世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

コレは何だ!

2022-08-07 08:59:39 | 北タイ陶磁

過日、K氏のブログ『の~んびりタイランド2』を見ていると、後頭部を叩かれたような衝撃を覚えた。日頃、漫然とモノを見ていた証である。まず『の~んびりタイランド2』の該当記事(ココ参照)を御覧願いたい(管理人に断りなくリンクを貼り付けました御容赦下さい)。

シーサッチャナーライ・パヤーン窯の物原から回収された緑釉残欠も大いに興味があるが、今回は、日本の須恵器でいう多嘴壺(たしこ)・子持壺の類である。北宋ー南宋時代の青磁多嘴壺とは、似ても似つかわないが、子持壺とはそっくりである。

『の~んびりタイランド2』記載の61号窯保存センターの該当焼締壺は、過去に実見していたが、当時は前述のように”ぼけーつと”見ていたことになる。その写真を下掲する。

61号窯保存センターの焼締壺は4つの子壺がついていたようだ。以下、日本の須恵器の多嘴壺(たしこ)・子持壺の類を掲載する。

(古代出雲歴史博物館展示)

(松山市考古館展示)

(大阪府立近つ飛鳥博物館展示)

下に掲載した奈良三彩(複製品)の子持壺は、出雲市弥生の森博物館の展示品である。詳しく調べた訳ではないが、古墳時代の子持壺は奈良時代になり三彩でも作られたようである。

それにしてもシーサッチャナーライの焼締・子持壺と須恵器には、時代差が大きすぎる。子持壺は古代シリアにも存在していたようであり、中国でも古い時代のモノが存在する。シーサッチャナーライ61号窯保存センターの焼締陶の源流・出自が気になる。尚、良ければココも参照願いたい。

<了>


最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁・#37

2022-02-22 07:34:55 | 北タイ陶磁

最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁から、カロン窯の鉄絵盤2点を紹介する。いずれも本歌(本物)である。落札価格が幾らであったかまでは確認していない。

典型的なカロンの鉄絵文様で碗と記されている。法螺貝はヒンズー神であるビシュヌの持ち物で、法螺を吹くというのは悪魔を治める意味と、ヒンズー教や仏教の法話をするという意味である。北タイの古代は中国文化のみならず、西方インド文化の影響も受けていた。その関係で法螺貝の文様はそれなりにポピュラーである。

釉薬がややカセているように見えるが、写真の程度では問題なかろう。1万円程度の落札であれば、買い物である。

器面全体に渡る絵付けは、繁辱以外のなにものでもないが、この繁辱な絵付けこそカロンの最大特徴である。この唐草文もカロンでは好んで用いられた。

轆轤の回転方向、やや白い胎土で砂噛みし、キメが粗いのもカロンの特徴である。器面にところどころみる釉薬の剥離が、やや残念である。これも本物で、箱もしつらえられ大切にされていたであろう。偽物でないのが清々しい。

<了>

 


チェンラーイ県バン・パサン遺跡出土のワンヌア窯陶磁

2020-07-14 07:50:59 | 北タイ陶磁

過日、バンコク大学付属東南アジア陶磁館のHPを覗いていたら、久しぶりのニュースである。

チェンラーイ県バン・パサン遺跡から14-15世紀に焼成されたワンヌア窯青磁が96点出土したと記されていた。そのバン・パサン遺跡とは、チェンラーイ県ムアン郡タンボン・タースット・スリパサン村にあるという。タンボン・タースットまでは地図上で辿り着けたが、スリパサン村の所在が分からない。分かったとしても即行けるわけでもないのだが・・・。

発表されている写真をみると、破片の他に相当数の完品もあるようだ。今回の発掘地点以外に近接地にも盗掘された出土地点があったかと思われる。

出土地はHuai Sam Hai(サムハイ小川・想像するにコック川支流か?)の浸食された土手から出土したとのことである。雨季の雨で土手が削られ出土したものと思われる。尚、出土遺物はチェンセーン国立博物館で保存されていると記されていた。

予てより、チェンラーイとチェンセーンは再訪したいと考えているが、いつになることやら。

<了>

 


<続編>聖なる峰の被葬者は誰なのか?

2019-10-27 06:52:22 | 北タイ陶磁

1980ー1990年代、タークからメーソトにかけてのミャンマー国境に近い、タノン・トンチャイ山中の墳墓跡からミャンマー陶磁やスコータイ、シーサッチャナーライ更に北タイ陶磁や中国陶磁が大量に盗掘された。タイ人は墓を持たないとされておりその墳墓が、どのような民族のものなのか謎であった。

タイの考古学者や知識人が、その墳墓の主の民族は不明とするなか、当該ブロガーが無謀にも『聖なる峰の被葬者は誰なのか?』とのテーマで連載を試みた。その帰結は当然と云えば当然ながら、明確な結論を得ることができなかった。興味をお持ちの方は以下のブログをレビュー願いたい。 

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(1)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/0588d17ccd37b762c468e68cfb33d5db

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(2)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/09157ceb99483956396d8d88b2d8f11f

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(3)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/4607f1dd2dbe286265efa1530f2c5795

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(4)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/7093aefe16868099d39e86858960104f

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(5)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/37cbdc211ffb477495f54ee1fdf12c87

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(6)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/47a4a466e55b60caa6e7944ede6ba174

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(7)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/8ee69b9fc4c8be602b9419a35e116b9e

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(8)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/349e7c907849913d9c495dc42c3ea63d

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(9)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/ce6e908cffa3c4b448d72a92805e8952

聖なる峰の被葬者は誰なのか?(10)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fe99cfeab26b6f52102b5495f7aff6a2

〇聖なる峰の被葬者は誰なのか?(11)

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/faf8888befdc99acb87b4c116a0a19ad

 

近年、チェンマイ国立博物館は改装工事を行っていたが、先年再オープンした。其処には先史時代の展示も行っている。当該博物館で発行しているガイドブックを参考にしながら、<続編>として再考してみたい。

〇 Ban Yang Thong Tai遺跡

国立博物館のガイドブックによれば、遺跡はチェンマイの北東10kmのドイ・サケット郡に在る。その遺跡は平地に対し1mのマウンド状を示しており、出土遺物が示すのは、ランナー王国初期の墓地である(どの遺物が、それを示すのか説明はない)。そこには赤い胎土の土器、青銅遺物、鉄製工具が当時の人骨と共に出土した。

サミットル・ピティパット教授は、タノン・トンチャイ山脈中の盗掘跡の調査で確認した副葬品に鉄製品や青銅遺物があったことを指摘していいるが、土器については言及されていない。

この遺跡は、タノン・トンチャイ山脈やオムコイ山中の墳墓と同時代で、かつ考古学的発掘であり、もっと精査して欲しい気がする。人骨のDNA解析結果はどうであったのか。是非再調査して欲しいものである。どの民族のものなのか。

 

〇 Ob Luang遺跡

遺跡はチェンマイ県ホート郡のOb Luang国立公園内に在る。考古学的発掘調査によると、文様のある土器片、高坏の破片、磨製石器が出土の品々であった。調査では、岩場の下の崖下に朱と白で描かれた人間と動物の壁画が発見された。

考古学チームっは前史時代の25000年ー2500年前のものであったと考察している。

つまり埋葬主はタイ族南下前の前史時代人であり、課題の中世の人々ではないが、副葬品をともなっっている点は共通である。

 

〇 Ban Wang Hai遺跡

ランプーンの1.5Km程南に位置している。遺跡はクワン川中流の盆地の田圃に在る。

出土遺物より、そこは2つの文化時代にまたがっていたと思われ、同じグループの人々が継続して居住していたであろうとことを示していた(つまり2つの文化時代にまたがり、ある民族が継続して居住していた)。それらの民族は、新しい技術の受入れによって、徐々に変化したであろう。

2つの文化時代の後期に遺骨が無くなったのは、8世紀から9世紀にかけての仏教の到来と、それに伴う火葬の習慣によるものであろう・・・以上、ガイドブックが記す概要である。

このBan Wang Hai遺跡は8世紀半ばに建国されたハリプンチャイ王国と呼ぶ、モン(Mon)族の遺跡と思われる。モン族は仏教を受容し火葬に転換したとある。

タノン・トンチャイやオムコイの墳墓は、土葬もあれば火葬の痕跡も認められている。してみれば、それらの墳墓跡はモン族の可能性が考えられる。

今回『<続編>聖なる峰の被葬者は誰なのか?』と題して、再度考察を試みたが、やはり結論のない噺となった。現代のハイテク分析機器を用いれば、これらの墳墓の主はどのような民族であろうか・・・との命題に一歩近づくとは考えるが、それを行わないのは流石タイではある。

 

追・Ban Wang Hai遺跡出土遺物は写真の磨製石器、鉄・青銅遺物、ビーズなどである。ビーズの装飾物は現代の山岳民族に繋がっている。

 

<了>

                 


北タイ陶磁に魅せられて:第8(最終)章

2019-10-21 08:47:16 | 北タイ陶磁

不定期連載として過去7回に渡りUP-DATEしてきた。過去に掲載した記事をご覧頂けたらと思い、それらのURLを掲載しておくので参考にされたい。

〇北タイ陶磁に魅せられて:第1章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9e015d9fcaf6a02f33bbb92747452b95

〇北タイ陶磁に魅せられて:第2章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/064fddaeccaf6dd6886827e73c5ffb8f

〇北タイ陶磁に魅せられて:第3章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcad4db5e1347f88d342c6dae2a4858

〇北タイ陶磁に魅せられて:第4章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/5990013b5a36044056e97932badb92da

〇北タイ陶磁に魅せられて:第5章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fc359c79a6d232c857102aa77b92fc48

〇北タイ陶磁に魅せられて:第6章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9a53e0ba73d6a5cc3d6861ac63722540

〇北タイ陶磁に魅せられて:第7章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/75b7890deac00c77cc484f6df0e2eea4


過去5回に渡り『ランナー古陶磁の窯址を巡る』と題して、旧ランナー王国の4つの古窯址群について紹介してきました。今回、番外編として過去に紹介できなかった古窯址群のなかから、幾つかの古窯址を紹介させていただきます。番外編の3回目(第8章)はインターキン古窯址群です。

〇序

中部タイのスコータイ、シーサッチャナーライ両窯については、内外の先達により調査・研究は精緻なものになっていますが、北タイについては未解明な点が多々残存しています。今回紹介するチェンマイ県メーテーン郡内のインターキン窯は、窯址の調査は行われましたが、そこで焼成された陶磁については、出土した陶片が少なく全貌が掴めたとは言い切れないまま今日に至っています。

そのような未解明の点はありますが、チェンマイから1時間余りの場所で、窯址には博物館も建っており、誰でも見学可能であることと経路も分かりやすいことから、一度出掛けられてはどうでしょうか。

 

〇窯址発掘の経緯

この窯址は1994年民家の敷地内で偶然に発見され、その敷地一帯をインターキン地区役所が買収し、1996年タイ芸術局によって発掘調査され、ここを古窯址博物館として、2006年12月25日に開館の運びとなったものです。

過去、この中世の窯場は”ムアン・ケーン”と呼ばれていました。その窯は丘の傾斜に設置されており、幾つかの煙突状の痕跡が地表に現れていました。そこを発掘すると、地表から2m下に窯が横たわっており、厚板状の粘土で固めたもので構築されていました。全体的な窯形状はサンカンペーン窯と類似しています。焼成物は明るい青磁、緑がかった褐色釉(暗緑釉)の陶磁で、双方ともに同じ形状の壷がありました。そして壷のほかに盤、鉢、蓋付きの壷が出土しました。このインターキンの窯から採取した炭化物を、C-14炭素年代法で年代分析すると1420-1445年を示し、それはサ-ムファンケーン王の時代を示していることになります。

(発掘の経緯を示した説明板)

窯址は覆屋があり現地に立つと、5基確認できました。発掘は部分的であり、まだ埋没している未発見の窯もあろうかと想像できます。

 (左右の覆屋の下が窯址)

全貌が見える形で発掘されているのは1基で、その幅は約2.2m、長さは3.7m程度かと思われ、僅かに地表を掘り下げ、丘の斜面にそって構築され、地形の関係から焚口は南向きとなっています。その形状はサンカンペーン古窯と同じ半地下式の横焔式単室窯(クロス・ドラフトキルン)、いわゆる穴窯です。          

 

〇開窯の時代背景

C-14炭素年代分析で1420-1445年を示したと云われていますが、これはランナー王朝第8代・サームファンケーン王(即位1402-1441年)の時代に相当します。「チェンマイ年代記」は後世の成立で、記録内容に全幅の信頼はおけませんが、それによると、サームファンケーン王はパンナー・ファンケーン(現:チェンマイ県メーテーン郡)で生まれたとされています。即位後1404年と1405年の二回にわたり雲南のホー族が、ランナー王国に侵攻しましたが、サームファンケーン王は3万の兵でホー族を攻撃し、雲南の景洪まで追い返し、中国の朝貢国から脱しました。その後、ランナー朝は繁栄を継続します。その絶頂期とも云えるサームファンケーン王に縁深いメーテーン郡のインターキン地区に窯があったことになりますが、その築窯はサンカンペーン窯より、随分時代が下ることになります。従ってサンカンペーン窯の影響を少なからず受けていることになります。                     

 

〇予備知識を習得するには

窯址の発見が近年で、本格的発掘調査も10数年前のことであり、分からない点が多々存在します。合わせて窯址から出土した陶片類も少量で詳細が未だ不明です。

またインターキン焼を展示している施設は、現地の窯址博物館しかありません。その現地博物館も展示内容が貧弱です。従って刊行物に頼ることになりますが、それもタイ芸術局発刊のタイ語による調査報告しかありません。従って窯址訪問前の予備知識習得は困難です。

 (タイ芸術局発刊の調査報告)

 

〇博物館の展示内容と焼成陶磁

窯址の前に建つ博物館の正式名称はインターキン窯博物館(พิพิธภัณฑ์แหล่งเตาเผาอินทขิลเมืองแกน)となっています。それは立派な建物です。

 (窯址博物館)

展示室には発掘陶磁器の破片が展示してありますが、一辺が4~5cm程度の断片で、そこからは完器の形状を想定することはできません。さらに残念ながら最近、博物館は施錠されており、その破片さえ見ることはできません。その代りと思いますが博物館の外壁に出土陶片の写真ボードが複数掲げられています。

(博物館内の展示陶片)

(出土陶片写真ボードの一部)

以前の資料館の陶片展示と、最近の外壁の写真展示を見ていると、外側が褐色釉で内部に青磁釉の壺片や、カベットに放射状の刻線が入る盤片も出土しているようです。

発掘はタイ芸術局が担当し、その説明板の内容を掲載しますと、壷、盤、鉢、蓋付き壷が焼成され、オリーブグリーンや緑がかった褐色釉に覆われていたと説明されています。なるほど破片をみるとそのような痕跡が認められるものの、破片で釉薬は剥落したりカセ(注釈)ており、タイ芸術局調査報告の記述内容を十分に確認できなかったのが残念です。

サーヤン教授の報告書によると、鋸歯の印花文も存在していたようですが、それ以外にどのような装飾文様があったのか、必要な情報が記載されておりません。但し盤については、サンカンペーンと区別が困難な事柄が記述されており、今日サンカンペーン陶磁として流通している盤に、紛れ込んでいる可能性があります。以上をまとめますと、次のようになります。      

使われた釉薬の種類

 褐釉、黒釉、暗緑釉、青磁釉、灰釉

焼成された焼物の種類

 壺、蓋付壺、皿、盤、

装飾文様・・・装飾陶磁片の出土が僅かであり、其の中で下記の文様が確認されています

 印花文(鋸歯文・きょしもん)、鎬文、円形形状の貼花文

従来は博物館の見学も可能でしたが、2015年に訪問した時は閉鎖されていました。今日、博物館内の見学が可能かどうか不明です。   

 

〇さあ!窯址へ行ってみよう

先ず発掘された窯址から紹介します。

(窯後部と煙突の部分的発掘)

(2つの窯が隣り合わせで部分的な発掘)

(窯後部と煙突の部分的発掘)

(表紙と同じ窯で別アングルから撮影)

窯址現場を実見して感じたのは、サンカンペーン古窯とほぼ完全に一致した印象です。あくまでも想像で確証はありませんが、サンカンペーンからの陶工により築かれ、似たような陶磁生産がなされたものと考えられます。

興味をお持ちの方のために、インターキン窯址への道程を紹介しておきます。チェンマイから国道107号を北上、メーテンの市街を経由してメーテン川を渡り、約200mでメーガット・ダムに至る道の分岐をメーガット・ダム方向に右折します。ここで国道107号と別れることになります。なおこの右折箇所の国道107号の左肩に案内板があります。

(国道掲示の案内板)

これを観たら右折してください。右折すると長い緩やかなのぼりになり、そして長い降り坂の途中にインターキン地区のゲートを通過します。通過して1km程度行くと平地になり、写真の道路標識を見ることになります。

(道路標識:黄色で囲ったバン・サンパトンが目的地)

そこを左折すると、人工の小さなクリーク(幅4-5m程度)が流れており、そのクリーク沿いに北上すると同時にワット・パーデンが見えてきますが、その前をクリーク沿いに更に6-7km北上すると、小さな十字路に至ります(十字路の右角は工場)。そこを左折して20ー30m先のT字路を右折し,暫く行くとワット・インターキンを見ることができます。この寺院をみて200m程度行くと、目的の窯址と博物館の裏手に到達します。

(裏門)

(正門)

博物館の裏手にも入り口があり窯址へ行くことは可能ですが正門へ至るには、その先を迂回することになります。

 

〇穴窯の系譜

今号までに7つの窯址群の窯址(穴窯)を紹介しましたが、最後にその穴窯の系譜を考察し、筆を置きたいと思います。穴窯を正式には横焔式単室窯(クロス・ドラフトキルン)と呼びます。北タイには地下式、半地下式、地上式の横焔式単室窯が存在します。それでは北タイのこれらの窯は独自に誕生したのでしょうか? 

メンライ王がランナー王国を1292年に建国した当時、北方の雲南を足掛かり元の南下圧力を受けていました。そのことは中国側史書の元史に軍征記事が記されていることから明らかです。其の時に陶工と共に穴窯も伝播した可能性が考えられますが、残念なことに雲南では今日まで穴窯の存在が明らかになっていません。

オーストラリア・アデレード大学のドン・ハイン教授は東南アジア陶磁研究の泰斗ですが、教授によれば穴窯の端緒は、紀元前の中国にあるとの論文が発表されています。その穴窯が雲南経由ではなく、北ベトナムからランサーン王国前期の北ラオス経由で、北タイにもたらされた可能性を指摘しています。

(ドゥオンサー古窯 筆者現地にて)

上の写真は、2013年にベトナム・ハノイ郊外のバクニン省のドゥオンサー窯址を訪問した時に撮影したものです。時代は9~10世紀のもので、これがランサーン王国前期のルアンプラバーンを経由(ルアンプラバーン近郊に、14世紀の穴窯址が存在)して北タイに伝播したと思われますが、北タイの窯址形状はドゥオンサー古窯とは少しことなり、形式は同じながら北タイ独自のスタイルに変化したと思われます。

注釈・カセ 鹿背と漢字表記する。釉薬表面のガラス質が劣化し光沢を失っている様を云う。

 

以上、不定期連載として8回に渡り、北タイ陶磁の魅力と窯址訪問記を紹介してきました。幸いにも北タイの日本語フリー情報誌『Chao』に寄稿させていただきました。その情報誌ご希望の方は、過去に紹介した方法で入手願いたいと思います。

尚、ブログ掲載時期については明言できませんが、イサーンの所謂クメール陶磁の窯址、中部タイの例えばメナムノイ窯址等の、北タイ以外のタイ王国領域の諸古窯址紹介のブログを掲載する予定です。

 

<完了>