世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

出雲の赤と黒

2024-04-29 08:54:35 | 古代出雲

過日、出雲弥生の森博物館にて『2024春季企画展』をみた。展示内容は”出雲の赤と黒”というべき内容であった。赤と黒は古来、聖なる色彩とされ、それは汎アジア的とされている。つまり災いを除く僻邪的色彩であった。その赤と黒は、我が出雲でも縄文時代から用いられていた。企画展で紹介されていた『赤と黒』を紹介する。

出雲市・京田遺跡(縄文後期)出土土器片

縄文時代の土器は、野焼きによる燻焼であったかと思われる。京田遺跡(約4000年前)出土の水銀朱が付着した土器片をみると、土器の表面は炭素が沈着し、磨かれて光沢がある。これが出雲における縄文期の”赤と黒”の代表例かと思われる。

キャップションというか説明ボードによれば、京田遺跡の水銀朱は北海道南西部のモノとのこと。直接か間接入手かは別として、縄文時代の交易がとてつもない広範囲であったことになる。

弥生時代の”赤と黒”である。順不同であるが展示に従って黒から紹介する。

出雲市・矢野遺跡 弥生前期

次は弥生時代の赤である。

水銀朱盾・出雲市海上遺跡出土 弥生時代中期

西谷3号墓第1埋葬施設の水銀朱

西谷3号墓には、八つの埋葬施設があり、4点の木棺の底に水銀朱が敷き詰められていた。その重量は約29kgで、従来は中国・陝西省産と推測されていたが、分析の結果北海道と岐阜県の鉱山産に近いという。

次に古墳時代の赤である(黒は省略)。

上塩冶築山古墳といえば金銅冠が名高いが、金銀装捩環頭大刀が出土している。それを分析すると、赤鞘大刀であることが判明した。その復元品が展示されていたが、何と鮮やかであろうか。古代の貴人は聖なる色で飾っていたことになる。

 

<了>


京都・二題

2024-04-19 08:14:41 | 旅行

ブログは間をおいて飛び飛びに記している。肩の痛みからであるが、記すのみでフォローいただいている各位のブログに訪問をしておらず、失礼を続けている。暫くそのようにしたく、お詫び申しあげます。

過日、京都へ2泊3日で行ってきた。先ずは御所西側で烏丸通りに面する虎屋。店舗の後ろが菓寮となっている。20年振りであろうか。庭といっても築山があるわけでもないが、桜を見ることができたが満開は過ぎていた。

古代の赤と黒を求めて西院の春日神社に寄ってみた。春日神社や春日大社と云えば、阿倍仲麻呂(中国名・朝衡)を思い出す。

 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも

天平勝宝五年(753)53歳の阿倍仲麻呂が唐より帰国する船出前に詠んだと云われている。その15年後の神護景雲二年(768)に春日大社は創建された。中臣氏・藤原氏の氏神として建御賀豆智命、伊波伊主命、天児屋根命、比売神の四柱の神々である。

春日権現霊験記絵巻によれば、赤と黒に塗られた鳥居と瑞垣が描かれている。奈良まで行けばその姿を、現実に見ることはできるが時間がない。そこで西院の春日神社である。

春日神社は天長十年(833)二月二十八日淳和天皇が仁明天皇に譲位され、淳和院(西院)に移られたとき、勅諚により奈良春日四座大神を勧請し、守護神とされたのが始まりであるという。参拝すると若宮でそれを見ることができた。

瑞垣を見ると、先端を山形に尖らせ、その部分を三角形状に黒塗りした縦板を連接して並べている。この三角形状は僻邪文に外ならず、黒と赤(朱)は古代以来の聖なる色とされている。

それが奈良時代の春日大社に用いられ、ここ春日神社でも踏襲されていたのである。この赤と黒は古代以来の汎アジア的色彩であった。そのことについては、別途記事にしたいと考えている。

<了>


50年振りの宮崎

2024-04-08 08:44:24 | 日記

ブログを休止して実に72日振りである。肩凝り・痛みの為せる業で、種々試してみたものの結局、パソコンを使わないこと、肩ほぐし体操の2点がよさそうだ。アリナミンEXαやアリナミンメディカル、整形外科医の診察と治療などは全く効き目がなかった。

過日、孫が宮崎大学に入学するというので出かけてみた。宮崎は実に50年ぶりである。大学の学舎の写真を掲げて、今回の記事は終わりにしたい。

<了>