世界の街角

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『田の神(たのかん)』さあ

2024-10-13 08:34:19 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

『田の神』について、故・柳田国男氏は以下のように述べておられる。”里人である稲作民の山の神には、春は田に降って田の神になり、冬は山に帰って山の神になる”と云う。”この神の去来信仰の背景に、祖霊信仰がそんざいしている”と云う。稲作民にとっての山の神、田の神は祖霊の分身ということになる。

古来、田の神とは稲魂であり、稲魂が宿る種籾を祀る穂倉(祠)が神社の先行形態の一つとも云われている。福島県棚倉町に『お枡小屋』と称して高床・平入りの穂倉がある。米をはかる枡を棚倉町の四地区で、四年毎の旧暦10月17日に遷座する行事である。

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お枡小屋

話は田の神さあである。この田の神さあは、春と冬に去来する神ではなく、常在する神である。えびの市歴史民俗資料館HPが、田の神について要領よく纏められているで、そのHPより説明文を拝借する。

田の神とは何か?
田の神信仰は全国的な民俗行事として農村に浸透してい ます。伝承でんしょうよるとこの田の神は冬は山の神となり、春は 里におりて田の神となって田んぼを守
り、農作物の 豊作をもたらしてくれると信じられています。ただし、 この山の神は、田の神となりたまう神で、きこりや猟師りょうし のための山の神(山を守る
神=女性)ではないというこ とです。
一説によりますと、田の神の実体、とりわけその本来の姿は種籾たねもみであり、秋に収穫された稲が翌年春に生産の 為の稲籾いなもみになることから、稲の神(稲魂いなたま)が田の神の本 質的性格であるとされています。また、もみ・米・餅など は永遠の生命として継承けいしょうされたものであり、それ自身が 田の神であり、それが何らかの影響を受け、稲の外にあ って稲の生育を守る田の神へ展開していったと考えられ ています。
 
田の神信仰の起源

自然石や石像を田の神として田んぼに立てているのは、一つの石神信仰です。 それらの石の多くが、性器をかたどっているのは、古代からの性器信仰の表れ と見られています。えびの市西川北の自然石は、男性のシンボルそのものをかたどっているといわれています。
大同2年(807年)に書かれた 『古語拾遺こごしゅうい』 の『御歳神みとしがみ』の中に、 「田んぼに発生したイナゴを駆除するために、男茎おわせ型の田の神を造って田んぼの水口に立て た」という記事があります。

田の神の中でも、とりわけ多くの「農民型」田の神像の後ろ姿は、男根(陽物)をかたどったものが多いです。田の神は増殖の神であ り、手に持つメシゲとスリコギは男性のシンボル、わんは女性のシンボルを表すといわれてます。
本来、田の神は男性ですが、石像の中には少数だが女性像もあり、夫婦像もあります。

田の神信仰の形態

一般には田の神と呼ぶが、東北地方では農神のうがみ 、山梨・長野では作神さくがみ、近畿では作り神、兵庫から山陰の一部にかけては亥の神、 瀬戸内海地方では地神ちじんと呼びます。

南九州地方(薩摩・大隅・日向の南部)では集落ごとにメシゲやスリコギを持つ田の神の石像を作って田のそばにまつっています。 地方によっては、恵比須・大黒・カカシなどを田の神としている所もあります。さらに中国 ・四国地方などでは、木の枝(サンバイ様)を田の水口やあぜに立てて、田の神としています。

田の神の性格

田の神は聖的な神仏ではなく、庶民的しょみんてきな神仏という性格です。神無月になるとすべての神が出雲に集まるが、 田の神だけは土地に残り、人々を見守る神様であるという、言い伝えがあります。
また、田の神は汚しても転がしても決してたたらない優しい神であり、盗まれて他所へ連れて行かれても不平も言わず、 行った先々で田んぼを守ってくれています。

「デフッジョ(大黒さま)は人にかくれてん働け、タノカンは、ヨクエ(憩え)と言やったげな」という話が残っています。

以上である。

この『田の神さあ』が、えびの市歴史民俗資料館に展示されているとのことで、過日宮崎に行った際に出かけてみた。

以下、えびの市内に散在する田の神さあである。

また、『回り田の神』なる田の神さあが存在るという。それが展示されていた(下の写真)。

回り田の神とは、農家を回って豊作を祈願する風習である。当番の家では、田の神像に化粧をし、ごちそうを作り大事に床の間にまつる。田の神は、春・秋交代で次の座もとに回っていくという。

この常在する田の神は、薩摩、大隅、日向の島津領に存在する。何故か。

それは島津の酷政によるものであろう。全国的には年貢高は五公五民といわれている。薩摩は公式的には七公三民である。それを正租と呼ぶそうだが、その正租以外の年貢が課せられており、それを含めると八公二民となる。原因は圧倒的な武士の多さで、全国的な武士の比率は7%程度と云われているが、島津は30%ほどであったことによる。

農民は豊作を願い、収量を増やすことに専念し、その結果が『田の神さあ』であったことによる。甘藷の導入は農民対策の一環であった。

この田の神について、中国山地ではサンバイと呼んでいる。ココを参照願いたい。

<了>


野洲・行事神社の勧請縄

2021-03-07 07:49:07 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

先にココでも紹介したが、野洲市行畑に鎮座する行事神社の勧請縄である。場所はJR野洲駅に近い旧中山道沿いである。

祭神は金山毘古神。社伝によると、神亀元年(724年)御上神社の神託を受けた三上宿祢海部廣国が勧請したのが最初であるという。社殿は、承和三年(837年・承知三年とあるが、承知なる年号は存在しない)に慈覚大師が造営、延元二年(1337年)には沢弾正忠満が修造している。

(本殿)

勧請縄中央のトリクグラズは、細長い竹の枌(へぎ)を表裏12本を組み合わせ、幾何学模様になっている。これは、悪霊を絡めとる網を文様化したものであろう。左右には紙幣と青葉の小枝をつけた六対ずつの小勧請が吊り下がっている。東近江には多くの種類の勧請縄を見入ることができるが、この勧請縄は珍しい。

尚、駐車場はないので地図上の7イレブンの駐車場を利用。そこより徒歩1-2分。

<了>

 


須恵八幡宮の勧請縄

2021-03-04 07:53:30 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

須恵八幡神社の周辺をGoogle Earthでご覧いただきたい。八幡宮の右手に写るのは近年の住宅団地で、中央が須恵の集落である。出入口に相当する場所に在るのが須恵八幡宮ということになる。

須恵八幡宮の祭神は誉田別尊で創始年代は不詳とのこと。口碑によると弘長年間(1261-1264年)に男山八幡宮より勧請されたとある。弘安(1278年)以降永享年間(1429-1441年)の古文書が残っているという。そして延宝4年(1676年)社殿を改築。尚、勧請縄の起源は不明。

(須恵八幡宮)

須恵八幡宮の勧請縄は参道入口に架かっていた。見ると剣であろうか槍を模したものであろうか、トリクグラズの中央に交差する形の肖形をみることができる。

これぞ、まさしく結界を示すものである。通せんぼの形そのものであった。

このように分かりやすい形のトリクグラズを持つ勧請縄は初めて見た。これぞまさしくThe・結界であろう。エイリアンの侵入を監視・防止する勧請縄が、集落の出入口に在る典型例であろう。

<了>


栗東市上砥山の山ノ神

2021-03-01 08:02:19 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

上砥山の山ノ神については、Blog「愛しきものたち」のココに詳しい。この山の神の男女合体像をみていると、北タイ・アカ族集落の結界を示すロッコン(鳥居に似た門柱)の柱の根元にある男女交合像を思い出す。

何故、結界や豊穣を願う肖形が、北タイのアカ族と上砥山のそれと類似しているのか・・・との、当然の疑問を抱くが、倭族とアカ族の本貫の地が呉越にあるとすれば、当然の結果とも思われる。

ここ上砥山の山ノ神を見たくて、過日栗東市上砥山を訪れた。具体的な場所は不明である。然るべき処で尋ねると、渋々ながら教示頂いた。その場所は、上砥山の入会権が設定されており、その管理組合が管理しているとのことであったが、訪れた当日は日曜日のため事務所は閉まっていた。

諦めきれず現地へ行ってみると、高さ1.5m以上はあろうフェンスに囲まれ、無断侵入できないようになっていた。従ってフェンスをよじ登って、山ノ神の祟りにでもあえば大変である。諦めざるを得ない。

幸いなことに、その管理組合にて作成されたレプリカが、栗東市歴史民俗博物館に展示されていた。下の写真がそれである。2009年時点の現地の実態は、上掲のBlog「愛しきものたち」を参照されたい。

手元に2018年刊行の栗東歴史民俗博物館紀要第24号がある。そこに「上砥山山之神共有文書である『山之神祭記録』」に文化14年(1817年)の記載がある。その時、既に祭事が行われていたことになるが、年代的にどこまで遡れるかは不明である。

その博物館紀要第24号に“山ノ神神事(紀要では山ノ神行事と記されているが、ここでは神事と記す)”の次第が掲載されている。ここでは、その概要を紹介する。

  • 旧暦正月壱日:<花揃え>

 明・正月弐日に上砥山近在に配る花(ハナ)と呼ばれる樒(しきみ)と「山の神 上砥山」と摺った札を用意する。

  • 旧暦正月弐日:<花配り>

 近在の村々に花を配る。

  • 旧暦正月参日:<神木切り>

 祭祀当番四人で股木人形用の松の木を切る。男女二組分を切り出す。採ってきた松の木の形を整え、男女の顔を描く。男の股木人形はオッタイ(男体)、女のそれはメッタイ(女体)と呼ぶ。

  • 旧暦正月四日:<道具類の準備>

 股木人形を載せて運ぶための藤弦のモッコ一対、藁苞二対、竹徳利一対、箕皿一対、炮烙(ほうらく)一枚、菜種油を準備する。供物は玄米、キュウリ等の写真にある品々で、股木人形の祭壇に供える。

  • 旧暦正月五日<餅搗き>

 祭壇に供える紅白の餅を搗く。

  • 旧暦正月六日:<神移し>

 嫁入りと称し、藤弦のモッコに股木人形を載せ神宿に移す。そして祭壇を整え、氏神である日吉神社の宮司が立会い、股木人形の三々九度が交わされる。

  • 旧暦正月七日:<合体>

 仮設のかまどで炮烙を用いて玄米を炒る。炮烙は玄米を入れたまま半分に割って藁苞に納める。

藤弦のモッコ一対に男女一対の股木人形、供物を載せ二手に分かれて西山と東山と呼ばれる祭祀場へ向かう。祭祀場の檜の神木の根元に股木人形、供物を供え燈明を灯す。

オッタイを下にメッタイを上にして、当番が呪文を唱えながら何度も合体させ、神事は終了する。

なんと今日でも七日間かけて神事をおこなっている。伝統の神事を維持するには膨大なコストと地域住民の熱意以外の何物でもなかろう。上砥山に限らず東近江は“山ノ神”信仰の聖地のようである。過去に滋賀県東近江市蒲生岡本町の梵釈寺裏の山ノ神を紹介したが、股木人形のオッタイ・メッタイを信仰する風習が残っている。但し並列に並べる程度で、上砥山のように合体しているのは珍しいのではないか。いつまでも保存して頂きたい風習である。

(梵釈寺裏の山ノ神)

・・・ということで、アカ族の風習と上砥山の風習は深部で繋がっているであろうとの話題であった。

<了>

 


多伎神社の塞ノ神等々

2021-02-16 05:59:37 | 道祖神・賽の神・勧請縄・山の神

多伎神社と祭神・阿陀加夜努志多伎吉比賣命については、過去に記述してきた。その多伎神社には、塞ノ神や社日塔等が鎮座している。出雲では社日塔は数多いが、塞ノ神は少数である。多伎地区の入口に存在することから塞ノ神=道祖神であろう。

伝・塞ノ神とあり由緒は全く不明である。多伎集落の入口にあることから道祖神であろう。

社日塔は多くの場合、六角柱であるがここは頭でっかちの円柱である。表には天照大御神と刻まれている。ここには神木と云うからにはいかにもか細い若木であるが、それに藁蛇が捲きつけられている。荒神さんである。

頭は大蛇(オロチ)でいかにもそのような形になっている。やはり集落の入口に在り、道祖神としての結界、即ち疫の侵入阻止と荒神への豊作祈願であろう。

<了>