『琉球は夢にて候』とは岩井三四ニ氏の小説である。過日、大宰府の九州国立博物館で「タイ~仏の国の輝き~」展を観た。驚いたことに亀井玆矩(これのり)の朱印状を見ることになった。亀井玆矩の嫡子・政矩は家督相続後、石州・津和野へ四万三千石に加増転封され初代藩主となっている。縁あって津和野二代藩主・玆政の嫡子・玆朝の感状が、我が家に伝わっている。写真がそれであるが、それもあって亀井玆矩について調べてみることにした。種々調べていると、岩井三四ニ氏の小説に『琉球は夢にて候』があることが分かった。早速読んでみた。読むと玆矩はよく言えば気宇壮大、表現を変えれば野望の持ち主であったようだ。
新十郎(玆矩)は尼子の家臣・湯永綱の長男として弘治三年(1557年)生を受けた。尼子は毛利に滅ぼされ、家臣一同苦難の道を歩むことになる。山中鹿之助の呼びかけに応じ、秀吉との連絡役を務めたあと、その元で働くことになり、それなりの禄をはむことになった。秀吉の天下になったとき、琉球を切り取りたいと願いで、琉球守を名乗ることになったが、薩摩に先をこされ結局夢に終わった。しかし、海外飛躍の夢は捨てていなかったようである。関が原では東軍に与し、戦後三万八千石に加増され、因幡・鹿野藩初代藩主となっている。(亀井玆矩像:津和野・永明寺蔵 出典:ウィキペディア)
(写真はウィキペディアに掲載されている、鹿野城址である。本丸は存在しないようだ)
茲矩は後述する朱印船貿易を行っていたため、天守以下の櫓や門に仏教に由来する名称を付けていたと言われる。さらに自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている。
玆矩は家康に願い出、慶長十二年に朱印状を得ている。玆矩に下された朱印状は目にしていないが、下に示すような朱印状であったと思われる。
その下の写真は、『タイ~仏の国の輝き~』展・展示の一つ「亀井玆矩書状」である。大泥(パタニー)国王に宛てた書状である。パタニーはタイ南部にあった国で、14世紀に成立後、海上交易で栄え、日本からも朱印船が渡航していた。パタニーで日本人が不義を働いたため、パタニーと日本の通行が途絶えたが、シャム(アユタヤ)国王のとりなしによって、このたび商船を派遣したという内容である。
玆矩は慶長十四年八月二十五日に、鍛冶屋弥右衛門を責任者として、シャムに朱印船を派遣しているが、その渡航時にパタニーでトラブルが発生したであろうと云われている。日本からは刀、脇差に金銀の細工物、京染の小袖、蒔絵などを輸出し、シャム(アユタヤ)からは綸子、羅紗、緞子、豹や虎皮、麝香、龍脳、伽羅、沈香、蘇木などを輸入したという。堺の商人ごとき商いを行い、それなりの収益を得たようである。下の写真は長崎に復元されている、長崎奉行所のひとコマで幕府に献上する品々で、象牙も含まれている。玆矩はこれらの品々を輸入していたであろう。
パタニーと云えばタイ領では深南部。1時間も要せずマレーシア領に至る。マレーシアは錫の大産地であった。この錫を鉄砲玉の材料として輸入したのではないか・・・と、個人的に考えている。
その用船は、『琉球は夢にて候』では、長崎で唐船でもなく和船でもなく、イスパニアの船を模した、六十万斤(約250トン)積の大船を建造した・・・となっているが、史実としては建造に至らなかったという。唐船かシャム(暹羅)船をチャーターしたであろうか?
平戸藩や大藩が朱印船貿易をしたが、亀井のような小藩が行ったのは、他に事例はないであろう。それほど玆矩は野望を持っていたと思われる。
<続く>