狂い咲きであろうか、ハマナスがまた咲いた。今年2度目の開花である。
2度咲きしてくれるのはありがたいが、来年いつものように咲いてくれるのか心配する。したは本年5月に開花したハマナスである。
<了>
狂い咲きであろうか、ハマナスがまた咲いた。今年2度目の開花である。
2度咲きしてくれるのはありがたいが、来年いつものように咲いてくれるのか心配する。したは本年5月に開花したハマナスである。
<了>
安倍総理の大叔父である佐藤栄作元首相と遠縁の関係もあり、安倍さんを応援していた。8月18日夕刻の記者会見は青天の霹靂であった。
潰瘍性大腸炎を再発し無念の辞職とのことである。8月28日の記者会見では、身体的苦痛もあろうに1時間に渡る会見と質疑応答である。総理は壇上で直立し、報道記者は椅子にすわり、しょうもない質問の連発である。しまいには、次の総選挙に立候補するかとの問いである。阿保かいな。くだらない質問で病身の総理を直立させている。気遣いはないのか? この種の阿保な報道記者をもつ日本・・・なさけない。
<了>
過日、松江市立鹿島民俗資料館へ行った折、久しぶりに佐太神社に参拝した。
(向かって中央が正中殿、右が北殿、左が南殿)
佐太神社のパンフレットによれば、主祭神である佐太大神の『サダ』とは伊予・佐田岬、大隅半島の佐多岬などの地名にみられる岬の意味で、島根半島一円の祖神である。この大神の誕生秘話は出雲国風土記にみえ、当社から十キロばかり離れた日本海に面する加賀の潜戸と呼ばれる神𥔎の窟(いわや)に金の弓矢を射ってお生まれになった・・・と記されている。
佐太大神は世に云う猿田毘古大神であるとも記されている。Wikipediaによれば猿田毘古は、「邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た。」・・・とある。国津神でありながら天孫族とごく親しい間柄である。出雲では大国主や須佐之男命の一族神が多いが、佐太大神はやや珍しい存在であろう。
社殿が珍しい。真ん中を正中殿とし、ここに佐太大神と伊弉諾尊・伊弉冉尊が祀られ、北となりを北殿とよび天照大神、邇邇芸命を祀る。南隣を南殿とよび須佐之男命を祀っている。まさに出雲系と天孫族神のオンパレードである。
正中殿の神門には、扇の神紋が掲げられている。不勉強で何もしらないが、これは佐太大神の神紋であろうか?
北殿の神門には二つの輪の神紋である。これは天照大神?それとも邇邇芸命?
南殿の神門には二重亀甲紋である。これはスサノオの尊の神紋であろうか?・・・これらのことどもについては全くの無知である。なにやら謂れめかしいことが沢山ありそうだ。
佐太大社もまた神在月のころに参拝するのがBestである。
<了>
出雲市駅通りには、出雲神話を題材に青銅のオブジェが設置されている。韓国では慰安婦像が幅をきかせるが、そんなものより歴史上の逸話・伝承をオブジェにして並べたらどうだ。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が大蛇(おろち)を斬った十握剣(とつかのつるぎ)は、別名で天羽々斬(あめのははきり)とか蛇麁正(おろちあらまさ)と呼ぶ。大蛇の尻尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ 別名・草薙剣)を取り出す際に十握剣の刃先が欠けたという。その十握剣は鉄剣だったのか、それとも銅剣だったのか?・・・どうでもよいような噺が気になる。
出雲市駅通りのオブジェは原寸大にすれば、刃渡り40-50cm程度であろう。そして両刃の剣である。これであれば青銅剣の可能性が高いが、大蛇退治の舞台は奥出雲。奥出雲は古来砂鉄生産地で鉧(けら)は良質の鋼で鉄剣の材料である。そこで造られたであろう十握剣は鉄剣以外の何物であろうか。
『石上神宮旧記』によれば、天羽々斬は仁徳天皇の五十六年十月二十六日、物部首市川臣が勅を奉じて、布都斯御魂神社(ふつしみたまじんじゃ:天羽々斬剣の神気を布都斯御魂神という)を石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)の高庭の地底の石窟のうちに収めた・・・とある。
世は明治にいたり、石上神宮・大宮司の菅政友は、その禁足地に踏み入り伝承の可否を発掘により調査した。出てきたのは素環頭太刀であった。先に示した刃先の刃こぼれもあったという。それは全長二尺八寸で約85cmである。
いわゆる十握剣は、握ったこぶしの幅で一握は8-10cm。従って十握剣は80-100cmとなる。青銅剣で1mもの長さは用をなさい、直ぐにおれてしまう。してみれば鉄剣であったのか? 八岐大蛇伝承をいつの時代と見るのか? 弥生期とみれば青銅剣、古墳時代であれば鉄剣であろう。
いずれにしても津田左右吉流の記紀神話は後世の作り話で、史実は何もないと全否定すれば、上述の噺は絵空事で終わりだが・・・。
<了>
高松塚古墳の壁画館内部の写真撮影は禁止されている。代わりと云えばなんだが、パンフレットを購入した。高松塚美人?飛鳥美人の古墳壁画はあまりにも著名なので、パンフレットからの転載は止めにしておく。
この飛鳥美人のモデルが、高句麗古墳壁画(水山里古墳)の王妃像や婦人群像図と云われているが、どことなく異なるような感じがする。中国からの直接的な伝播と思われる。
高松塚やキトラ古墳が7世紀ー8世紀であるとすれば、北部九州の装飾古墳は6世紀後半で、高松塚やキトラと100年の開きがある。稚拙な北部九州・装飾古墳の絵画・図像が100年でこうも違うのかと驚きを覚える。
絵画・図像を描いた民族が、高松塚やキトラと北部九州では異なるのであろうか?・・・やや不思議な感覚をもっており、追及してみたい。
<了>