世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

金海国立博物館

2014-11-24 16:39:19 | 旅行
 少し古い話であるが、2010年7月釜山へ旅をした。金首露王陵を見たくて金海へ行ったおり、金海国立博物館を見学した。博物館は日本語、中文、英語のパンフレットを用意しているが、展示物の説明はハングルが多く、英文解説は少なかった。しかし、入館料は無料で展示物もすばらしかったし、フラッシュを使わなければ撮影自由であった。次の写真は日本語パンフレットと入館券である。おりから夏休み中の小学生が多数入館している。

 話は飛ぶ、日本の国立博物館の入館券はべらぼうに高い。韓国の無料と比較し残念ながら、日本の愛国心・道徳教育は後塵を拝していると云わざるを得ない。韓国は無料にして、日本の韓国支配を喧伝し、愛国心を煽っているのである。
 話は戻る、新羅の王冠かと思うほど立派で勾玉のついた王冠がある。ここ伽耶の古墳から出土した。この黄金文化は中央アジアのスキタイとつながる。
 
 古代黒海の北岸のクリミア地方に前8世紀から3世紀までに、栄えたのがスキタイという西洋人顔の民族で、彼らが遊牧文明を発明した。最も大きな発明は、騎馬であった。じかに馬の背中に乗ることを発明したのである。乗るためには、身軽な服装が必要で、ブーツをはかなければいけない。それから、コートのような上着を着る。下はズボンをはく。これらをほぼスキタイが発明した。
 戦国時代趙の武霊王が匈奴に接する場所にいて、匈奴から圧迫を受ける。とてもあの連中にはかなわないから、我々自身が匈奴の格好をしようと胡服騎射にする。
 "金の王冠"、"金の高杯"、新羅の王冠とか、目前の王冠がどことなくスキタイ風である。黄金趣味というものがそもそもスキタイである。スキタイの動物の模様もでてくる。スキタイの動物の模様は、朝鮮半島の出土品の中で大変に多いと云われている。
 不思議なのは、朝鮮での出土品の中に勾玉が出てくることで、目前の王冠もそうなっている。いまのところ勾玉が出土するのは朝鮮と日本だけで、スキタイ趣味になぜ勾玉がつくのであろうか?・・・これについては明確な説明がいまだなされていない。
 また歩揺は、朝鮮の出土品には沢山ついているが、大月氏の遺物であろうと思われるアフガニスタン北部シバルガンの遺宝にも歩揺がついている。西方の大月氏と東方の朝鮮半島に、文化として共通したものが多々ある。
 スキタイの黄金文化ということで説明してきたが、次の写真は新羅の出土品にみられ、また日本の古墳時代に似たものが出土するが、それと似通ったものが当地、伽耶でも出土している事例である。
 日本の古墳時代に相当する新羅の黄金文化と似たような文化が伽耶の地にもあったかと思われる出土物である。左は金冠で右は歩揺である。伽耶の地における新羅とおなじような黄金文化について語る知識を持ち合わせていないので、この話はここまで。
 
 青銅鏡と共に巴形銅器が出土している。日本でも2世紀の弥生時代後期から古墳時代にかけての墳丘墓や古墳から巴形銅器が出土している。
 この写真のように日本でも九州、中国、四国の各地方でも似たような巴形銅器が出土している。伽耶のそれは巴の突起が4つに対し、写真を掲載していないが日本も4つ、5つ、7つがある。
 この突起の数の違い、そしてこの銅器そのものの目的や役割は学者により見解がことなり定説はないが、日本の古墳時代のものは木盾につけた装飾品ではなかろうか、との見方もなされている。スイジガイの外形、ゴホウラ貝の断面模様、太陽をモチーフにした、権威の象徴、邪悪を払う象徴等々の見方もあるという。
 これらに対し日本の学者からは、なるほどと思える学説はでていない。曰く太陽を模したもの、魔よけや権威の象徴との論である。小生は仏教というよりインド゛や東南アジアで云うチャクラ(法輪)、つまり煩悩を打ち砕く投躑武器を写したものであろうと考えているが、既にこれについてはインドの卍であるとの説もあるようだ。いずれにしてもこれらの説については、2-3世紀にドラビタ人の文化、つまりバラモンやヒンズー思想、さらには仏教の片鱗が伽耶の地なり、日本に及んでいたとの証明が必須と思われる。
 
 青銅器や鉄器以前の石剣である。面白いことに後世の青銅製の銅剣と同じような形状をしている。
 首飾りは水晶を研磨したものである。時代は邪馬台国と同時代の金官伽耶(狗邪韓国)である。
 
 鉄製甲冑を纏った武人も金官伽耶である。この甲冑は出土品を参考に複製したもので、邪馬台国の時代の武人も似たような格好をしていたものと思われる。当時騎馬民族の特徴であるズボン状の服を着用していたのであろう。

 
 
 左は銀製の鈎帯(よく見るのは金銅製)右は金製の耳飾りでいずれも伽耶の古墳から出土したものこれらの鈎帯や黄金文化は騎馬民族特有のものであり、朝鮮半島を経由して騎馬民族が日本へ渡来した証か?
 鈎帯の歩揺の一つに魚をモチーフにしたものがある(左写真の歩揺)。朝鮮でも紀元3-4世紀にこのように魚をモチーフ(卵が多数あることから多産で家門繁栄のしるし)にしたものが現れることから中国古来の吉祥は、この時代に朝鮮半島では慣習化していたのであろうと考える。それにしても魚の似たような装飾品はペルシャ世界にも存在し、西も東も吉祥を示すものとしてポピュラーな存在であったと思われる。
 

 金銅製の装飾をもつ環頭太刀である。これとおなじものが日本の古墳でも多数出土している。朝鮮半島も日本も同じ文化圏であったことが伺われる。
 水晶、瑪瑙の勾玉も出土している。日本の識者はこの勾玉は日本から来たものと云っているが、高句麗から出土したとは聞いていないので、日本からの渡来説はそれなりの説得力がありそうだ。

マラッカ紀行

2014-11-17 10:23:50 | 旅行
 2013年10月から2014年1月のクアラルンプール(KL)滞在中の旅行記である。KLからマラッカへの観光は、日帰り観光ツアーが便利である。我々もこのツアーを利用すれば良いのだが当時、KLに滞在して既に2か月経過しており、ツアーという安直な選択は沽券に関わると思い、かつツアー代金も380RM(約1万円強)・人と、当地の交通費の安さから比較するとベラボウである。
 そこでKLから長距離バスで行くことにした。先ずKLからMelaka(マラッカ)への行き方を紹介する。
 滞在先に近い地下鉄Ampang Park駅から地下鉄でKL Central駅へ行き、そこからKTMコミューターに乗換、4つ目のバンダータシックセラタン(Bander Tasik Selatan)駅で下車する。下車後バスターミナルまで矢印に沿って移動すると、バスターミナルのビルに到達する。

 写真上のチケット売り場でMelakaと告げれば、チケットを発行してくれる。写真のようにA,B,C・・・と窓口がわかれているが、どの窓口でもよいからMelakaと告げると、例えばA窓口に行けと云ってくれる。尚、Melaka Centralバスターミナルまで片道10RM(300円)/人でベラボウに安い。下の写真は出発時刻表と運行状況表示ボードで、購入したチケットのゲートを確認することができる。

 Melaka Centralまでは2時間。Melaka Centralバスターミナルはツインビルで、KLからのバスは長距離バスターミナルに到着するので、反対側のターミナルへ徒歩移動(3-5分)し、市街地行きのタウンバスに乗り換える。運賃は確か2RM(自信なし)程度だったと思う。

 その市街地行きは17番バスで、写真の赤バスに乗り、オランダ広場まで約20分。オランダ広場にバス停があるので、そこで降車する。観光地はこのオランダ広場周辺に集まっている。
 尚、帰るときは降車したバス停でバスに乗車する。バスは循環バスなので来た時と同じ向きのバスに乗車すると、その終点はMelaka Centralバスステーションで分かりやすい。

 マラッカは、2008年世界遺産登録された。その世界遺産はオランダ広場周辺である。それを紹介したHPやブログは沢山あるので、ここではマイナーな鄭和記念博物館と、当日概略スケッチしたフランシスコ・ザビエル像、オランダ広場時計塔を同じアングルで写真に撮り、後日彩色したスケッチを紹介する。下手な横好きで、時たま旅のスケッチを描いている。
 鄭和記念博物館は、明の鄭和が1405年に大船団を組み、遠くはアフリカまで到達したが、その途次に寄港した地である。所謂鄭和の大遠征である。そこに『マルタバン壺』が展示してある。中国の甕なり大壺が展示されているのであれば理解できるが、なぜかビルマのマルタバン壺である。鄭和もマルタバン(モッタマ)に寄港し、マルタバン壺を入手して何かを貯蔵したのであろうか?

 鄭和の大航海は東西の文物が、意図するしないにかかわらず、交流したことに意義がありそうである。

 スケッチはセントポール教会跡のザビエル像である。ザビエルはこの教会で日本人のヤジローと共に、1549年日本へ向かい宣教後、マラッカに戻ったザビエルは、中国へ布教すべくサンチャン島(上川島)で、1552年12月熱病にて殉教する。ザビエルは死後その遺骨が1553年2月、布教の拠点としていた、ここマラッカに移送されてきた地である。
 ザビエルはバスク人である。バスクはなぜか哀愁に満ちた響きを感ずる。バスクは残念ながら行ったことがない。マドリード以南は何度か訪れたが、その明るさと陽気さとは別物に感ずる。その彼が日本で布教したのである。

 オランダ広場には時計塔やスタダイスがあり、マラッカ観光の中心で、そのロータリーの橋の根元がツーリスト・センターである。観光前にここで情報と観光地図を入手されることをお勧めする。



北タイ・ナーン紀行

2014-11-16 07:40:37 | 旅行

 2013年10月から2014年1月のKL滞在中、北タイのナーンへ旅した。その目的は、ナーン古窯址を見てみたいが為である。その古窯址はHPで紹介しているので、参照して頂きたい。ここでは宿泊したホテルと、北タイの兎年守護寺院であるワット・プラタットチェーヘン、壁画で有名なワット・プーミンを紹介する。
 
 
 バンコク・ドムァン(DMK)からナーンまではNOK Airの双発機である。約1時間半でナーンへ到着した。ナーンの空港ターミナルは、田舎を代表するようなターミナルでこじんまりしている。宿泊先はナーン・トルンジャイブティックホテルで、事前予約すると到着時間を聞いてくる、空港まで迎えにくるという。間もなく約束通りワゴンで迎えに来てくれた。
 ホテルに到着すると、最近新しくできたホテルのようで、部屋はシンプルだが清潔感溢れている。バスタブ、シャワー付きで施設も良好である。但し朝食バイキングは今一歩であった。ナーンのような田舎では上出来のホテルであった。
 
 ホテルに到着したのは、午後5時頃だったので当日は見物なしにした。
 夕刻、ホテル内のレストランで食事をしていると、周囲が騒々しくなった。セキュリティーやら警察官で一杯である。どーも軍の偉いさんと政府の偉いさんが宿泊するらしい。
 食事後、明日の古窯址巡りと寺院参拝のために手配している、個人タクシーの予約について再確認した。1日1000B(3000円)だと云う。翌朝9時に来てもらうことにした。

 昨日予約確認した通り、朝9時にTAXIが迎えにきた。三菱ランサーでドライバーは教職を退職したSさんで、堪能ではないが英語ができる。
 ナーンでの行先は、順にワット・プラタットチェーヘン→ボスアック古窯址→ナーン国立博物館→ワット・プーミンである。このうちボスアック古窯址についてはHPにて紹介しているので、ワット・プラタットチェーヘンとワット・プーミンを紹介する。
 ワット・プラタットチェーヘンは北タイの生まれ年守護寺院で兎年生まれを守護する。写真がその守護チェディーである。周囲には陶磁器製の兎の置物が多数奉納されている。タイを旅行される兎年生まれの方は、是非参拝されたい。
 
 ワット・プーミンの建物は十字の形をしており、北タイの寺院建築としては珍しい。ここでは壁面を埋める壁画が有名で、そのなかでも写真の壁画が白眉である。そこに描かれた男性は作者自身ではないかと云われている。
 
 
 その男性が、多分未亡人と思われる妖艶な女性に、何か囁いている。何を囁いているのであろうか?見る者にとって想像は自由である。尚、ワット・プーミンの壁画は、http;//shigetaka55.digi2.jp/にて紹介しているので、御覧願いたい。

 バンコクに戻る飛行機の便の関係で午後2時に観光を終了した。1日1000Bの約束であったが、午後2時なので600Bで良いという。しかしながら、昼食代としてプラス200Bの800Bを渡した。感じのよいSさんであった。


チェンマイ都城建設の背景

2014-11-09 09:53:44 | チェンマイ
 ヒンズーの理想都市のあり方を記した書物として、マウリヤ朝を創始したチャンドラグプタ王(前317-293年頃)を助けた、名宰相カウティリヤが書いたとされる『アルタシャーストラ(実利論)』がある。
 その『アルタシャーストラ』には、第2巻第3章『城塞の建設』、第4章『城塞都市の建設』が記されている。それを基に、応地利明氏は都城の形態と構成を以下の如く復元した。それによると、都城の中心は神殿(寺院)であり、その北東に王宮があると云う。---(1)

 その都城を囲む環濠と城郭内には、東西南北に三大路が走る。東西南北の各面に3つの城門を持っている。

 写真はグーグル・アースから借用した、チェンマイの現在の衛星写真である。メンライ王建国当時、都城の中央にサデゥ・ムアング寺(現在のチェデイルアン寺)、サオ・インターキン(国の御柱)、その北東にチェンマン寺(王宮併設)を建立したという。
 これは応地利明氏の先の中央神域の構成図そのものである。但しチェンマイ都城は東、北、西面に一門、南面に二門と城門の数は合計五門、さらには南北軸(東西軸)が僅かに傾いており、全く同一ではないが、その構成理論を具現化したものと考えられる。
 いきなりチェンマイ都城について言及したが、理解しやすい事例から見ていきたい。

 アンコール最後の都城であるアンコール・トムは、約3km四方の都城で約8mの城壁、幅100mの濠によって囲われている。十字路によって正方形の都城がほぼ均等に分割されている。正方形の東西南北の各面中央に門を持ち、東西、南北直交する十字路の交点に、中央神殿バイヨン配するアンコール・トムの基本設計理念を『アルタシャーストラ』に求めたことは間違いない。
 バイヨンはサンスクリットで山を意味する『ギリ』の名でも呼ばれ、山岳を象徴する寺院である。ヒンズー教、仏教のコスモロジーに基づいてバイヨンは、この世界の中心山岳メール山を象徴しているのである。メール山頂上の平頂面には、宇宙創造神のブラフマンを含め神々の座が所在する。バイヨン寺院は、この神々の神聖な座を象徴するものである。
 さらにヒンズー教のコスモロジーでは、メール山を真ん中にして四囲を正方形に四つの山脈が走っている。その四山脈にあたるのが、正方形の京域を囲む切石で構築された、高さ8mの壁である。それを取り巻いて環濠がある。
 このようにアンコール・トムの構成は『アルタシャーストラ』が説く理想的な都市であると理解することができる。ただ、特徴となるのは、東門の北にもう一門、計五門あることである
 スコータイは、東西2.6km、南北約2kmの矩形をしている。三つの環濠に囲まれた東南北の各面に城門が各一門、西には二門の合計五門が配されている。東と北門は面のほぼ中央に配置されているが、南門は東に寄っている。アンコールで見たように、中央に神域を持ち東西南北の中央に門を持つ単純な形をみることはできない。
 中央部分の東に王宮が、西にはワット・マハタート(仏舎利寺院)と呼ばれる最も格式の高い寺院が並んで配置している。そして東門と北門から二つの道の交差部分に、ラック・ムアン(国の御柱)が建っている。
 ラック・ムアンはヒンズーあるいは仏教のコスモロジーの中心メール山を象徴し、アンコール朝衰退期の13世紀ころからは、バイヨン寺院に代って建設され始めたと云われる。
 都城の中心には、中心寺院とともに王宮が置かれている。つまり王権と教権のシンボルである両施設が、対等の関係で都城の核を構成していることになる。教権を表すバイヨン寺院が『中央神域』としてそびえ、それに王宮が従属していたアンコール・トムとは異なった空間構成であるが、王権はなお教権を凌駕するに至っていない。・・・として、ヒンズーの都市理念により、構築されたと布野修司氏は云う。---(2)
 尚、スコータイ都城は南北軸(東西軸)に対し、僅かに西方にずれている。チェンマイ都城が東方にずれているのと対照的である。

 話は戻るが、アンコール・トムのようなヒンズー寺院は、天上から降下し、人々のもとに親しく来臨する神の宿る空間、すなわち地上における神の『家』であり、同時にまた神と信者が交流する空間でもある。ヒンズー寺院には『マンダラ』『プルシャ』『宇宙軸』といった、インド文明の鍵となる重要なシンボルが複雑に重層している。
 『ヴァーストウ・シャーストラ』という名称で、一般的にインド風水と呼ぶ一連の建築書がある。冒頭紹介した『アルタシャーストラ』と関連を持つ。そのヴァーストウ・シャーストラの内容や、それぞれの項目の配置は、文献によって多少の異同はあるが、ほぼ共通して、寺院や家屋や王宮を建築する際の、敷地の選択の基準や、寸法のシステム、部材の種類や工法、建築物の分類、さらに地鎮祭をはじめとする建築儀礼の次第などを記している。---(2)
 この小倉泰氏の記事には、寺院や王宮について記述され、都城については言及されていないが、所謂インド風水には都城建設についても、対象に含まれていると解釈している。
 そのヴァーストウ・シャーストラには、『ヴァーストウ・プルシャ・マンダラ』という図形について記述されている。これは、まず地鎮祭儀礼のなかで地面に描かれる図形であるが、同時に寺院の平面設計の基礎となる図形でもある。その名前から明らかなように、ヒンズー寺院の二次元空間の構成理念と、インド独特の宗教図形であるマンダラの観念との密接な関連を示している。
 ヴァーストう・プルシャ・マンダラとは、建築用地を正方形にとり、その正方形を各辺9、すなわち合計81区画に分割される。そして分割されたそれぞれの区画に、それぞれ固有の神格が勧進される。---(2)

 中央の9区画には宇宙の創造主であるブラフマーが宿り、これを中心にして、東側のアリヤマン(太陽神)以下8柱の神々が宿る区画が囲んでいる。これらの神々は太陽の進行を表しているという。そして正方形の最も外側の区画には、それぞれ北東隅のアグニ以下の32柱の神々が宿っている。これらは、それぞれの方角を守護する神々や星宿の神である。従って上の図形は大宇宙の姿を模したものということになる。---(2)
 このヴァーストウ・プルシャ・マンダラには、この図形の名称の由来となっているヴァーストウ・プルシャがうつぶせに横たわっている。プルシャは人とか男を意味しており、土地に宿る精霊のようなものと考えていいが、その身体のそれぞれの部位の上には、ヴァーストウ・プルシャ・マンダラに宿る神々が位置している。

 例えば、頭にはアグニ(火神)が、口にはアーパス(水の女神)という具合である。つまり、ヴァーストウ・プルシャ・マンダラとは、建設用地の上にうつぶせに横たわるヴァーストウ・プルシャの身体の上に神々が乗って、これを押さえつけている姿を表していることになる。
 ヴァーストウ・プルシャは、原初の天と地を身体で覆っていた一種の魔物であり、それを神々たちが捕えて、うつ伏せに組み敷き、それぞれの神が魔物の身体のそれぞれの部位を押さえつけると、創造主はこれをヴァーストウ・プルシャという土地を守護する一種の精霊をなしたという。この魔物が原初のカオスを象徴していると考えれば、ヴァーストウ・プルシャ・マンダラという図形は、神々がカオスを統御することによって秩序づけられた空間が創世された、という太古の神話的出来事を視覚化したものといえる。そしてヴァーストウ・プルシャを含むこの図形は、仏教寺院に描かれているようなマンダラと同じく、大宇宙の模式図としての性格をもっている。
 この図形が実際の建物の敷地の上にも描かれるということは、寺院の平面という二次元空間がそれ自体、大宇宙の縮図であることを意味している。後代のヴァーストウ・シャーストラは、この図形をあたかも方眼紙の設計グリットのように用いて、平面設計を行う手順を具体的に記している(所謂インド風水)。---(2)

 中央は記載されていないが、ケートゥ(計都)で何やら中国の九曜、所謂宿曜道より派生した中国風水と同じではないか・・・との印象をもつ。

 以上、縷々長々と記述してきたが、アンコール、スコータイ、チェンマイの都城建設にあたっての根本思想はインド思想であったことを説明してきた。しかしそれでは説明のつかない不可思議な点がある。
 応地利明氏によればアルタシャーストラは、理想的な都城として各方位3門を持つ姿で復元しておられる。忠実に具現化していると思われるアンコールは、それに対し1門であるが、なぜか東辺のみ2門である。同様なことはスコータイやチェンマイでも発生している。

 またスコータイは東西軸に対して僅か西方にずれており、チェンマイは東方に僅かにずれている。これらの点は何を物語るのか、文献は何も示していない。

 しかし、これはチェンマイで発刊されている日本語情報誌『CHAO』225号の記事を参考に、当該ブロガーの勝手な推測だが、各地に2門設置された方位が、インド風水で鬼門に相当すると考えられ、その鬼門封じというか鬼門避けのための2門だと、想定している。また僅かの方位のずれは、CHAO225号記載のとおり、運気の通りを良くするためのものと考えられる。


参考文献
1)インドと中国―それぞれの文明の『かたち』 応地利明 2012年2月イスラム世
  界研究 第5巻所収
2)ヒンズー寺院のシンボリズム 小倉泰 東洋美術全集 インド(2)所収
3)曼荼羅都市 布野修司 京都大学学術出版会刊
4)CHAO 225号 2012年08月25日発行
5)CHAO 039号 2004年11月25日発行
6)http://chandash21.astro459.com/ 
7)http://www.geocities.jp/goldeneggfamily4/details1014.html



チェンマイ都城は中国風水か?

2014-11-06 13:27:21 | チェンマイ
 チェンマイに『CHAO』なる無料の日本語情報誌がある。いきなり横道で恐縮である。中国では上海と無錫しか知らないが、マニラ、セブ、シンガポール、バンコク、クアラルンプール、ハノイ、ホノルルの日本語情報誌の中で、このCHAOの質の高さは群を抜いている。地域密着の足で稼ぐ地道な、質の高い情報と云うか記事に彩られている。

 2012年8月25日発行の第225号に、『風水師チェンマイを行く!』との特集記事が掲載されている。記事は、NY在住の日本人風水師S氏が、チェンマイの都つくりの秘密に迫るとして、中国風水(玄空飛星派)での謎解きの噺である。
 
 この玄空飛星派風水が歴史上、何時まで遡るか不勉強で承知しないが、S氏の見立てを以下、概要ながら紹介する。『北、東、西の城壁にはそれぞれ、門が中央辺りに1箇所あるのに対し、南だけが中央を外して2箇所設けられている。これは、運気が20年毎に変わるという玄空飛星派風水によると、建国時の1296年4月は南に悪しき気の流れがあったと云う。そして、南西が吉方位であり、その方角に門が設けられているという。
 またS氏によると、旧市街が南北軸に対して、僅かに傾いているのは、『良い気』が流れ込む方角だという。』
・・・以上が見立ての結果である。
 その見立てのとき、羅盤と共に風水で用いる9つの升目にS氏は、何やら数字を書き込んでいたと“記事”は紹介している。それと同じような升目が、各門の石碑に描かれており、それを中国風水による一つの根拠としている。


 写真は、都城の南西にあたるスアンプルン門の石碑である。なるほど9つの升目に数字が描きこんである。これを見ていると、中国風水と思えなくもない。
 しかし、中国風水と云えば、なぜ現在地に都城を建設したのであろうか? 都城を建設するからには、いわゆる四神相応の地である必要がある。四神相応の地とは、背後に山、前方に海ないしは湖沼、河川などの水が配置されている背山臨水の地を、左右から砂と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで、蔵風聚水の形態となっているものをいう。この場合の四神は背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。
 チェンマイ都城の位置はドイ・ステープ(ステープ山)の東麓で、都城の東にはピン川が流れているが、どう見ても四神相応の地とは思えない。都城の位置選定に中国風水の影響が覗えない中で、都城の建設は中国風水によると指摘されてもピンとこない。

 話は飛ぶ。写真を見て頂きたい。これもチェンマイ発刊のフリー・ペーパー『SUVANNAPHOUM September 2008』の記事に添えられている写真である。

 指に隠れているが、ヤントラ(神聖な図形)の刺青で、その図形は9つの升目となっている。『SUVANNAPHOUM September 2008』によると、アンコール時代にカンボジアで始まった仏教やバラモン僧侶によって彫られる刺青は、御守りの役目を果たしていた。インドのヒンズー圏で普及していたヤントラの文様は、仏教と一緒にクメール人に受け入れられていった。ヤントラの中には仏教の前身でもあるシャーマニズムや動物の神から生まれたものもあった。炭やイカ墨から採られる墨とハーブ、樹液、水牛の胆汁を混ぜた原料はヤントラに秘められた魔力を呼び起こす儀式で呪文に反応すると信じられていたと云う・・・と、このように解説されている。
 9つの升目は、中国風水というよりも、古来からのインドの影響と考えることができ、こちらとのつながりで、チェンマイ都城は建設されたと考える方が、妥当性が高いように思われる。

参考文献
 CHAO225号 2012年8月25日発行
 SUVANNAPHOUM 2008年9月発行