世界の街角

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特集:北タイ陶磁からみた中世ランナー文化・第3章

2025-03-06 09:17:51 | 北タイ陶磁

第3章:北タイ陶磁の仏教文様

1.大乗仏教の宇宙観

スコータイ王国の社会は、大乗仏教の宇宙観によって支えられていた。王国の創始者シーインタティットは、1240年頃即位し1270年頃まで王位にあったと考えられている。以後、約200年にわたり九代の王が続くことになる。スコータイ王国社会は大乗仏教の宇宙観によって支えられていた。

その約200年間、タイ族はシーサッチャナーライに数々の宗教建築を建造した。遺構の中で最も古いワット・チャンロームは、6年の歳月を費やして城市の中央に造営された。ワット・チャンロームの様式はスリランカに由来し、古都アヌラーダプラ文化の将来であることが濃厚と云われている。その仏塔は、仏教の宇宙観表す須弥山をイメージしたもので、東向きにラテライトで築かれていて、仏像が並んでいる壁龕の下に基壇の四方を囲むように像の群れが、全身を表した形で備え付けられている。しかし、この仏塔は、インドラ神の化身となったシーインタラティットの霊廟として建立されたであろう。

タイ族がインドラ信仰を受け入れたのは早い時からであろう。10世紀前後に生まれたと思われる神話や伝説の中にも、インドラ神が起こした大洪水から、牛飼いが牛を護ろうとして山を持ち上げたという洪水神話や、インドラ信仰にまつわるプラ・ラーフー神話で彩られている。

プララーフー

シーイントラティット第三子である第3代ラームカムヘーン王の時代、領土拡大によって急成長を遂げ大国となった。その孫のリタイ王(在位・1349-1369年)の時代に至ると、大乗仏教から上座部仏教に深く傾倒して三界教(トライプーム)を著し、地獄と極楽のことを明確に説いている。

ラームカムヘーン王により急成長を遂げたスコータイ王国に北接する北タイの地では、メンラーイ王がランナー王国を建国した。

メーンライ王は、1296年チェンマイ建都にあたり、大乗仏教の宇宙観を採用した。建都の際、王宮を兼ねたであろうワット・チェンマンを建立した。ワット・チェンマンのモンドップ①に祀られているプラ・スィラーなる仏陀の彫像をもつ石碑は、スリランカに由来するものといわれている。

ワット・チェンマン モンドップ

ワット・チェンマン チェディーチャンローム

また境内のチェディー・チャンロームは、基壇に15頭の象が造形され、それに支えられた仏塔である。この仏塔はランナー様式と云われているが、先のプラ・スィラー同様スリランカとのつながりが感じられる。

ランナー王国における大乗仏教の宇宙観について記しているが、ワット・チェンマンの建立と共に、都の中央に須弥山に擬した仏塔とラック・ムアン(都の柱)と呼ぶ祠堂を配し、その北に王宮を置くという構成は、アンコールやスコータイと同じくインドの世界観そのもであった。その仏塔がワット・チェディールアンであり、それを囲うように8つの方角に寺院を建立した。それは王朝の繁栄がもたらされ、首都を守護することを祈願するためのものであった。

 

2.北タイの三界教世界

三界経は「悪いことをすると地獄に墜ちる」という因果応報の観念を説き、地獄の様子を体系化して描き、民衆にも生々しく且つ分かりやすい形で、上座部仏教を説明した。三界経はインドに始まり、スリランカやビルマ、タイなどパーリ語によって記された上座部仏教の教理書である。タイでは「トライプーム・プラルアン」がスコータイ朝の5代リタイ王(在位1354-1376)によって1345年あるいは1359年に、約30種の経典類を資料に編纂された。仏教的宇宙観に従って国王=須弥山というイメージを使用し、タイ国民の支配と統合のイデオロギーとして用いた。バンコクのワット・サケット(別名:プー・カオ・トーン)に行くと、先述の事柄をベースとした壁画を見ることができる。

ワット・サケット 須弥山図

壁画を見ていただくと、須弥山は七つの山脈に囲まれ、その間は大海であり、セオリー通りの須弥山図である。須弥山の頂上には善見城が見へ、各山脈の頂に三十三天が描かれている。釈迦は母が死後住まう須弥山に降下し、説法を説いたという。

この壁画は、上座部仏教の宇宙観トライプームの描写、とくに須弥山頂上(写真上方向で途切れている)に棲む、インドラ神をはじめとする神々の住まいが、描かれている。

須弥山の麓に位置するヒマパンの森、アノータタ(現:マナサルワール)湖とそこから流れ出る河川(必ず4方向)。須弥山を取り巻く海や4大陸、地底の地獄や餓鬼世界が描かれている。

以上はスコータイからラタナコーシン朝下の事柄である。では北タイではどうであろうか。残念ながらチェンマイで上述の壁画を見た経験がない。以下は、先日ワット・プラシンで目にしたことからの、中世のランナーでのトライプーム世界を考えてみた。

写真はチェンマイ国立博物館所蔵の1726年製の漆塗り・仏足跡の複製品である。中央は法輪、踵に位置する部分は須弥山となる。これを見ると、中央に須弥山(黒漆)左右に七つの山脈(鉛筆のような螺鈿で表現)そして両サイドに鉄囲山(てっちせん)を見る。

写真はワット・プラシンのプラシン仏で、その背後にはチェディーが描かれている。このチェディーは須弥山を表現している。さらに燭台を拡大すると、次の写真となる。

この燭台はSattaphanと呼び、ナーガと須弥山を模したランナータイ独特のものである。ここにも須弥山が描かれている。当該ブログ訪問の方々には、長文にお疲れかと思うが、中世のランナー世界の民衆は、これらのトライプーム世界観でランナー王に飼いならされたことになる。

3.陶磁器の仏教文様

上記の背景は陶磁器の文様にも及んだ。シルパコーン大学のサーヤン教授は、ナーンのジェーリアン古窯址の発掘調査で出土した壷の耳や線刻文様が、仏教の宇宙観を示すものとして、以下のように説明しておられる。

櫛歯による波状文は海を、2筋の線刻の間の帯は陸地を表し、それは須弥山を含む九山八海を示すという。教授によれば、これをMount Sumeru Systemと呼んでいる。(写真添付 略)

褐釉印花文盤の仏教文様もそうである。写真の毘盧遮那仏画像をご覧いただきたい。中央部に描かれた宇宙の大海を象徴する籠の形をした須弥山は、2匹の蛇に取り巻かれ、その上に獅子がうずくまっている。その下には向かって左に疾駆する馬がいる。

その文様が下写真のように、盤を飾る文様として出土している。

ナーン・ジェーリアン窯址出土

写真が見づらいのでスケッチすると、以下のようになる。

更には双魚まで描かれている。このような文様は、密教系の後期大乗仏教のそれにみることができる。中世の北タイは13世紀に上座部仏教が伝搬するまで、ヒンズー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていたのである。

参考文献

東南アジアの古陶磁9 富山市佐藤記念美術館刊 

東南アジアの古美術 関千里 めこん社

The chiangmai chronicle (チェンマイ年代記) David K

Ceramics from the Thai-Burma Border Sumitr Pitiphat

Ceramics in LanNa  By Sayan Praichanjit

山野正彦氏の論文「タイの仏教寺院壁画における景観とコスモロジー表現」

<了>


特集:北タイ陶磁からみた中世ランナー文化・第2章

2025-02-06 08:56:51 | 北タイ陶磁

第2章:北タイの土俗信仰

1.聖なる峰の被葬者

タイ族には、古来からサイヤサートと呼ぶ土俗信仰がある。それはインド古来の自然を超越した神への世界観を基盤にしたもので、もろもろの霊崇拝、吉凶の占いなどに基づいた神秘性を帯びた信仰であるが、それに準じたアニミズム的葬送を山上の墳墓に埋葬する以前から行っていたと考えられる。

また雲南の南詔王国や大理王国にも火葬による埋葬例があるところから、タイ族の祖先はもともと火葬を行っていたか、またはその影響下にあったとも考えられる。南詔や大理、そして上ビルマ、ピュー族の火葬の習慣を受け継いでいたビルマ族と、もともと火葬を行っていたクメール貴族の影響もあったはずである。

タイ平原に躍り出たタイ族にとって、先進国に囲まれた東西の文化的恩恵は多様で多大であったと思われる。その風習を受け継ぎ土葬、火葬によって墳墓の世界を出現させたのではないか。

シーサッチャナーライ古窯の発掘で、下層部の窯址から炻器の大壷群が出土している。それは灰骨を残らず砂と共に納める大壷ではなかったか。また中世にビルマ族とクメール族との狭間にあって、タイ族も火葬であった可能性が濃厚である。

これらの大壷に埋納されていた サンカローク焼博物館61番窯にて

それがパガン、アンコール両大国の没落と共に、14世紀、ペグー王国の興隆で、インド起源の天体宇宙観と仏教の輪廻思想の影響を受け、土葬が多くとり行われるようになったと思う。それはタイ族社会に施釉陶が出現し、急増する時期と微妙に合致する。古来から現在までタイ人は墓をもたないと云われているが、上述のように聖なる峰の被葬者はタイ族であろう。

(ドイ・インターノン頂上の墓碑)

(チェンマイ・チェットトン朝の第7代・インタウィチャヤーノン王の墓地がタイ最高峰であるドイ・インターノンの頂上に存在する。タイ最高地点と表示された看板の後方に、第7代・インタウィチャヤーノン王の遺骨を納めた祠というか墓がある。第7代王の娘でラーマ5世王に嫁いだダーラーラッサミー妃が、父である第7代王の遺骨を天国に最も近い場所に埋葬するために、自ら歩いて運んだとの伝承が残っており、現にその墓には献花が絶えないでいる。中世ではなく、19世紀末から20世紀初頭に、聖なる峰への埋葬が存在していたのである。これが中世もそうであったろうとの、タイ人埋葬説の根拠の一つである。)

2.ローイクラトン

11月の満月の夜のローイクラトンは。古くからのサイヤサート信仰が根源である。チェンマイ市街を南北に流れるピン川には、数えきれないほどのバショウの葉で蓮花をかたどった灯篭(クラトン)が浮かび、ローソクの淡い灯を水面に映して、ファンタスティックな光景となる。仏に感謝して熱気球(コムローイ)が、風に揺れながら夜空に次々と舞い上がる。古い歴史をもつこの祭りは、水を司る女神プラ・メー・コンカー②に感謝する供物を水に放ったことに由来する。

このようにタイ族の精神世界は東方中国の影響より、タイ族が古来から信ずる土俗信仰と共に西方インドの影響を受けていることになる。これらのことどもが、北タイ陶磁の文様に影響を与えていることはたしかである。それらの事どもについては後章にて触れたいと考えている。

 

*① サイヤサート:サイヤサートとは、自然を超越した神秘的な力に頼ろうとする信念、認識である。具体的にはピー(精霊)、サーン(霊)、クワン(魂)、テーワダー(神)、そして種々の占い等々への信仰、信心である

 

*② プラメーコンカー:ヒンズー教では、ガンジス川を擬人化した神とされ、ガンジスでの沐浴は罪を軽減させ穢れを取り除き、悟りと信仰に信じられている。ローイクラトンでは、ピン川を司るのはプラメーコンカーと信じられている。

参考文献

 東南アジアの古陶磁9 富山市佐藤記念美術館刊 

 東南アジアの古美術 関千里 めこん社

 The chiangmai chronicle (チェンマイ年代記) David K

   Ceramics from the Thai-Burma Border Sumitr Pitiphat

 Ceramics in LanNa  By Sayan Praichanjit

<続く>

 


特集:北タイ陶磁からみた中世ランナー文化・第1章

2025-01-23 09:13:11 | 北タイ陶磁

今回から数次に渡り『北タイ陶磁からみたランナー文化』とのテーマで、コンムアン(北タイ人)に息衝く精神世界にせまってみたいと考えている。

1月初旬のチェンマイは、サクラムアンタイと呼ぶヒマラヤ桜が満開である。20日をすぎた今日はどうであろうか。今日北タイはベストシーズンである。これからチェンマイを訪れられる方々に、コンムアンの精神世界を覗いていただければ、旅も感慨深いものになろうかと考えている。

第1章:発掘の喧騒

1.ドラマの幕開け

雲南に存在した南詔王国は、タイ族国家ではなくチベット・ビルマ語族の国家であるとの説が定説となっているが、伝承によるとタイ族の南詔王国の王子が十万の人民を伴って南に下り、タイ北部チェンセーン地方の最北メーサイに至ったとされている。そしてメコン河畔にタイ族の国・チェンセーン王国を興したのは773年であると云う。

チェンセーン王国廃都に建つワット・チャンパーサック  出典・Wiki Pedia

この伝承から、この頃すでに雲南を越えて、メコン川の上流域から南へ下る川や陸の交易路が開かれていて、南下する移動民の受け入れ基盤もすでに存在していたであろう。

メンライ王廟のメンライ王像 ウィアンクムカームにて

中央がメンライ王像・チェンマイ旧市役所前

チェンセーン王国は、その後都をさらに南へ下ったチェンライに移し、13世紀末には更に南のチェンマイを都とし、メンライ王による統一国家ランナータイへと発展した。その結果として、北タイ各地に窯業の基盤が整うこととなった。

2.タノン・トンチャイからオムコイへ

1970年代、タノン・トンチャイ山脈中のメーソトからウンパンへの道路建設中に、偶然にも多量の古陶磁や種々の遺物が発見された。それらは山の掘削現場や山裾で見ることができた。山岳民族により収集されたそれらの遺物は、市場でタダ同然で売られていたが、噂を聞きつけた古美術収集家に高値で買取されたことから、彼らは容易に売却しなくなった。それらの遺物が突然バンコク、スコータイ、チェンマイ、アユタヤのアンティーク・ショップに顔を出し始めたのである。

タノン・トンチャイ山脈の発掘現場は、峰の頂や山腹、さらに北の峰々へ、また山間の渓谷へと連鎖的に展開してゆき、1987年頃まで続いた。主な遺跡はウンパン、ポップラー、メーラマト、ターソンヤンの各地である。その多くが墳墓であったことを考えると、タノン・トンチャイ山脈は周辺の実力者たちにとって、聖なる終焉の地であった。

墳墓を抱くオムコイの峰々

これらの発掘の喧騒は、北端としてのオムコイ山中に及んだ。一度は発掘現場を実見したく、10年前にオムコイ深南部に足を運んだ。深南部のBan Mae Tuen、そこの河谷にはMae Tuen川が南流し、南接するターク県で北流し、ピン川と合流する。その人里離れた山岳地帯の尾根筋にある埋葬地は、謎に包まれている。

オムコイの発掘址

出土品

オムコイ山中発掘現場 発掘時の様子

それはヒンズー教や大乗仏教の天上界を連想させ、魂の昇天を祈り、生まれ変わりのために天上界に近い尾根や山頂を選んだ、素朴な結果であったと思われる。

最終的に発掘は、北のオムコイから南のウンパン南郊まで、距離にして87kmにも及んだ。その広い地域で共通するのは、古陶磁や種々の遺物が墓跡から出土したことである。その墓は25-30mほどの外径をもつ小さなマウンドで地下1.5~2.0m程のところに大壷があり、その中に人骨と骨灰が入っていた。それらの壷はマルタバンジャーであったり、シーサッチャナーライ製の大壷であった。それらの壷の下から古陶磁や鉄刀、陶製パイプ、銀貨、指輪などが出土した。

これらの大壷に埋納されていた サンカローク焼博物館61番窯にて

オムコイの墳墓址からはランナー朝のサドル銀貨が出土した

その中で古陶磁は、タークからメーソトにかけては、スコータイやシーサッチャナーライ製の比率が多く、北のオムコイに行くにつれて北タイ陶磁の比率が多くなっていった。

カロン鉄絵双魚文盤

サンカンペーン印花双魚文盤

サンカンペーン鉄絵双魚文盤

その北タイ陶磁には多くの魚文が描かれていた、その多くの魚文は際立った北タイ陶磁の一面となっている。

<続く>

 


コレは何だ!

2022-08-07 08:59:39 | 北タイ陶磁

過日、K氏のブログ『の~んびりタイランド2』を見ていると、後頭部を叩かれたような衝撃を覚えた。日頃、漫然とモノを見ていた証である。まず『の~んびりタイランド2』の該当記事(ココ参照)を御覧願いたい(管理人に断りなくリンクを貼り付けました御容赦下さい)。

シーサッチャナーライ・パヤーン窯の物原から回収された緑釉残欠も大いに興味があるが、今回は、日本の須恵器でいう多嘴壺(たしこ)・子持壺の類である。北宋ー南宋時代の青磁多嘴壺とは、似ても似つかわないが、子持壺とはそっくりである。

『の~んびりタイランド2』記載の61号窯保存センターの該当焼締壺は、過去に実見していたが、当時は前述のように”ぼけーつと”見ていたことになる。その写真を下掲する。

61号窯保存センターの焼締壺は4つの子壺がついていたようだ。以下、日本の須恵器の多嘴壺(たしこ)・子持壺の類を掲載する。

(古代出雲歴史博物館展示)

(松山市考古館展示)

(大阪府立近つ飛鳥博物館展示)

下に掲載した奈良三彩(複製品)の子持壺は、出雲市弥生の森博物館の展示品である。詳しく調べた訳ではないが、古墳時代の子持壺は奈良時代になり三彩でも作られたようである。

それにしてもシーサッチャナーライの焼締・子持壺と須恵器には、時代差が大きすぎる。子持壺は古代シリアにも存在していたようであり、中国でも古い時代のモノが存在する。シーサッチャナーライ61号窯保存センターの焼締陶の源流・出自が気になる。尚、良ければココも参照願いたい。

<了>


最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁・#37

2022-02-22 07:34:55 | 北タイ陶磁

最近見たオークション出品の東南アジア古陶磁から、カロン窯の鉄絵盤2点を紹介する。いずれも本歌(本物)である。落札価格が幾らであったかまでは確認していない。

典型的なカロンの鉄絵文様で碗と記されている。法螺貝はヒンズー神であるビシュヌの持ち物で、法螺を吹くというのは悪魔を治める意味と、ヒンズー教や仏教の法話をするという意味である。北タイの古代は中国文化のみならず、西方インド文化の影響も受けていた。その関係で法螺貝の文様はそれなりにポピュラーである。

釉薬がややカセているように見えるが、写真の程度では問題なかろう。1万円程度の落札であれば、買い物である。

器面全体に渡る絵付けは、繁辱以外のなにものでもないが、この繁辱な絵付けこそカロンの最大特徴である。この唐草文もカロンでは好んで用いられた。

轆轤の回転方向、やや白い胎土で砂噛みし、キメが粗いのもカロンの特徴である。器面にところどころみる釉薬の剥離が、やや残念である。これも本物で、箱もしつらえられ大切にされていたであろう。偽物でないのが清々しい。

<了>