世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

二度目の宮崎紀行

2024-06-08 08:33:40 | 旅行

今年二度目の宮崎、その足跡を記しておく。やはり宮崎は南国で、その証のようなものを見た、それは後程紹介するとして、行程順に記すことにする。

関門橋 門司側より写す

向かいは下関 海峡ゆめタワーを望む

霧島 宮崎道霧島SAより

ジャカランダ・南米原産 橘通り

やや見辛いが、南米原産のジャカランダと呼ぶ、紫色の花を咲かせる花木が並んでいる。

ブーゲンビリアに覆われる空港ビル 宮崎空港にて

ホリデーインリゾート青島

青島

鵜戸神宮

祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。宮崎は神武天皇が東征出発の地で天孫族をまつる神社が多い。

皇宮神社

皇宮神社は宮崎神宮の本宮で、社殿は神明造りである。棟持ち柱構造で、弥生時代の棟持ち柱を持つ高床式建物の特徴を引き継いでいる。

以下、生目の杜遊古館展示物2点を紹介する。一つは宮崎特有の埴輪で、円筒埴輪の変形ないしは小型版である。

騎馬民族と思われる馬具や武具、装身具が出土している、その中の金製垂飾付耳飾である。

日南の飫肥城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えた。1572年、伊東義祐と島津義弘が戦った木崎原合戦で、島津義弘の「釣り野伏せ」にて伊東義祐は大敗するが、秀吉の九州平定により島津氏は、日向国の伊東氏旧領を明け渡し、伊東氏は10年越しに復帰することになった。

飫肥城大手門

伊東義祐を引き継いだ祐兵(すけたけ)の鎧兜

帰路は東九州自動車道を北上。途中宇佐から豊後高田へ。昨年訪れた時に週一の休みであった”そば処響”へ。石丸健二郎し兄君経営のソバ店である。

美味であった。ソバは我が出雲と信州、越前がよいが、響きも負けず劣らずであった。

<了>

 

 


京都・二題

2024-04-19 08:14:41 | 旅行

ブログは間をおいて飛び飛びに記している。肩の痛みからであるが、記すのみでフォローいただいている各位のブログに訪問をしておらず、失礼を続けている。暫くそのようにしたく、お詫び申しあげます。

過日、京都へ2泊3日で行ってきた。先ずは御所西側で烏丸通りに面する虎屋。店舗の後ろが菓寮となっている。20年振りであろうか。庭といっても築山があるわけでもないが、桜を見ることができたが満開は過ぎていた。

古代の赤と黒を求めて西院の春日神社に寄ってみた。春日神社や春日大社と云えば、阿倍仲麻呂(中国名・朝衡)を思い出す。

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

天平勝宝五年(753)53歳の阿倍仲麻呂が唐より帰国する船出前に詠んだと云われている。その15年後の神護景雲二年(768)に春日大社は創建された。中臣氏・藤原氏の氏神として建御賀豆智命、伊波伊主命、天児屋根命、比売神の四柱の神々である。

春日権現霊験記絵巻によれば、赤と黒に塗られた鳥居と瑞垣が描かれている。奈良まで行けばその姿を、現実に見ることはできるが時間がない。そこで西院の春日神社である。

春日神社は天長十年(833)二月二十八日淳和天皇が仁明天皇に譲位され、淳和院(西院)に移られたとき、勅諚により奈良春日四座大神を勧請し、守護神とされたのが始まりであるという。参拝すると若宮でそれを見ることができた。

瑞垣を見ると、先端を山形に尖らせ、その部分を三角形状に黒塗りした縦板を連接して並べている。この三角形状は僻邪文に外ならず、黒と赤(朱)は古代以来の聖なる色とされている。

それが奈良時代の春日大社に用いられ、ここ春日神社でも踏襲されていたのである。この赤と黒は古代以来の汎アジア的色彩であった。そのことについては、別途記事にしたいと考えている。

<了>


古代『タ二ハ(丹波)王国』を巡り京都へ

2023-10-19 08:54:30 | 旅行

過日、3カ月ぶりの京都である。今回は古代タ二ハ王国の故地である但馬、丹後経由で行くことにした。

出石神社

但馬一之宮。天日槍(あめのひぼこ)を祀る。垂仁朝に奉持していた八種(やくさ)の神宝を八前大神として祀ったとされる。天日槍は新羅から渡来したとされる。天日槍の子孫が田道間守(たじまもり)とされている。

『播磨国風土記』は、天日槍と葦原志許乎命(大国主命)が宍粟の土地を巡って争ったと記している。その後、播磨国宍粟邑から莵道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑に滞在し、近江から若狭を経て但馬国に至ったと云う。

田舎・出雲から山陰道経由で海をみながら但馬に至ると、天日槍は何故、瀬戸内経由但馬に至ったのか理解できない。新羅からダイレクトに但馬に至るのが筋道と思われるが・・・。

袴狭(はかざ)遺跡出土線刻板絵 4世紀初

いずし古代学習館にて上掲の板絵を見た。大船団の板絵の一部を拡大して写した。上掲の天日槍もこのような船団を組織して、新羅から但馬に渡海したものと思いたい。

辰鼓楼

出石と云えば、辰鼓楼と出石蕎麦。辰鼓楼は出石城三の丸大手門脇の櫓台に、時刻を知らせる太鼓を叩く櫓として建てられたとのこと。出雲蕎麦の味に慣れている者にとっては、出石蕎麦はイマイチか。

立岩

間人(はしうど)皇后と聖徳太子幼年像

伝承によれば、第31代・用明天皇の后である間人皇后とその子・聖徳太子が、この地で鬼退治をした時、一夜のうちに天から降りてきて、この大岩に鬼を封じ込めたという。柱状節理が素晴らしい。

与謝野町立古墳公園 作山1号墳から2号墳方向を望む

これが見たかった。温江(あつえ)遺跡出土の鶏冠人面土器片(弥生後期)である。鳥装の人たちが南海から丹後半島に遣って来たとの想念に駆られた。

元伊勢・籠神社

倭宿祢命像

倭宿祢命は彦火明命(海部宮司家先祖)4代目にあたり、神武東征伝承で神武が明石海峡に到着したとき、亀に乗って現れ案内をしたという。

京・太秦 木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社

元糺ノ池の三柱鳥居

木嶋坐天照御魂神社は別名・『蚕の社』とされている。それは本殿の右側に養蚕神社が建っていることによる。秦氏との関連が取沙汰されている。

三柱鳥居は大変珍しい。泉が湧く場所を神の宿る場所として鳥居で囲んだ。祭神である天御中主神が降臨する処と云われている。

 

<了>


中津城

2023-03-10 07:07:14 | 旅行

中津市歴史博物館は中津城址の一画に在った。折角だから城址に再建された復興天守をパチリ。

黒田官兵衛(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。 享保2年(1717)からは、奥平家の居城となった。

官兵衛はしたたかだ。秀吉の軍師となり天下をとらせた後は、豊前中津に冊封された。『関ケ原』では、九州の西軍方を攻める。決着がつくと長政が博多に転封され、城は細川忠興が完成させた。その城も忠興が小倉に築城するに及び、小笠原家をへて奥平家の居城となった。その復興天守である。山川の河口に築城されている。旅の一葉であった。

<了>


5か月ぶりの福岡へ

2023-03-06 08:29:48 | 旅行

昨年10月、8日間を費やして福岡ほか北・中部九州を回った。以来、5か月ぶりの福岡である。目的は2つ。福岡市美術館で本多コレクションの東南アジア陶磁をはじめ、東南アジアの仏教関連遺物などを展示する企画展『東南アジア美術を旅する タイ、カンボジア、ミャンマー』の観覧と、九州国立博物館の特別展『伽耶』の観覧のためである。

東南アジア古陶磁に関する展覧会は、東京以北には出かけにくいが、東京以西であれば何処にでもでかけるほど、楽しみにしている。福岡市美術館は本多コレクションを所蔵しており、その展覧会は10数年ぶりである。

弥生期の文化は稲作に繋がる文化で、朝鮮半島南部を経由したり、江南から直接伝播した。古墳時代にいたり朝鮮半島南部との繫がりが強くなる。中でも伽耶との繫がりは強く、伽耶からの一方的な伝播ではなく、相互に影響しあった。それらの文物が展示されるので大いに興味がある。

<了>