『田の神』について、故・柳田国男氏は以下のように述べておられる。”里人である稲作民の山の神には、春は田に降って田の神になり、冬は山に帰って山の神になる”と云う。”この神の去来信仰の背景に、祖霊信仰がそんざいしている”と云う。稲作民にとっての山の神、田の神は祖霊の分身ということになる。
古来、田の神とは稲魂であり、稲魂が宿る種籾を祀る穂倉(祠)が神社の先行形態の一つとも云われている。福島県棚倉町に『お枡小屋』と称して高床・平入りの穂倉がある。米をはかる枡を棚倉町の四地区で、四年毎の旧暦10月17日に遷座する行事である。
お枡小屋
話は田の神さあである。この田の神さあは、春と冬に去来する神ではなく、常在する神である。えびの市歴史民俗資料館HPが、田の神について要領よく纏められているで、そのHPより説明文を拝借する。
自然石や石像を田の神として田んぼに立てているのは、一つの石神信仰です。 それらの石の多くが、性器をかたどっているのは、古代からの性器信仰の表れ と見られています。えびの市西川北の自然石は、男性のシンボルそのものをかたどっているといわれています。
大同2年(807年)に書かれた 『古語拾遺』 の『御歳神』の中に、 「田んぼに発生したイナゴを駆除するために、男茎型の田の神を造って田んぼの水口に立て た」という記事があります。
田の神の中でも、とりわけ多くの「農民型」田の神像の後ろ姿は、男根(陽物)をかたどったものが多いです。田の神は増殖の神であ り、手に持つメシゲとスリコギは男性のシンボル、碗は女性のシンボルを表すといわれてます。
本来、田の神は男性ですが、石像の中には少数だが女性像もあり、夫婦像もあります。
一般には田の神と呼ぶが、東北地方では農神 、山梨・長野では作神、近畿では作り神、兵庫から山陰の一部にかけては亥の神、 瀬戸内海地方では地神と呼びます。
南九州地方(薩摩・大隅・日向の南部)では集落ごとにメシゲやスリコギを持つ田の神の石像を作って田のそばに祀っています。 地方によっては、恵比須・大黒・カカシなどを田の神としている所もあります。さらに中国 ・四国地方などでは、木の枝(サンバイ様)を田の水口やあぜに立てて、田の神としています。
田の神は聖的な神仏ではなく、庶民的な神仏という性格です。神無月になるとすべての神が出雲に集まるが、 田の神だけは土地に残り、人々を見守る神様であるという、言い伝えがあります。
また、田の神は汚しても転がしても決して祟らない優しい神であり、盗まれて他所へ連れて行かれても不平も言わず、 行った先々で田んぼを守ってくれています。
「デフッジョ(大黒さま)は人にかくれてん働け、タノカンは、ヨクエ(憩え)と言やったげな」という話が残っています。
以上である。
この『田の神さあ』が、えびの市歴史民俗資料館に展示されているとのことで、過日宮崎に行った際に出かけてみた。
以下、えびの市内に散在する田の神さあである。
また、『回り田の神』なる田の神さあが存在るという。それが展示されていた(下の写真)。
回り田の神とは、農家を回って豊作を祈願する風習である。当番の家では、田の神像に化粧をし、ごちそうを作り大事に床の間にまつる。田の神は、春・秋交代で次の座もとに回っていくという。
この常在する田の神は、薩摩、大隅、日向の島津領に存在する。何故か。
それは島津の酷政によるものであろう。全国的には年貢高は五公五民といわれている。薩摩は公式的には七公三民である。それを正租と呼ぶそうだが、その正租以外の年貢が課せられており、それを含めると八公二民となる。原因は圧倒的な武士の多さで、全国的な武士の比率は7%程度と云われているが、島津は30%ほどであったことによる。
農民は豊作を願い、収量を増やすことに専念し、その結果が『田の神さあ』であったことによる。甘藷の導入は農民対策の一環であった。
この田の神について、中国山地ではサンバイと呼んでいる。ココを参照願いたい。
<了>