり、13世紀以降のことである。しかし先住民もタイ領に割拠しており、タイの領国の歴史は紀元前後から存在していた。そこに登場するのは、北の中国と云うより、西の方インド、スリランカの匂いが紛々とする。
シーサッチャナーライの初期陶をMON陶と呼ぶ。このMON陶にはMON族がかかわった可能性が大きいと考えているが、その先住民のMON族は西から移動した民族であった。その陶磁の装飾文様に西方の影響を見るのは、偶然ではない土壌が存在したことを、今回の展覧会で再確認できた印象である。
<了>