世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

ハノイのKOKコーヒー

2018-10-14 10:02:19 | ベトナム・ハノイ

またまた古い話を持ち出して恐縮である。2013年に半年ハノイに滞在していた時の噺である。毎日3杯以上のコーヒーを飲むものにとって、ハノイで美味いコーヒーに巡り合えるのか?・・・ということが、一つの心配事であった。しかし、その心配は吹っ飛んだ。Somerset GroupのひとつHoabinに滞在している日本人から、KOK Coffeeを紹介してもらった。

我々が住まいするSomerset West Lakeから東へ800mほど行ったところに、高級コンドのGolden West Lakeがある。

(Golden West Lake)

そこのテナントでOasisなるショップがあるが、そこにKOKコーヒーがおいてあった。

ベトナム・コーヒーが200gパッケージで10万VND、エチオピア・コーヒーが17万VNDであった。ベトナム・コーヒーは悪くはないが今一歩で、エチオピア・コーヒーが口に合った。ちょっと酸味を感じるが、柑橘系の香りがし何杯もいける感じである。結局、このエチオピア・コーヒーを大量に買い込んだ。

世界のコーヒー生産量は1位がブラジルで年間300万トン、2位がベトナムで130万トンとか、ベトナムあなどるなかれ。
尚、パッケージの写真は他の多くのブログに掲載(ameblo.jp/h-s-hanoi/entry-11451345812.html)されているので、ここでは省略した。ハノイ土産にすれば、コーヒー好きの人には喜ばれる土産となる。
 
<了>
 

バッチャン陶磁とベトナム南部の土器作り

2018-10-14 06:53:37 | ベトナム・ハノイ

話が古いが2013年6月8日、バッチャンへ行ってきた。ハノイの南南東12kmで紅河を渡り、その左岸の土手を南下40分で到着した。陶磁器販売店はほどほどにして、窯場を見学した。写真はその一コマである。


 

何箇所かの窯場を見たが、多くは轆轤を使わず、石膏製の型への原料泥漿の流し込み成形であった。燃料は石炭の粉末に水を加えて練り上げ、団子状にして窯壁や塀に貼り付けて乾燥させたもので、いわゆる練炭を用いる昇焔式窯である。最近ではガス窯が普及し、この練炭窯が見れなくなるのは、早々遅くはなさそうである。
写真は龍の貼花文で装飾した造形物で壺であろうか、口縁に円周上に溝がめぐっているので、蓋がくるのであろうか?・・・陶工に質問していないので、よく分からない。場合によっては香炉か燭台であるかもしれない。この貼花文も型への流し込みでつくられており、昔ながらの陶工の手で一つずつ作られてはいない。
窯場を見た全体的な印象は、手作りとは遠く、伊万里や波座見の窯場を見ている印象で、大量生産向きの造形方法であった。

そのバッチャンとは一転して、昔ながらの紐作りの土器成形である。ハノイ女性博物館で目にした光景である。写真の動画が流されていた。場所は旧チャンパ王国の故地である、ベトナム南部のビン・トゥアン(Binh Thuan)省と、その北側(山側)に接するラム・ドン(Lam Dong)省でのことである。


 

展示パネルの説明は以下の通りである。ラム・ドンのチュル(Churu)族女性やビン・トゥアンのチャム(Cham)族の女性は、伝統的な方法で素焼土器を作っている。
粘土を捏ねて筒状の粘土塊を準備する。そして最終的な形状に合わせて、更に縄状に細くしながら紐作りする。造形にあたり、女性の陶工たちは、写真のように可動式の轆轤は使用せず、腰より少し低い台付きスタンドを用いる。
そして使う道具はシンプルで、造形物を整形するのに棒や竹製の輪を用い、粘土を伸ばすために濡れた布を、成型後の表面を磨くために果物の種や小石をそれぞれ使う。
チャム族は造形物を飾るために、貝を使って文様を付ける。そのご乾燥させ、外で野焼き焼成する。造形物は板状の木材の上に、大きいものから小さいものの順に積み重ね、その上にも木材を載せる。それらは割木や枝、、稲わらで囲まれ数時間燃焼させて作る。チャム族やチュル族の作る陶磁は、自家用や販売目的で壺、湯沸し(薬缶)、瓶や焜炉である。
以上が展示パネルの説明である。現在の急速な経済発展の中、これらの土器作りは廃れて無くなるものと思われる。ベトナム北部の黒タイや白タイ、あるいはムオン族の陶磁生産はどうなっているであろうか。

<了>

 


ベトナム建国神話とタンロン水上人形劇

2018-10-11 06:48:48 | ベトナム・ハノイ

ベトナム建国神話とはヴァンラン(文郎)国建国神話のことである。古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人である、炎帝神農氏の三代の子孫である帝王には、二人の子供がいた。
帝王は賢い弟に帝位を譲ろうとしたが、弟はこれを固辞した。そこで帝王は、兄を北方の王に、弟を南方の王にした。
弟は洞庭君の娘と結婚し、Lac Long Quang(貉龍君:ラクロンクワン)が生まれた。ラクロンクワンは成長して、仙人とされる Au Co(嫗姫:アウコ)と結ばれ、100人の男の子が産まれた。子供たちが大きくなるとラクロンクワンは50人の息子達を連れて海岸の平野部へ、アウコは残りの50人の息子達を連れて山地へ行き、別れて暮らすことになった。ラクロンクワンに従った50人の息子の中から、フンヴォン王(雄王)が出てヴァンラン(文郎)国を建国したと云う。
タンロン水上人形劇をみると、最初が『同胞』とネーミングされた建国神話であった。その日本語説明書によると、ベトナム人の始まりに関する伝説で、龍の王様ラクロンクワンは山の女王アウコと結婚して、100人の息子をもうけた。それ以来100人の息子たちはたくさんの子孫を残し、やがて彼らの末裔がベトナム人になった・・・と、記載されている。

その人形劇の一場面が添付の写真である。ここでラクロンクワンは龍の人形で、アウコは何と鳳凰の人形となっている。これらは何を示しているであろうか。
安田喜憲国際日本文化センター教授の著書『龍の文明・太陽の文明』によると、北の龍・南の鳳凰、北の馬・南の牛という明白な南北構造がみられるとしている。古来、北ベトナムは越として中国最南部として認識されていた。
そこで華北を象徴する龍と、華南を象徴する鳳凰が咬合して、ベトナム人の祖100人が誕生したとの伝承である。雲南では龍は、ガルーダとおぼしき大鵬金翅鳥(たいほうきんしちょう)に食べられる存在となる。氏によると、その底に流れるのは漢族と雲南少数民族との長期間の確執による結果であろうと、分析されている。
それが雲南と接する北ベトナムでは、咬合してベトナム人の祖100人が誕生したの伝承に変化する。このようにベトナムでは良否の判断は別として、中国から伝承や文化の影響を強く受け、それが今日まで継続していると思われる。

 

<了>

 


ハノイ・鎮国寺

2018-10-10 07:06:24 | ベトナム・ハノイ

 

チャンクオック(鎮国)寺の旧名は開国寺と呼び6世紀、李南帝の時に紅河畔に建立されたという。
1616年、紅河の土手が崩れたため、現在地の西湖東岸の小島に建立され1639年、後黎朝の実力者であった鄭氏の命によって増築され現在の規模になった。その後11代皇帝・黎熙宗の時代、鎮国寺と改名された。
鎮国古寺と扁額のかかる本殿(大雄宝殿)は、16世紀から始まった建築様式で俯瞰すると『エ』字形の本堂に『ロ』字形の回廊、客殿、僧房が取り囲み、堂内には仏像だけではなく、元寇時の英雄チャンフンダオ(陳興道)や関羽が祀られ、祖師堂には歴代住職の像とともに三聖母も祀られている。

仏教寺院といえども、道教の神々が祀られており、何か混交しているイメージを受けるが、マレーシアやタイのように仏教寺院にヒンズー教の神々が祀られている姿は見ない。

ところで中国の仏塔は石造か塼(煉瓦)造りが多い。それに忠実に倣っているのはベトナムと朝鮮半島で、日本では木造の三重塔や五重塔に変化した。写真は鎮国寺の仏塔であるが、16世紀当時のものではなく、近年の建立のように見えるが煉瓦造りである。
安南山脈を西に越えると、中国の仏塔様式は消えインドのストゥーパの影響が濃厚な仏塔に変化する。形而下的なものが、このように変化することは、人々の意識や考え方の違いも当然のことながら存在すると考えられる。尚、この項はハノイ歴史研究会のHPを参考にした。

<了>

 


ハノイ・玉山祠は中華と大越のフュージョン?

2018-10-07 06:55:12 | ベトナム・ハノイ

 少し古い話を掲載するようで申し訳ないが、Yahooはジオシティーズのサービスを2019年3月末日をもって終了するという。ジオシティーズには2013年から記事をUP Dateしていた。今回終了にあたり、備忘録の意味合いも含めて幾つかの記事を転載しておく。その中心は2013年4月26日から2013年10月25日までのベトナム・ハノイ滞在中の記事である。

イメージ 1

Fusionと云うより中華そのものに見える。ホアンキエム湖北岸に近い玉山島に建つ、過去からの変遷により儒教の廟であろうか?
黎朝以前にも歴史があるようだが、黎朝末期(1746年)に関羽を祀る武廟が建立され、その後変遷を経て19世紀前半に嚮善会(キョウゼンカイ)が儒教教育を道場にし、今日に至っているとのことである。
写真は前堂で、一番手前で顔が赤く、緑の着衣が関帝(関羽)、その後ろが呂祖(中国の神仙で、ベトナムでは医神)、その奥が文昌帝君である。後堂には元寇を撃退した陳興道(チャンフンダオ)が軍神として祀られている。ベトナムの歴史のなかでは、最も著名な将軍である。ベトナム戦争時には、多くの人々が参拝におとずれたであろうと、勝手に推測している。
ベトナムは漢以降重畳的に中国の圧力や圧政に苦しめられた。人々は中国の影響から逃れたいと、いつの時代も考えていたのであろう。そのような背景で玉山祠を見ると、Fusionと云うより中華そのものである。中華の圧政に耐えながらも、文化的影響を排除することはできなかったと思われる。

<了>