前回に引き続きタイ芸術局第7支所のSNS情報からの紹介である。中世のプレー市街を囲む城壁を発掘調査した内容が紹介されていた。
Wiang Phraeの考古学の知識:
考古学者のPhayuha Chaiyaros氏によるタイ芸術局第7支所(在チェンマイ)は、城壁に囲まれた古代コミュニティのプレーを考古学的に調査した。
ヨム川の堆積物が堆積した結果、3つの自然の塚の周りに1層の城壁と1層の濠が掘られた。市内中心部の幅は830メートル、最長は1466メートルである。古代はパトゥサイ、タンマ、シーチュムと呼んだ。仏暦1986年(西暦1443年) ティロカラート王はプレーを攻撃した。その後、プレーはビルマ王国によって統治された。
時代は下り、ラタナコーシン時代後半のプレーは、サイアムの5つの主要な王立都市の1つと見なされていた。 Wiang Phraeの城壁と市内で4回の発掘調査が行われ、14世紀頃に都市が建設されたことがわかっている。
考古学的発掘調査の詳細は次のとおりである。1996年ワット・シーチュムの地域を発掘調査すると、シーサッチャナーライ窯陶磁の釉薬と素焼きの土鍋の破片が発見された。スコータイ陶磁の他に竜泉窯で作られた青磁(青磁)も発見された。
2回目の発掘調査は、2004年に行った城壁の発掘調査である。 「北タイ陶磁の茶碗、皿、壺、破片が出土したが、第1検査ピットの第1層、第2層、第3層で、丈夫な黒釉陶器の破片が見つかった。オリーブグリーンの釉薬がコーティングされたランパーン窯、ボスアック窯(ナン県)、パヤオ窯の陶磁であった。13〜17世紀、または約800〜400年前に城壁が建てられ、使用されたと判断でき、それはレンガの城壁であった。C14年代測定法では、パヤオ・ウィアンブア窯とナーン・ボスアック窯の陶片は、14世紀を示している。それらの陶片はプレーの城壁の築造年代を決定するのに役立っている。
3回目の発掘調査は、ワット・チェディルアンの修復のための発掘調査で、ピットの掘削は近くの寺院の東側にある内壁の基部で行われた。考古学的発掘調査から、茶色の波状の縞模様のあるハードウェアの破片が、乱されていない土壌と文化層である190〜220cmの深さで発見された。それは、チャリエン窯の波線のある丈夫な茶色の陶器の破片に似ており、いくつかはボスアック窯の艶のある硬い陶器の破片に似ている。発見された陶磁は、1993年にワット・シーチュムで発掘されたものと同じ特徴を持っている。
4回目の調査は、Rong Soコミュニティである城壁の南西部の地域での考古学的発掘である。最初の層の発掘からサンカンペーン窯の陶片が出土した。サンカンペーン陶磁は、市場の需要に大きく応えるために食器や皿・盤の供給源である。それはタイ北部の多くの遺跡でよく見られる。サンカンペーン窯の一般的な特徴は、粗灰色から黒色灰色の胎土であり、釉薬で装飾される前に、白土にて化粧掛けされている。サンカンペーン陶磁は、大別すると青磁と褐釉陶磁である。
添付写真と共に概略上述の説明がなされていた。以上を読んで感じたことである。
プレーで中世の窯場が存在したかどーか。その時代の窯址は発見されていない。そのせいであろう。近隣のナーン・ボスアック窯、パヤオ・ウィアンブア窯のみならず、ランパーンやサンカンペーン窯陶磁、さらにはシーサッチャナーライ、スコータイ各窯、龍泉窯の陶磁も出土しているという。それらの陶磁をプレーの住民は、欲したのである。騎乗移動もあったであろうが、水牛の背に交易品をのせて徒歩移動したであろう。中世の人々の逞しさを感じる。
それよりも個人的に興味をひいたのは、次の添付写真である。それには何も説明がない。
う~ん。100年前の写真か何時の写真か、第7支所は何も語らず写真を掲載するのみである。道が奥にむかって延びているが、そこに一本の柱が立っている。それも中途半端な高さではなく、相当の高さである。見ると広場の一画のようにも見える。これは村の祖霊や地霊の依代である村の祖柱(ラック・バーン)かと、勝手に想像している。次回の訪チェンマイ時確認したいことが、また一つ増えた。
<了>