世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

九州国博『~仏の国の輝き~タイ特別展』:その7

2017-05-31 08:27:08 | 博物館・福岡県
<続き>
 
〇第5章・ラタナコーシン インドラ神の宝蔵
現王朝をラタナコーシン朝と呼ぶ。ラタナコーシンとは、『インドラ神の宝蔵』との意味である。
バンコクの王宮を囲む城壁には、アユタヤーから持ってきた煉瓦を用い、王宮もアユタヤーの王宮の位置関係を下敷きにして建設された。ラタナコーシン朝もまた仏教興隆事業に着手した。王宮建設と共に王宮内寺院やエメラルド寺院建立に着手し、三蔵経の大々的な校訂作業をおこなった。
ラーマ2世王は詩人であり、彫刻をよくする芸術家であったため、この時代はさまざまな芸術が花開き、仏教と結びついた名作が出現した。下の写真は今回唯一撮影が許可された、ラーマ2世王作の大扉でバンコク都ワット・スタット仏堂伝来のものである。
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今回は、下の出品目録から5点を紹介する。イメージ 2
先ずは、冒頭に紹介したラーマ2世王の大扉である。これは仏堂正面の扉である。ワット・スタットは、ラーマ1世がスコータイのワット・マハータートから大仏を請来するため建立に着手し、ラーマ3世王の時代に完工した。その仏堂の破風にはエラワンに載るインドラ神が表され、堂内には三界経に基いた世界が描かれることから、本堂は須弥山を表していると考えられている。
扉は様々な動植物が重層的に彫り込まれ、その深さは14cmにも及ぶと云う。一種の極楽世界を表したであろうか?
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 (プラ・マーライ経:九博HPより)
プラ・マーライ経は、民衆に親しまれた仏教説話。原点はスリランカにあると云われ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどの上座部仏教圏に流布している。神通力を備えたマーライ尊者が、飛翔して地獄、天界を巡り、未来仏である弥勒菩薩に会い、弥勒の言葉を人々に語るというものである。
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 (花文把手付水注:九博HPより)
文様になる部分に彫を加え、ニエロと呼ぶ銀・銅・鉛を溶融した合金を彫に充填し、焼成した象嵌技法により装飾されている。緻密でその技術力は日本の力量と変わらない。
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 (金板装拵刀:九博HPより)
拵はタイ製であるが、刀身は日本刀である。アユタヤとの朱印船貿易でタイに渡った日本刀が、タイ流にアレンジされた。このような刀剣所有に関しては、厳格な規定が存在し、この種は王族を含む上級貴族のみに許されたと云う。この最上級は王位継承権をもつ王族のみが佩刀を許された七宝装拵刀が存在するという。その刀も刀身は日本刀であるという。
 
以上、7回に渡り紹介してきた。タイの歴史は浅いと聞くことがある。それはタイ族が現在のタイ領での歴史であり、13世紀以降のことである。しかし先住民もタイ領に割拠しており、タイの領国の歴史は紀元前後から存在していた。そこに登場するのは、北の中国と云うより、西の方インド、スリランカの匂いが紛々とする。
シーサッチャナーライの初期陶をMON陶と呼ぶ。このMON陶にはMON族がかかわった可能性が大きいと考えているが、その先住民のMON族は西から移動した民族であった。その陶磁の装飾文様に西方の影響を見るのは、偶然ではない土壌が存在したことを、今回の展覧会で再確認できた印象である。
 
                             <了>
 

九州国博『~仏の国の輝き~タイ特別展』:その6

2017-05-30 10:15:25 | 博物館・福岡県
<続き>
 
〇第4章・シャム 日本人の見た南方の夢
室町末期より大内氏や大友氏、更には堺の交易商人は南蛮交易を行い莫大な利益を享受していた。その交易相手国の一つにシャム(暹羅国)がある。更に云えば、すでに15世紀から琉球国はシャムとの間に交易船を派遣していた。
当時のアユタヤーは国際交易都市であり、16世紀末に乱世が治まるにつれ、活躍の場を新天地に求めた浪人や商人が南方に旅たち、現地で日本人町を形成した。江戸時代に鎖国が始まると、両者の関係は断絶したようにみえるが、シャムの船は「唐船」として長崎に入港し、アユタヤーに集められた産品を日本に運んでいた。その交易ではシャムに渡った日本人が関与していたのである。
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(日本人町址付近のチャオプラヤー川 出典:グーグルアース)
所謂朱印船交易の朱印状が展示されている。家康が発布した平戸・松浦家宛ての朱印状は、昨年松浦資料博物館で目にしたが、残念ながら写真を写していないので掲示できない。
その松浦家にならって亀井家も朱印船交易を行っていたようで、その書状が展示されているのには驚いた。山陰の小藩が遠路シャムまで用船していたことに驚く。
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(出典:九博HPより)
摂津・平野郷の豪商・末吉氏が平野郷の杭全神社に奉納した衝立。シャムに派遣した朱印船が無事に帰国した様子が描かれていると云う。
亀井玆矩書状が展示されている。タイ南部パッタニー国王あて書状である。アユタヤのみならずタイ南部とも交易を行っていたことが興味深い。当時の亀井玆矩は因幡・鹿野城主で嫡子・政矩が石見・津和野初代藩主に転封となった。
噺は反れる。何故か津和野藩二代玆政の長男・玆朝の書状が我が家にある。玆朝は家督を相続する前に逝去し、藩主にはなれなかった。下の写真がそれで、花押
が描かれた感謝状である。
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噺が横道にはずれ恐縮である。
シャムと云えば山田長政。その長政が静岡・浅間神社に奉納した戦艦図絵馬、その写しが平戸・松浦史料博物館に展示されている。今般出典の絵馬とは異なり、原本を松浦静山が模写したものである。イメージ 4
(松浦史料博物館にて撮影)
西洋の帆船戦艦に倣って大砲を搭載している。長政がこのような戦艦に搭乗していたのかどーか?
江戸時代に鎖国が始まると、シャムの船は「唐船」として長崎に入港し、アユタヤーに集められた産品を日本に運んでいた。平戸・松浦家は、その交易に大きく関わっていた。
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 (松浦史料博物館にて撮影)
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平戸・是心寺に伝来する仏陀立像で、アユタヤー様式と云われ、その交易により将来したであろう。肉髻の上に尖塔形の宝珠を頂いており、眉は左右繋がる特徴を持っている。
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(九博HPより)
メナムノイ産の四耳壺で、交易の際のコンテナーとして用いられた。焼酎をいれたのか?それとも胡椒か?堺の環濠都市から出土したものである。それにしても江戸時代の鎖国は面白くない。鎖国がなければ日本は違った形になっていたであろう。
 
                             <続く>

九州国博『~仏の国の輝き~タイ特別展』:その5

2017-05-29 08:33:24 | 博物館・福岡県
<続き>
 
〇第3章・アユタヤー 輝ける交易の都
アユタヤ―は1351年に建国され、その後400年に渡って繁栄した交易都市国家である。アユタヤーでは、スコータイから受容した上座部仏教が華やかに発展した。1431年にアンコール帝国を、1438年にはスコータイを直轄領としたポーロムマラーチャティラート2世(在位1424-1448)が建立したワット・ラーチャブーラナの仏塔からは、当時の栄華がしのばれる多くの金製品や仏像、交易で得た品々が発掘された。
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(ワット・ラーチャブーラナ 出典:グーグルアース)
一方、クメール文化の影響を受け、王の権力と神聖さを高めるためのバラモンの儀礼や位階制度が整えられた。
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そのワット・ラーチャブーラナから出土した金製品を紹介したい。これらの金製品はプラーン(仏塔)の『クル』と呼ばれる地下空間に埋蔵されていた。
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宝石で飾られた膝を地につき鼻を高く上げる象は、アユタヤ王が載る輿を背負っている。
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ここに掲げる宝冠は、王が持つべき神器の筆頭に挙げられものだという。飾られる宝石・貴石はタイで産出する。
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仏塔の宝物を奉納する行為は、未来のダルマラージャ(仏法王)のためのものとされ、将来にわたって仏法が正しい王によって守られ、国の安寧と繁栄を願って行われるものであった。この仏塔は内部に舎利を収めた仏舎利塔で、スリランカ様式とインド東北部のパーラ様式が混交しているという。
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チェンマイ王の権力と威光を示す玉座模型で、チェンマイ県ホート郡のワット・チェディースンにて出土した。そこでは仏の功徳を象徴する舎利塔の模型も合わせて出土しており、北タイにおける王権と仏教を考える上で貴重である。
下の写真は、そのワット・チェディースン址である。チェンマイ中心部からは100kmの距離であり、なぜこのような距離が離れた廃寺跡から出土したのか?・・・不思議である。
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 (出典:グーグルアース)
この第3章では、出品番号82と83で三界経が展示されていた。残念ながら紹介できる適当な画像が見当たらないが、タイの仏教や仏教美術を知るには絶好の遺品である。
三界とは、欲界、色界、無色界という仏教的宇宙を構成する三界について説かれる。アユタヤーでは特に欲界に重きが置かれており、具体的にその世界が記述される。その内容は説法として語られ、寺院壁画や出品の絵入り写本のように視覚化され、タイ人社会に深く浸透した。次回は第4章を紹介したい。
 
                                 <続く>
 
 

九州国博『~仏の国の輝き~タイ特別展』:その4

2017-05-28 07:47:27 | 博物館・福岡県
<続き>
 
本展は日タイ修好130周年を記念して開催されている。7月4日からは九博に続き、東京国立博物館でも展観されるという。
 
〇第2章・スコータイ 幸福の生まれ出づる国
13世紀に至るとアンコール帝国の軛を脱し、タイ族のムアンが強大になり、ラームカムヘーン王(第3代王)によりスコータイ朝は最大版図を得ることになった。
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(ラームカムヘーン王像:現地にて撮影)
歴代の王は、スリランカから受容した上座部仏教を信仰し、豊かな経済力を背景に多くの寺院を建立した。第6代・リタイ王は、自ら出家するなど篤く仏教に帰依した。以降、王たる資格として仏法の擁護者であることが求められるようになった。
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(スコータイ:ワット・マハータート布薩堂跡 現地にて撮影)
現地に立つと、多くの仏教遺跡を目にすることができる。これらを見ていると、当時の繁栄振りが容易に想定される。
一方、北ではメンライ王がハリプンチャイを攻略し、ランナー王国を建国した。特にワット・チェットヨートは緑豊かな境内に高い仏塔を囲むように6つの塔が建ち並んでいる。建立は15世紀で、ランナータイ王朝の9代目王ティロカラートによって造られた。釈迦が悟りを開いたインドのブッダガヤにあるマハーボディ寺院をモデルにしたといわれており、1477年上座部仏教の第8回・世界結集が行われた。
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(現地にて撮影)
北タイもスコータイと同じように仏教を奉じたのである。以下、スコータイとランナーの遺品・遺物を紹介する。
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スコータイやシーサッチャナーライに残るクメールの遺構はスコータイ時代にも祠堂または仏塔として利用された。出品番号52の『天人像』の漆喰装飾はそれらを飾っていた。残念ながらパンフレットの写りは良くなく、分かり辛い点容赦願いたい。下の写真は上述ワット・チェットヨートの外壁を飾る像で、天人か菩薩かハッキリしないが、漆喰像である。52に似ているように見える。
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 (現地にて撮影)
1361年、リタイ王はスリランカのアダムスピーク山頂の仏足跡の写しを持ち帰らせ、これを模した仏足跡をスコータイのプラバートヤイ山頂に祀った。以降、仏足跡信仰が流行したと云われている
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 (九博HPより)
出品番号57は、仏教の宇宙観を現わし、中央の同心円には須弥山世界が表現されている。
2年後の1363年、リタイ王は自ら出家し受戒した。王は仏教徒である一方で、バラモン僧から占星術を学び、近くの神殿にシバとビシュヌ神像を奉納したことが碑文に記されており、58のハリハラ立像の造立を裏付けている。
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 (九博HPより)
尚、ハリハラとはシバとビシュヌの合体神で、右半身がシバ、左半身がビシュヌを表している。
54、55の仏陀座像は、このリタイ王の時代に造立された。降魔印を結ぶ座像はポピュラーで数多くの仏陀座像が造立された。
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 (九博HPより)
スコータイで花開いた上座部仏教は、時を経ずしてランナーでも受容された。それが66のランナー様式仏陀座像である。
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 最後になったが、スコータイ独自の仏像が誕生した。それは遊行仏(出品番号56)と云われ、これから仏法を広めようとして、歩行している姿である。スコータイ、シーサッチャナーライの古寺では、よく見ることができる。次回は第3章の展示を紹介したい。
 
                                                                                                                            <続く>
 
 

九州国博『~仏の国の輝き~タイ特別展』:その3

2017-05-26 07:42:06 | 博物館・福岡県
<続き>
 
〇第1章・タイ前夜 古代の仏教世界・#2
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今回は第1章の残り半分を紹介したい。出品番号30、31についてである。タイ南部マレー半島は、東西世界を結ぶ交通路に位置しており、交易の拠点として先住民が割拠していた。それらの国々はいずれもインドとの交易により繁栄し、なかでもシュリービジャヤは、漢籍にも『室利仏逝』として登場する。
ナコーンシータマラートやスラタニー県チャイヤー郡は、大乗仏教の信仰を示す仏像(出品番号・31)や碑文が出土し、有名な仏塔も存在する。それらはタイではシュリービジャヤ様式と呼んでいる。
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 (写真出典:Google earth投稿Panoramioより転載)
写真はチャイヤーのシュリービジャヤ様式の仏塔である。それとともに31番の観音菩薩立像もシュリービジャヤ様式の白眉である。
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 (バンコク国博にて撮影)
尊顔は眉目秀麗で、どことなくガンダーラの仏像に似ており、シュリービジャヤ様式の特徴である。まさに大乗仏教の観音で、宝石で飾られた多くの首飾りをつけている。
タイ国宝の第一と思われるシュリービジャヤ様式のタイのビーナスと呼ばれる菩薩像が存在する。残念ながら今回出品されてはいないが紹介したい。
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 (写真出典:バンコク国立博物館にて撮影)
この菩薩像はシュリービジャヤ様式であるが、インド・グプタ朝のサールナート派の影響、つまり大乗仏教の影響を受けていると云う。
シュリービジャヤ様式も時代と共に変化し、いわゆるチャイヤー派と呼ばれる形式を示す仏像も存在する。
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 パンフレットの33番及び図録の表紙を見て頂きたい、チャイヤー派と呼ばれる仏像である。ガンダーラ仏に似たシュリービジャヤ様式に見るアーリアンの顔立ちから、やや変化したことが読み取れる。時代は出品目録にあるように12世紀末から13世紀である。
この像は悟りを得た仏陀が瞑想する間、龍王ムチリンダが傘となり、仏陀を風雨から守った仏伝に基いている。東南アジアでは、水と関係する蛇の神ナーガを龍王と同一視しており、タイに行けばそこかしこで見ることができる。
興味深いのは36番のアルダナーリーシュヴァラ座像である。目録によればプレ・アンコール時代の8-9世紀とある。
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アルダナーリーシュヴァラとは、男女両性の神で、シバ(右半身)とその妃パールヴァティ―(左半身)の合体した姿である。これはヒンズー教徒が信仰した。出土地はコラート高原である。そこはクメール族やクイ族さらにはモン(MON)族が蟠踞した地である。
(九州国博HPより)
一方タイ北部も先住民が蟠踞した地である。先住のラワ族の地にモン族がハリプンチャイ王国を建国した。写真はそのモン人による比丘座像である。
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 (チェンマイ国博パンフレットより)
この座像はワット・ハリプンチャイ伝来で、チェンマイ国博で常設展示されている。時代は12-13世紀、左右の眉は繋がりモン族の技と即座に判断できる。顔は四角張り、唇は厚くなにやら三段に波打ち特徴的である。
最後にアンコール時代の観音菩薩立像を紹介したい。出土地はカンチャナブリ―のムアンシン遺跡である。その遺跡はクメールの西の拠点で、最大版図はミャンマーにまで及んだことを伺わせている。
その像はパンフレットの43番をご覧頂きたい。御覧のように中肉中背というか、肉付きの良い体系であるが、これがクメール様式の特徴でもある。パンフレットの写真ではわかりつらいので、バンコク国博の10-11世紀のブラフマー像を紹介する。イメージ 9
 (写真出典:バンコク国立博物館にて撮影)
タイ国内から出土するクメール様式の像には、紹介したようにヒンズー神像とともに仏像も出土する。ごちゃ混ぜと云えば語弊があるが、ヒンズー信仰はポピュラーなものであったことが想定される。
 
前回の”九州国博『~仏の国の輝き~タイ特別展』:その2”で紹介できなかった”法輪”について追加で記しておきたい。
ドヴァーラバティーの法輪の特徴は、全面に幾何学文や植物文が表現されている点で、インドやほかの地域に伝わる法輪と異なる。
(写真出典:バンコク国立博物館にて撮影)
そしてドヴァーラバティーの法輪の一部にはヒンズー教の神像が現わされる。法輪基部に刻まれているのは、両手に蓮華をもつ太陽神スーリヤである。
(出典:九州国立博物館HP)
ドヴァーラバティーと云えばモン(MON)の部族国家である。そのモン族は稲作を営む。稲作に不可欠な水と太陽。水と云えばナーガや龍王信仰、太陽と云えば先に紹介した旭日と上掲のスーリヤ神信仰である。仏法の広がりを示す法輪にヒンズーのスーリヤ神像。まさに何でもありの様相を示している。この様相がモン陶に継承されているとの見方は、大きく外れてはいないであろう。
                             <続く>