世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

鳥取・岡益の石堂(おかますのいしんどう)

2022-07-26 08:21:13 | 因伯二州

古代の鳥取は面白そうだ。

過日、京都から鳥取経由にて帰宅。鳥取市国府町岡益に謎の石造物があるという。そこは絵画系装飾古墳である梶山古墳から至近距離である。梶山古墳を見たついでに訪れてみたが、アプローチには閉口した。そこは、階段が200段以上で丘の上である。別に眺望がよいわけでもなく、石造物が存在するだけである。よほど物好きでなければ・・・と、思った次第である。

岡益の石堂(いしんどう・いしどう)は、別名安徳天皇宇部野陵墓参考地で囲いがあり、内部に立ち入ることはできない。そこで垣根越に写したのが、下掲の写真である。

写真の石柱がエンタシスであると云うが、素人目にはハッキリ分からない。以下、Wikipediaに掲載されていた、岡益の石堂解説である。

岡益の石堂は、鳥取市国府町岡益にある石塔。建築者・建築年代・建築目的とも不明のため、地元では「謎の石堂(いしんどう)」とも呼ばれる。

宮内庁により「宇倍野陵墓参考地」(被葬候補者:第81代安徳天皇)として陵墓参考地に治定されている。

岡益の石堂は岡益集落にある長通寺という寺の背後の小高い丘にある。古墳の切石のような巨石を用いた巨大な石塔で、山陰地方最古の建造物と考えられている。石堂は一辺6.6m、高さ1mの基壇の上に、厚さ40cmの一枚岩でできた壁石6枚で側面を囲んでいる。さらに中央に高さ2m近くの心柱を立て、その上に四角形の中台石を載せ、さらに塔の笠石を重ねている。基壇や壁石は凝灰岩の精巧な切石である。

心柱はふくらみをもったエンタシスであり、中台石の裏側には忍冬渦巻蓮弁放射文(にんどううずまきれんべんほうしゃもん:いわゆるパルメット文)が刻まれている。このような石造物は日本には例がないが、日本最古の木造建築物である法隆寺の柱が、このエンタシスによって作られていることが知られている。さらに法隆寺の壁画にも、忍冬渦巻蓮弁放射文様が描かれている。外国では、北朝鮮の双楹塚(そうえいづか)古墳が、石堂とまったく同じ形態で作られており、中国大同の石穹(せききゅう)内にも同形の文様が刻まれている。さらに古代ギリシアの神殿がエンタシスの柱で建築され、忍冬渦巻蓮華放射文様が描かれている。新羅・百済の古石塔の影響やギリシアの文化の影響まで偲ばせる謎の石塔である。

石堂の周辺は白鳳期の岡益廃寺の跡といわれ、明治の頃までは古代寺院の礎石や瓦が散乱していたという。石堂と廃寺は同一地域にあるため、「何らかの関連があることは間違いなく、石堂と廃寺が同一の時代に存在したとすれば、一体となって信仰の場を作りだしていた」とする見方もある。

岡益廃寺および石堂の崇拝の主体は武内宿禰とも、この地の豪族・伊福部(いおきべ)氏の祖先とも言われるが詳細は不明。岡益廃寺は9世紀には廃絶したと考えられている。 その後、室町時代になって薬師如来を安置した寺として再興されたとする説がある。

安徳天皇陵墓参考地に指定されてからは、陵墓としての威厳を表すために基壇の周囲が掘り下げられ、古代の面影は失われてしまった。礎石の一部は周辺の雑木林の中に残り、出土した瓦は長通寺に保存されている・・・以上のようにWikipediaは記載している。

古来、当地(岡益)は新羅・伽耶系と繫がりがありそうである。『和名抄(わみょうしょう)』によると、因幡国法美郡(後の岩美郡)の一番目に「大草於保加也(おおくさおおかや)郷」が記されている。これは「大伽耶」に他ならず、続いて罵城・度岐・度木(いずれもどき)郷とある。“度木(どき)”とは渡り来るとの意味で、半島渡来と受け取られる。今回、時間の関係で参拝しなかったが、当地(岡益)の太田神社には大多羅大明神を祀るという。要約すれば、当地は新羅・伽耶系渡来人の集住地であった。そこに、岡益の石堂が存在するのである。この石堂についてWikipediaは、北朝鮮の双楹塚(そうえいづか)古墳と同じ形態と記しているが、森浩一氏は、横穴式石室で高句麗古墳の係累である可能性を指摘しておられる・・・とすれば、被葬者と考えられている当地の豪族・伊福部氏(いおきべうじ・いふくべうじ)は渡来系の氏族の可能性が高いと考えられる。岡益の石堂では心柱のエンタシス、忍冬文やレンゲ文、側壁のS字文を見るが、これらは仏教文化につながるものである。文化は大和から地方へ拡散したであろうが、必ずしも大和からばかりではなかったのである。

<了>


鳥取市・賣沼(めぬま)神社

2020-05-25 09:44:42 | 因伯二州

昨日、京都からの戻りは鳥取経由とした。鳥取市河原町の賣沼神社に寄ってみた。

賣沼神社とは祭神が八上比賣(八上姫)である。大国主命と因幡の白兎神話を御存知の方も多いと思われるが、大国主命は白兎を助けられたのち八上比賣に妻問され結ばれた。

しかし八上比賣は、本妻・須勢理毘賣命の嫉妬を怖れ、御子神である木俣神を出雲に残し、故郷にお戻りになった。その八上比賣を祀るのが賣沼神社である。

境内には、千年杉とは云わないが、樹齢100年はゆうに超える御神木が屹立する。

社殿は何の変哲もないが、神社の本殿は大社造りが当たり前の出雲の神社を見慣れていると、当該賣沼神社の本殿が新鮮に映った。

社殿脇には曳田川が流れ、その対岸は八上比賣の墓といわれる嶽古墳を見ることができる。

しかしながら、八上比賣には申し訳ないが、比賣の幻想は浮かばなかった。

<了>

 


妻木晩田遺跡(3)

2019-11-07 08:05:05 | 因伯二州

<続き>

〇妻木山地区

邪馬台国の時代、妻木晩田は有力な国邑の一つであった思われる。少なくとも同時代に数十棟の高床式建物や竪穴式住居が存在しており、壮観以外の何物でもなかったであろう。環濠に囲まれていたことから武装集団であったか?

 

<続く>

 


妻木晩田遺跡(2)

2019-11-06 07:00:52 | 因伯二州

<続き>

引続き胴の原地区の弥生遺跡を紹介する。前回紹介した土屋根の竪穴式住居の続編である。

地面より一段掘り下げたところが土間となっている。葦ないしは茅葺の上に土がのっている。入り口は日本海側の反対、つまり南向きなっており、厳寒対策はそれなりと思われる。それにしても骨組みというか木組みがすばらしい。

竪穴式住居の木組みが想定復元されている箇所もあった。

 

<続く>