中国の古代国家・漢が、倭ないし倭国へ与えた文化的影響は、どのようなものがあったのか・・・と云うのが今回のテーマである。
『後漢書・東夷伝』は、以下のように記す。“建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬”、“安帝永初元年倭國王師升(ココ参照)等獻生口百六十人願請見”、これらを読下すと、つぎのようになる。
建武中元二年(西暦57年)倭奴国から朝貢があった。遣使は自らを大夫と称し、それは倭国の南に在る。光武帝は、かの「漢委奴國王」印を遣使に託したと云う。また安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王の師升なる人物が奴隷160人を献じて、謁見を求めたとしるされている。
このように後漢の時代に倭国と中国本土との交渉が記され、実際に「漢委奴國王」印が出土している。この金印以外にどのような文化的影響を受けたのであろうか。遣使にあたり、正使以外にも多くの人びとが大陸に渡ったと考えられる。後漢書東夷伝は、安帝の永初元年に160人もの奴隷を献じたと記すので、数百人規模で渡海したと考えても大袈裟ではなかろう。
以下、2葉の写真をご覧願いたい。1枚目は、卑弥呼の遣使(景初三年・239年)前にあたる弥生時代中期後葉の青谷上寺地遺跡出土の船団を描いた線刻板である。小型船3隻と大型船2隻以上が杉板に刻まれている。
青谷上寺地遺跡資料館にて
2枚目はやや時代は下るが、兵庫県出石の袴狭(はかざ)遺跡から出土した4世紀の線刻板絵で、15隻からなる船団がリアルに描かれていた。当時の倭人が、これらの船団を想像で描いたのか、それとも実際の光景を見て描いたのか。
袴狭遺跡 線刻板絵部分 兵庫県立考古博物館にて
後漢書東夷伝が記す“生口百六十人”と、これらの線刻板絵の船団規模に矛盾はない。
このように考えるなら、それらの人々が大陸で多くの文物に触れたはずである。代表的なモノとして考えられるのは、建物の壮麗さや文字、服飾、食べ物・料理の豊富さなど、日常生活の様子に触れたことであろう。
ここで後漢書が記す倭からの遣使は、朝鮮半島経由か直接渡海か、と云う課題、つまり人々の往来は後漢書の文面からさっして、半島経由のみではなく、江南の地へ直接渡海する方法も存在していた可能性が高いと思われる。それは帯方郡から邪馬台国に至る里程記事からも、うかがい知ることができる。倭地は会稽東冶(かいけいとうや)の東という地理感と云うか方向感覚は、どのようにして取得したのであろうか。現在も会稽山と呼ぶ山が、浙江省紹興市に存在する。紹興や寧波から東に向かって船出し、日本列島に至るとの彼地伝承が、三国志倭人伝や後漢書倭伝に記されたとしか思えない。そのように考えると中国から倭地へは、直接渡海ルートが存在したであろう。そのルートで中国へ渡った人々は、都・長安に宮殿や楼閣が建ち並ぶ様子に驚いたかと思われる。それがやがて楼観という高層建物となった。魏志倭人伝は以下の如く記す。“居處宮室樓觀城柵厳設常有人持兵守衛”既に楼観が存在していたことになる。
下掲の写真は、前漢後期から後漢にかけて作られた『水榭・すいしゃ』と呼ぶ池に建てられた楼閣を模した緑釉陶である。このような楼閣を遣使は見たであろうし、後の卑弥呼の時代には存在していたことになる。
唐古鍵遺跡出土の線刻絵画土器に線刻された楼閣は、その表れであろうと考えている。それを復元した楼閣と云うか楼観が唐子鍵遺跡に建っている。
水榭と呼ぶ楼閣を再度ご覧願いたい。これは漢代墳墓におさめられた明器の陶屋である。その出土例は揚子江北部に多いとされ、神仙思想に結びつくと云われている。屋根の天辺にとまる鳥は瑞鳥とか神鳥と呼ばれる。唐古鍵出土の線刻絵画土器にも見ることができる。復元楼閣に設けられた鳥、つまり線刻絵画土器の屋根の上の鳥はタマタマか、それとも上述のように何らかの伝承があったのか。
やはり、弥生時代後期には、鳥に関する民族的な諸々の事柄や漢代の神仙思想が銅鏡の文様と共に将来されたであろう。
<了>